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キャンピングカーで日本一周

2月22日 大島郡和泊町[沖永良部島]→ 奄美市[奄美大島]

2019.03.02 14:46


積雲流るる雨上がりの朝。



お世話になった駐車場をあとにし、島の北端、国頭岬に向けて走る。


左手に海を望む、マルチで覆われた広大な里芋畑。


布のようなもので畑を囲っているのは、風よけのためだろう。


全面を布で覆っている畑もある。


おそらくコストをかける価値のある、ユリなどの換金作物が栽培されているのだろう。




岬に行く途中にある国頭小学校の校庭には、「日本一のガジュマルの木」がある。


職員室のガラス越しに校長先生が「どうぞ、どうぞ」とのジェスチャー。


軽く会釈をして、その巨木を拝見しに校庭へと入る。


校舎からは、子供達の元気な朗読の声が響いている。


慣れたもので、誰一人として我々侵入者を珍しがる者はいない。


町の観光スポットなので、ごく当たり前の光景なのだろう。



ガジュマルは気根が枝から垂れ下がって地面に達し、別の木の幹のように太くなる。


まるで、一人の王様を何人もの家来が周囲から支えているような、複雑な姿であった。






岬の灯台が見える、と思ったら、いきなり真っ赤な鳥居が出現。



岬の近くには、沖永良部飛行場がある。 



その周りを回り込むようにして、和泊港方面に下る。



道中、耳付池という大きな溜池があった。 



この島では、生活用水は水道と井戸だが、農業用水、特に使用量の多い花卉栽培などで、溜池はまだまだ現役である。




路肩に特産のユリの花が可憐に咲いている場所があった。




車を停めて写真を撮っていると、男性が「観光ですか?」と声をかけてくる。


「ええ、日本一周の最中でして」と答えると、


「ブログとかやってるんですか?」とやや珍しい質問。


自動車修理関係の仕事をしているということで、キャンピングカーに相当興味があるようだった。


いろいろ話したそうだったが、島特有のスコールが襲ってきたので、慌てて車に戻る。



昨日今日で島をほぼ一周し終えたところで和泊港に到着。


近くの駐車場に車を停め、「南洲神社」へと参拝する。



ここは、大政奉還間近の1864年から1年半、この島に流刑になった西郷隆盛を祀る神社である。


一般的に観光客が訪れるのは、この神社ではなく、道を挟んだ反対側の「西郷南洲記念館」のほう。




1864年8月14日、藩主・島津久光の怒りを買った西郷は、徳之島を経由して、ここ沖永良部島に流されてきた。


34歳、彼にとっては奄美大島に続く2度目の流罪である。


記念館の敷地には、西郷が収容された格子牢が再現されている。





何故か島の役人には彼の到着が事前に知らされていなかったため、急拵えの格子牢を建て収容した。


4畳半ほどの格子牢は、当時は便所と小さな炉、板屏風があったそうだが、ほぼ吹きっさらし。


座禅を組む西郷の銅像は痩せていて、上野の山の西郷さんとは似ても似つかない。


西郷は、見張りの役人に朝だけ飯を炊かせ、昼と夜は湯を沸かして冷や飯にかけて食べた。


あとは静座と読書で過ごす彼は、毎日を自分にとっての修行と考えていたらしいが、身体は日に日に衰弱し、銅像のように痩せてしまったのだろう。




「敬天愛人(天を敬い、人を愛す)」という西郷の思想は、この時に得られたと言われている。


当時牢役人だった土持政照は、日に日に衰弱する西郷を心配し、上役に掛け合って新たな座敷牢を作ることを提案する。


そして完成までの1ヶ月ほどの間、西郷を自宅に住まわせた。


政照の母と妻の親身な世話により、西郷は健康を取り戻し、島の子供達に学問を教えたり、社倉趣意書(食糧備蓄計画)を提案したり、村長・諸役人の心得を執筆したりと、沖永良部島の将来ために力を注ぐ。


これは、普通の政治犯が出来ることではない。


そして、日頃の政照の計らいに深く感謝した西郷は、彼と義兄弟の契りを結ぶことを提案する。



年長だった西郷が兄貴分、ということになった。記念館には、その様子が人形で再現されている。


1年半ののち、西郷が赦免されて鹿児島に戻ってからも、彼は政照の恩を忘れることはなかった。



倒幕運動の中心となって活躍していた西郷が、激務の合間に政照に宛てた手紙が残されている。


その抜粋が展示されていたが、感謝の気持ちのこもった暖かい文面である。


記念館では、館長さんが率先して解説を買って出てくれた。


博学の館長さんの解説は有り難いのだが、説明が細かく、しかも早口。


茨城から来たと伝えると、安政の大獄の井伊直弼を暗殺したのは、一人を除いて水戸藩だった、という話から、その周辺のトリビアを色々と教えてくれる。


「それって西郷さんと関係ないよね」と思ったが、熱心な館長さんを前に、こちらも辛抱強く話を聞くしかない。


展示物の中では、西郷と川口雪篷の書が特に貴重である。



雪篷は西郷と同じ時期に島の別の村に住んでいた流人だ。


陽明学を極め、詩人でもあったが、書の達人でもあった。



政照を通じて彼と知り合った西郷は意気投合し、酒を酌み交わし、天下国家などを語り合った。西郷は彼から書を学んだ。


二人の書(どれも達筆)が島の村人の家に残されており、現在この記念館で見ることができる。




昼近くになったところで、記念館をあとにし、船の状況を確認するため、昨日予約を入れた山田海陸航空に電話をする。



「和泊港に寄港できますので、予定通り出港します」との話。


ほっと胸を撫で下ろす。


Aコープで船旅用の食材を買い足し、昼寝をしてから、港に戻って乗船手続き。



14時40分、定刻に和泊港を出港。


今回はマルエーフェリーだが、沖縄に行く時に乗ったマリックスラインとは船内のレイアウトがちょっと違う。


2等船室は、マリックスはただの雑魚寝だが、マルエーは頭の部分が囲い棚で隠れるようになっていて、辛うじてプライベートな空間を保つことが出来るので、有難い。



徳之島を経由して、20時40分に奄美大島の名瀬新港に到着。


奄美市は比較的大きな街だが、上陸した時の印象は、やはり街灯が少なく、うす暗い。


ここから島で唯一の道の駅まで、20kmの夜道をひた走る。


国道58号は街灯が少なく、道の脇から張り出す木々の枝がよく見えない。


キャンピングカーの頭がこすらないかと心配しながらのろのろ走っていると、しびれを切らした地元の車がどんどん追い越していく。


途中とても長いトンネルを越えて、道の駅「奄美大島住用」になんとか到着。


急に叩きつけるようなスコールがあるが、ほどなくして止む。


カエルの鳴き声に聴き入っているうちに、眠りについた。