11月9日 主日礼拝
11月9日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録20章1〜12節
ユダヤ・キリスト教は「法」の宗教。
「法」を完成する。
それがキリスト者の使命。
「目的」と「手段」
「法」は目的。
故にイエスは時に「法」を否定するかの行動を取る。
「手段」だから。
手段はなんでもいい。
目的に辿り着くためには手段に固執しない。
イエスには「目的」と「手段」の区別があった。
律法学者、ファリサイ派、彼らは律法を「目的」としていた。
これさえ守れば良い。
その先を見ていない。
パウロも当初、律法を目的と考えていたが、後に手段と気がついた者の一人。
そのパウロが三階から落ちて亡くなった若者を甦させる。
「復活」
聖書に何度か復活が登場する。
復活は「手段」か「目的」か。
復活を単純に考えるならば
復活をしたは良いが、その者は自分のこれまでの人生を引き受けなければならない。
負債も、執行猶予も引き受けなければならない。
復活は「目的」ではない。
ならば復活という「手段」は何を目的に据えているのか。
「法」という「手段」。ここにも「目的」がある。
その目的とは何か。
若者を甦らせた後、パウロはパンを裂き、皆に配る。
聖餐式を想起させる行動。
聖餐式、食べるとは何か。
食べる、それは手段。
食べるの目的は何か。
復活、法、食べる、これらの「手段」は何を目的にしているのか。
生きる。
それが目的。
聖書という物語、これを記した人々、彼らは読者に告げている。
「生きよ」
作者たちも皆、聞いた。
「生きよ」
神の言葉。
神が世界を造った、その思い。
神が世界を造った目的。
生きよ。
命を肯定し、命を認める。
この世界は良い。
それを確かめる。
生きる。
手段であり目的。
生きることで命の目的に近づき
生きることで命の目的が自らであることを見出す。
生きよ
この世界が良いものであることを知るために。
生きよ
その命が良きものであることを知るために。
生きよ
あなたは良い。