vol.169「宮古湾海戦」について
で、やっぱり来ちゃうわけですよ、決戦の時が。開陽なくして敵の艦隊とどう戦うつもりなのか。せっかく作った国を守り切ることができるのか、腕の見せどころですな、榎本のとっつぁん!
⚫︎ 新政府軍終結
10月30日、旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届き、新政府は直ちに津藩兵・岡山藩兵・久留米藩兵計約1000名を海路で青森に送った。11月6日、奥羽征討軍参謀であった「山田顕義」が長州藩兵・徳山藩兵を率いて秋田から青森に入り、11月9日、青森口陸軍参謀に就任。そして11月19日には旧幕府軍追討令が出され、11月27日、青森に避難していた箱館府知事「清水谷公考」が青森口総督を兼務することとなった。しかし、冬季作戦等の準備は全くないので、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始することとして青森周辺に冬営した。
開陽を喪失した蝦夷共和国に対し、薩長を中心とする明治新政府は本州北端までを完全に掌握していた。さらに、イギリス・フランス・アメリカなど列強諸国から「日本を代表する正統政府」としての承認を受ける。この国際的な承認は決定的で、榎本武揚らが築いた蝦夷共和国は、独立したもう一つの「日本」として一定の地位を認められていたものの、この時を境にその正当性をほぼ失い、事実上「反乱軍」として扱われるようになったのである。(あらら)
明治新政府は、国内の統一を完成させるため、蝦夷地への進軍を決意。陸軍は、明治2年(1869年)2月には松前藩、弘前藩兵を中心に約8000名が青森に集結した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦「甲鉄」を2月に購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成した。3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯)の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆した。
その目的は明白──「最後の反乱」を鎮圧し、明治国家の支配を日本全土に確立することであった。(やめてくれや〜)
⚫︎ 奇策中の奇策、「接舷攻撃(アボルダージュ)」
新政府軍艦隊が宮古湾に入るとの情報を受けると、五稜郭には、緊張と重圧が張りつめた。榎本武揚は幹部を集め、今後の方針を決めるための軍議を開く。この戦いの帰趨を左右する最大の要素――それは「甲鉄艦」の存在であった。甲鉄は、日本における近代戦艦の象徴ともいえる鉄製装甲艦であり、その防御力と火力はいずれの艦にも匹敵するものがなかった。ひとたびその砲門が開かれれば、榎本艦隊など瞬く間に撃沈されるであろう。
両軍とも海戦の実戦経験に乏しく、火力の差がそのまま勝敗を決定づける状況にあった。(絶体絶命じゃんすか)
重苦しい空気の中、ひとりの将校が進み出て発言する。回天艦長・甲賀源吾。彼が提案したのは、誰も予期しなかった奇策「接舷攻撃(アボルダージュ)」であった。
そもそも海戦の歴史をさかのぼれば、大砲が登場する以前は、敵艦に体当たりして乗り込み、白兵戦で勝敗を決する戦法が一般的であった。しかし、砲撃戦が主流となった十九世紀には、こうした戦い方はすでに時代遅れのものとされていた。だが、甲賀はこの古代の戦法をあえて蘇らせようとしたのである。
その狙いは、単に甲鉄を破壊することではなかった。むしろ、甲鉄を奪取し、蝦夷共和国の防衛の要とするという大胆な発想であった。甲鉄を中心に艦隊を展開すれば、箱館湾全体が「鉄の要塞」と化す。榎本の掲げた理想、そして共和国の民の志を守るための、まさに“最後の賭け”であった。もし成功すれば戦局は一気に逆転する。奇抜ではあるが、やる価値は十分にある。(おお〜)
蝦夷共和国の命運を賭けた、前代未聞の作戦が、ここに動き出したのである。3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天と蟠竜、箱館で拿捕した高雄の3艦は宮古湾に向けて出航した。(映画みたい)
⚫︎ 海に嫌われた榎本艦隊
……しかし、ここでもまた、海は榎本艦隊の前に立ちはだかった。
宮古湾を目指して北上する途中、突如として天候が急変。暴風が吹き荒れ、荒波が艦を呑み込み、海は怒涛のごとく荒れ狂った。まるで天が、蝦夷共和国の独立を許すまいとしているかのようであった。(なんでやー!泣)
連結して航行していた三隻のうち、綱が切れ、艦隊はたちまち分断される。やがて「蟠竜」が行方不明となり、辛うじて嵐が収まったかに見えた頃には、今度は「高雄」の機関に故障が発生し、航行不能に陥った。(あははー最悪やー)
もはや計画は崩壊寸前であった。しかし、作戦の責任を負う「回天」艦長・甲賀源吾は、ここで退くことを選ばなかった。荒天に阻まれ、援護艦を失ってもなお、彼は決死の覚悟で前進を決意する。
「たとえ一隻であろうとも、我々は必ずや成す。」
こうして、甲賀とその乗組員たちは、回天単独による作戦決行へと踏み切った。その背にあったのは、もはや勝利への希望ではなく、蝦夷共和国の名誉と誇りを守るための、静かな決死の覚悟であった。(ハンデ負いすぎ)
⚫︎ アボルダージュ作戦の失敗
25日午前5時頃、回天は単独で宮古湾への突入を敢行する。
この時新政府軍艦隊は機関の火を落としており、アメリカ国旗を掲げた回天の接近にも特に注意が払われることはなかった。暴風雨による被害で、回天の特徴であった3本のマストが2本になっていたことも旧幕府軍には幸いした。甲鉄に接近した回天が作戦通りアメリカ国旗を下ろし、すぐさま日章旗を掲げて接舷すると、甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の春日から敵襲を知らせる空砲が轟いた。
奇襲には成功したが、回天は舷側に水車が飛び出した外輪船で横づけできず、小回りも利かなかったため、艦長の甲賀源吾の必死の操艦にもかかわらず、回天の船首が甲鉄の左舷に突っ込んで乗り上げる形となってしまった。しかも、回天は大型の非装甲軍艦であるのに対し、甲鉄は小型で重い装甲をまとっているため乾舷が低く、シアーが付いて高くなっている回天の艦首とでは約3メートルもの高低差が生じてしまった。(ダメじゃん泣)
それでも回天からは先発隊が甲鉄の甲板に飛び降り、斬り込んでいったが、細い船首からでは乗り移る人数が限られ、またガトリング砲など強力な武器の恰好の標的となってしまう位置だったため、乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出した。(無茶しないでー泣)
春日をはじめ、周囲にいた新政府軍艦船も次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲されて集中砲撃を浴びるに至る。甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれてもなお指揮をふるっていたが、弾丸に頭を貫かれて戦死。形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら舵を握って甲鉄から船体を離し、回天は宮古湾を離脱した。甲鉄に斬り込んでいった野村利三郎ら数名は、撤退に間に合わずに戦死。この間、約30分だったと言われる。(なんてこった、、)
新政府軍は直ちに追撃を開始、回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた高雄は甲鉄と春日によって捕捉された。艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降している。新政府軍では、回天の砲撃によって損傷した運送船・戊辰丸が北航不能となり、負傷者を収容して江戸へ戻った。
新政府海軍の砲術士官として春日に乗船していた東郷平八郎は、この回天による奇襲の衝撃を、「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われる。また、危険な作戦を実行し、勇敢に戦った甲賀源吾について「甲賀という男は天晴れな勇士であった」と高く評価している。
しかし、この戦いで榎本軍は、作戦の立案者でもあった優秀な指揮官の甲賀源吾を失い、蝦夷共和国は皮肉なことに、さらに追い詰められる結果となってしまったのであった。
あ〜も〜! 最悪! ついてなさすぎ!
ワンチャンあるかも!?と期待してただけにガッカリ感がデカい、デカすぎるでしょ。もはや天に見放されてるとしか思えない不運の連続。神風って、こっちに向かって吹くものだっけ? 大群に向かって吹きなさいよ、弱い方に吹くなよ、間違えてんで、空気読めよな!
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮古湾海戦
http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-513.html?sp