偉人『フリドリッヒ・フレーベル No.2』
先週金曜日に偉人『フリドリッヒ・フレーベル No.1』(記事はこちら)について記したが、なかなかフレーベルがモンテッソーリのように保育教育や家庭教育に浸透しないのか不思議に感じている親御さんもおられるであろう。保育を学んだ親御さんならばその学びの中で明治9年に東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)の創設と同時に導入されたが、日本の近代化政策と「国民国家の形成」への優先、恩物中心の教育方法が日本の幼児教育文化と合致しなかった、理念は取り入れたが全体としての体系を運用できなかったなどの理由で明治時代に普及ができなかったことをご存知だろう。そして私の感覚ではフレーベルの教育法を個別に書籍などを通して学ぼうとしても、想像力豊かに解釈をしなければ理解に結びつかないというハードルの高さが浸透に繋がらないと考えている。しかしそれではフレーベルの中に存在する子供達の能力を伸ばす本物の遊びと学びをみすみす捨てているようなもので大変勿体無い状態が続いている。フレーベルが何を大切にしたのかを紐解き、現代の子育てに活かす3つの論点を今回は述べることにする。
フリドリッヒ・フレーベルは幼児期の重要性に目覚め、人間の教育について何冊も書けるはずの内容突き止めておきながら、彼は生涯において幼児期の書籍を1冊しか書いていない。つまりフレーベルにとって最も重要だった教育は、幼児教育でその場が家庭であると考えていた。がしかし産業革命により職を失う者が増え、母親までも働きに出なければ家庭生活を維持することができなくなったのである。そこでフレーベルは家庭内での保育が難しくなったのであれば、家庭教育の補助を行おうと幼稚園を創設したのだ。これが世界初の幼稚園設立につながった。もともとフレーベルは母親の教育を目指していたのであるが時代の影響を受け新しい考えに至ったようである。
ここでフレーベルという人物の最大の特長を記しておこう。
フレーベル=常に何かを考えていた人物であり、考えたことを行動に移すことになんの抵抗も感じない人物=行動力のある人物であった。このフレーベルの特長は良くも悪くも目立つものではなく、特に優れている特長の意味を持ち、親御さんにも常に子供の様子を見てどう育てたら子供の能力を最大に引き出すことができるのかを考え、行動に移すことができるようになっていただけたらと考える。私の意見を求めて行動し完結するよりも、自ら子供を受容し親として考えることで多くのことが見え、色々な関係性を認知することで納得できるようになり、私の意図している方向性を予測することもできる。親子は鏡合わせであるから親が変われば自然と子供も変わるのだ。
実はフレーベルは実践を重んじていた人物で子供との関わりから学びとることを実践し、思い立ったら行動に起こし子どもの「内なる成長力」を信じるという視点に常に立っていた。子供は本来、内側から育つ力を持ち大人が教え込むのではなく、子供自身が成長しようとする力を信じて見守ることが重要であると説いた。これが現代では忘れられがちな核心部である。私も子供が小さい頃は頭では理解していてもついつい子供の行動を待てず思わず手が、口が・・・ということもあったが、思い切って清水の舞台から飛び降りる覚悟で決断したこともあった。すると子供のうちなる成長を発揮し良い方向へと変化したのである。そこからかなりの距離をとっての傍観者となり、フレーベルの提唱していることが真実であることを理解することができた。まずこのことを彼の人生から学んでほしい。
次に学ぶべきことはフレーベルが教育者になったかということである。
母の記憶を持たずに育ち、母代わりの使用人や継母はいたものの無条件でフレーベルを愛してくれた人はおらず、早い段階での母の喪失を味わい心に中に寂しさを感じていた。また父との生活で受けた厳しさは孤独、疎外感、自己肯定感の欠如などを育んでしまった。つまり子供の育ちは無条件で受け入れて愛してくれる母と子の関係性を真っ先に構築すべき乳児期にそれが欠如し、社会性を育む父との関係性に移行したためにフレーベルはおよそ20年間苦々しい思いを味わった。その実体験を通してフレーベルは「母と子の絆」を強く重視し、「母親の愛情の欠如」は後の彼の思想に深い影響を与え、母子の触れ合いや家庭のぬくもりの重要性を強調する理由につながったと言われている。
「幼児は愛情のある環境で育つべき」という強いフレーベルの信念は、自身が愛情に飢えた幼少期を過ごしたことに起因するが、その後叔父家庭に引き取られ暖かな環境で過ごした4年の年月で、子どもが安心して成長できる環境を作る重要性に気付き、家庭に於ける安らぎの場所や自然の中でのびのびと穏やかに過ごせる環境、何より愛情に包まれながら育つ場所を幼稚園の中に創ろうと奮闘したのである。また母親(家庭)教育の重視の中で『母の歌と遊戯』(Mother-Play)を著し、母と子の関係の大切さを示した書籍が残されている。母親の愛情に飢えた子供本人が大人になり提唱し実行に移したのだから説得力がある。現代も多くの保育・教育者やその研究にあたられている専門職の人々が同じことを述べているのだから時代が変わろうともその教えに変化がないことが、子供にとり何が重要なのかは明らかである。そう考えると子供に真っ先に必要なのは母親の愛情、そして父親や周りの大人の愛情、そして社会性を教える父性の厳しさである。
最後にここがフレーベル教育の大きな要である。実は我が子供が使用したフレーベルの積み木を教室ようにと貸し出しているが、一向に人気が無い。「貸し出しができますよ」と伝えても積極的に借りるご家庭はあまりない。知育玩具なら皆さんこぞって借りようとするのにどうしたなのか???有名人が使っていたものといえば飛び付かれるのだが・・・しかしこのフレーベルの積み木でとことん遊んだ子供は空間認知力が高く、発想力も豊かで集中力にも長けているのに・・・口惜しいものだ。
フレーベルは遊びを通して「手を使うこと」「自然に触れること」「生活に結びついた活動」を重視することを説き、遊びを「学びそのもの」と捉え、遊びの中には創造性、社会性、問題解決力、感情の調整がすべて含まれているとしている。ところが現代ではデジタル中心の体験や室内遊び、受動的な遊びの増加で五感を使ったリアルな体験が減っているのだ。つまりフレーベルが提唱した遊びが減り、親は賢くなるために誰かが良いと言ったものを与えていればどうにかなると考えている。私がお母様方に繰り返し伝えているのは、良いとされるおもちゃや本を買って与えて安心すること勿れ、当教室に通って能力が大きく開花すると思うこと勿れ、貪欲に親が子育てを楽しみおもちゃや本を、そして私を上手く使華や杖欲しいものだ。
ではフレーベルの積み木の話に戻ろう。フレーベルが幼児教育のために開発した教材には、球・立方体・円柱・積み木などが含まれる『恩物』と呼ばれるものがあり、子供の感覚や創造性を育てる目的で体系的に作られ、現代の積み木教育の原型となっているものがある。(恩物については年明け2026年の1月よりおもちゃ記事で取り上げる予定だ。)
しかし多くの母親は積み木遊びなどの遊びをしてこなかったことで、子供にどのように遊ばせばよいのかが分からない。よって積み木を差し出し「はいどうぞ、触っていいよ、遊んでごらん」でただただ傍観する。フレーベルは大人が楽しんでいる姿を見せよ、遊ぶことができる親に慣れと提唱している。フレーベルがモンテッソーリーのように現代に浸透していかないのは、モンテの様に分かり易く短時間で目にみえる成功体験が得られないということなのだろうが、我々親が本当に直視しその学びの深さを知ろうとすべきは、フレーベルのような秩序の中にある関係性を見つけ出すことであり、時間が大変かかる取り組みである。がこの時間のかかる遊びの中にあるものこそ大切にしなければならないものだ。実は生活のあらゆる面でフレーベルの遊びと子供の能力は繋がり、その見方捉え方は無限な発想を生み出す可能性があることを親が考えていなければならないと考える。
以前ある子供とこの様な会話をした経験がある。「この球体っていろんなところにあるよね。例えばボールでしょ、道路の横にあるエクステリアの上に丸い形が乗っかってるでしょ、トマトの細胞も丸だったし、ギリシャのサントリーニの青い屋根も丸かったし、地球も丸い。宇宙全体とももしかしたら丸いのかな?」と。フレーベルの遊びの中にはこのような気付きや想像力が天と点を結びつけ、関係性を見出させるすのだと考えている。すると不思議なもので立方体や直方体など様々な積み木で球体は作れないかと試行錯誤したりするのである。「それは無理なんじゃない?そもそも曲線部分ないし」と伝えては身も蓋もない。ここでフレーベルならどうする?と考える親であってほしいのだ。どうしても煮詰まったら日本の木樽はどのように作られているのか、モスクの天井やバチカンの螺旋階段はどのように作られているのかなど少々のヒントとを与えてもよいだろう。これがフレーベルのいうところの子供の成長を共につくり出す協力者である。フレーベルの言わんとしていることは親や大人は先ず楽しんで遊ぶことを子供に見せ、「教える人」ではなく「寄り添う人」であれということだ。つまり現代の忙しさや成果主義の中で失われがちなゆっくり、自然に、子どもを信じて育てる教育これこそが「現代人が忘れたフレーベル教育」であり、それをせずにほんものに出会えだろうかと今一度足元を見直してみてはいかがであろうか。