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Fashion Source: Art of Being

🌙 Johnny Depp: A Bunch of Stuff — 初日のカオスへ

2025.11.28 13:09

 ジョニー・デップの個展情報は、突然SNSのタイムラインに流れ込んできた。その瞬間、「えっ、日本で?しかも家から近い」。すぐにチケットを買おうとしたけれど、システムがまるで動かない。○を押しても×になる。空いているはずなのに、入れない。

 結果、やっと買えたのは一週間後の枠。しかし当日、ポスターを見てびっくりした。

──今日が初日だった。

しかも、貼り方があまりに急で、ガラスの上に貼ったビニールテープが見えている。会場の柱の説明のシールも今貼られていた。文字通り「さっきオープンしました!」の空気が漂っていた。

だけど会場に着いてまず驚いたのは、チケット時間関係なく、40分以上並ぶほどの激混み。なぜそんなに遅くなるのか理由がわからない。お客さんも、いつもの美術館のあの“静かな人たち”ではない。ジョニー・デップ愛が濃すぎる人たち。外国人も多いし、ロックな空気を纏った人、ウエスタンハットをかぶったジョニー・デップ崇拝系のおじさま、“熱量で来ている人たち”ばかり。

なんというか、「アートを見に来た人」じゃなくて「ジョニーの宇宙に入ろうとしている人」の集まりだった。


最初の部屋に放り込まれる“ジョニーの内面”

最初に通されたのは、赤いカーテンが重く垂れた部屋。そこでいきなり目に飛び込んでくるのが——

📌 “QUESTION EVERYTHING!”

📌 “IF THERE IS DOUBT, THERE IS NO DOUBT”

という、手書きの叫びのような言葉たち。黒いペンで荒々しく、しかし妙に整っている。“怒りでも皮肉でもなく、真剣な祈りのような文字”。筆跡の温度がそのまま残っている。


ガラクタのようでいて、世界観の核になっている“作業台の部屋”

さらに奥に進むと、アンティークの木製デスクが置かれ、そこにはタイプライター、数字「13」のプレート、古いルーペ、人形、小物…普通の人が見たら“ガラクタ”、でも明らかにデップ本人にとっては“世界をつくる道具”。

そしてその横のショーケースの下には、ポピー柄のじゅうたんが敷かれている。赤い花の柄が、ロックな雰囲気の中に不意に“柔らかさ”を差し込んでいて、展示空間そのものが「ジョニーの精神の二面性」を象徴していた。

他の置物台には、古いレコード、また別のタイプライター、色鮮やかなZINEのような冊子、昔のタンブラーのステッカーのようなコレクションがぎっしり詰め込まれていて、“人生そのままのショーケース”という趣だった。


さらに奥では、言葉が「詩」になって展示される

白い布と柔らかな照明の空間に展示されていた言葉たち。

「THE LIGHT OF HER BEING」

「HER THOUGHTS TOO PURE…」

「HER BEAUTY A SPECTACLE」

血のような赤、滲む紫、震える黒。恋愛、憧れ、傷、優しさ…複数の感情が“ぶつかる瞬間”をそのまま紙に定着させたようだった。

その対面には、顔のないポートレート

“Betty Sue Wells”

(ジョニーの母の名前と言われる)

赤い口紅だけが描かれ、他は白く抜け落ちている。異常に静かな作品だった。


✦青の部屋

赤いカーテンの世界を抜けると、次は一気に“青”。扉を開いた瞬間、空気が変わる。まるで、ひとりの人間の頭の中に入り込んだみたいな感覚だった。

天井から下がる無数の電球。そこに吊られているのは──紙切れ、走り書き、メモ、スケッチ、アイデアの断片。キャンバスでも額でもなく、本当に誰かの机の横に落ちていそうな“ただの紙”が無数にひらめきの残像みたいに漂っている。

私はスマホを手に、GPTと“共同鑑賞”を続けていた。気になる絵を撮る → ChatGPTに投げる → 解説を読む。まるでデジタルの音声ガイドをその場で生成しながら、自分だけの展示をつくっていくような感覚。

そんな中でひときわ目を引いたのが、黄色い顔に数字がびっしり刻まれたポートレート。数字たちは彼の人生の時間、役柄の記憶、映画のカット割り、断片化されたアイデンティティ……そんな気配を漂わせていた。

「説明がないとわからない」──そう思った瞬間、ChatGPTに写真を送るとすぐに分析が返ってきて、モヤが晴れていく。AIで作品を“開封”しながら鑑賞するこの方法が、気づけば私の没入を何倍にも深めていた。


そして「もう展示は終わりかな…」と思ったその時だった。さっきまで完全に“壁”だと思い込んでいた場所に、じつは扉があることに気づいた。ほんの少しだけ光が漏れていて、吸い寄せられるようにその先へ進んだ。

扉の向こうには、ジョニーの “ソファとガラクタの部屋”。年代物の椅子、謎のオブジェ、紙切れや布が雑然と重なっている。映画のワンシーンのようで、生活感と虚構の境界が溶けていた。

さらに奥へ進むと、アトリエの部屋が広がっていた。入った途端にペンキ独特の匂いが漂ってくる。床一面には布やキャンバス、テーブルは完全にパレット化していて、古いスーツケースには絵の具チューブが“宝の山”のように詰め込まれている。「創作という混沌の中心に彼はいつもいる」まさに空間そのもので見せらていた。


「DEATHの部屋」で何が起きていたのか

会場の後半、いきなり空気が変わる部屋があった。そう、DEATH(死)をテーマにした空間だ。

まず目に飛び込んでくるのは骸骨の連続。けれど、ただの「恐い絵」じゃない。どこかユーモラスで、色彩がやたらポップだったり、骨の線が妙に生き生きしていたりして、まるで“骨のキャラクター”がこちらに語りかけてくるよう。

特に印象的だったのが “DEATH BY CONFETTI” のシリーズ。カラフルな紙吹雪(confetti)が背景に敷き詰められ、骸骨は笑っているのか、泣いているのか分からない表情をしている。

──なんだか、楽しさと悲しさが同時にある。──そして、どこか「人間の滑稽さ」を刺してくる。そんな複雑な気持ちにさせられる部屋だった。


■GPTの解説

GPTに写真を投げたら、返ってきたのはこんな分析だった。

「ジョニーの“DEATH”シリーズは“死”をテーマにしているようで、実は“生の滑稽さ”を描いている。」

●コンフェッティ(紙吹雪)の意味

GPT曰く:本来お祝いの時に舞うはずの紙吹雪が、骸骨の背景として使われ続けることで、『生と死の境界が祝祭的に溶けていく』という構造ができている。

●骸骨は“終わり”ではなく“本質”

骸骨は死の象徴であると同時に、人間からすべての役割や仮面が剥がれたときに残る“最もニュートラルな姿”でもある。

この部屋は、たぶんジョニーの作品の中でもいちばん“自由”な場所なんだと思う。華やかさも、悲しみも、怒りも、ユーモアも全部混ざっている。そして、骸骨なのに不思議と温度がある。死を描いているのに、“死んでいないエネルギー”が絵から噴き出していた。


最後の部屋――ムービーで“ジョニー本人”が現れる瞬間

― 作品の背後にあった「なぜ描くのか」が腑に落ちる部屋

絵の断片がムービーの中でゆっくり動き出し、まるで作品そのものが“呼吸を始めた”ように感じた。そしてジョニー本人が、静かに、自分の言葉で語り始める。


そして、作品を見ている時には気づかなかった“温度”や“弱さ”が、ムービーの声から伝わってきて、展示全体の印象がひとつに結ばれた感じがあった。展示の締めくくりとして、とても良い構成だった。

と思ったら、ラストのラストはなんと、犬。


🐶 ラストの犬の絵が意味するもの

あれほどの混沌や暴力性を描いていた手と同じ人が描いたとは思えないくらい、素朴で、やさしい。デップの人生において、ペットの存在は精神的な支えだったと言われていて、作品にもときどき登場する“自分の心の原点”のようだ。

そして何しろ、私たちもアートの世界線から、日常の世界線へ戻るゲートのように感じられてホッとした。

出口に向かうと、最後に待っていたのはカオスそのもののグッズコーナーだった。世界規模のハリウッドスターの熱量というのは、こういうものなのか。レジの行列は50メートルほど続き、ファンたちの熱気で空気が濃くなっていた。

私はその横で、今後のデザインの参考にと、並ぶグッズをさっとチェックして会場をあとにした。

印象派の絵をずっと見てきた私にとって、現代アートは“わからなさ”ごと鑑賞する世界だ。

けれども最近、ふと気づく。私がやっていることも、傍から見れば同じように“意味のわからない領域”へと進んでいるのかもしれない。

たとえば今日書いたメルマガ用の記事。AIとやりとりしながら書いているうちに、気づけば3時間がすぎていた。むしろ文章を推敲するために、AIを使わなくなっている。

全然違う日に起きた出来事を、カオスなまま書き散らしながら、そこに一本の線を通そうとする試み——この“線”を見出すために、私はAIを使っている。そしてAIは、私がまだ気づけていない共通点を拾い上げ、まるで“共創のグル”のように案内してくれる。

出来上がった文章は、読む人によっては「わからない」の連続かもしれない。けれど、私はそれでも良いと思うようになった。私とAIがわかっていれば、それで十分。必要なら、私は直接その人に解説を添えればいい。

だから、よくわからないのは私も同じ。けれど一つだけ言えることがあるとすれば——混沌とした日常から、作品をすくい上げようとしている点で、共感があった。


どこかの美術館から借りてきた、整えられた展示とはまったく違う。ペンキの匂いがまだ残り、作品にかなり近づいて観ることができて、しかも全て写真撮影が許されている。そういう意味でも、ジョニー・デップという存在を“ハリウッドスター”ではなく、“一人のアーティスト”として、そのままの温度で感じられる稀有な体験だ。

巨匠級のアーティストでもなければ、こんな距離感で作品に触れられる場は滅多にない。高輪ゲートウェイのニュウマンに立ち寄るついでに、ふらりと覗くだけでも十分価値がある。

むしろこの展示を見たあとで景色が少し変わる——そんな特別な時間が待っているはずだ。