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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.170「二股口の戦い」について

2026.01.19 20:25


海上での起死回生の奇策が失敗し、どんどん上陸されてるー! 

たのむ土方さん! なんとか食い止めてくれっー!




⚫︎ 新政府軍、上陸


蝦夷共和国の国力は、すでに極限に達していた。開国以来の混乱と戦乱の果てに築かれたこの新国家は、わずか数か月で財政の枯渇に直面していたのである。


陸軍では弾薬や銃砲の補給が滞り、兵士たちは限られた装備で戦線を維持せねばならなかった。一方の海軍も、主力艦は回天・蟠龍・千代田形の三隻にすぎず、その維持すら困難な状態にあった。燃料、修理費、兵糧――いずれも底を突き、蝦夷共和国はもはや継戦能力を失いつつあった。


それでも、明治新政府軍は攻勢の手を緩めなかった。圧倒的な物量と戦力を背景に、彼らは疲弊した蝦夷共和国に容赦なく迫り、その息の根を止めんとする。風前の灯火となった共和国に、もはや退路はなかった。


明治2年(1869年)4月9日。

宮古湾での「アボルダージュ(接舷攻撃)」に失敗した回天が、満身創痍のまま箱館へ帰還してから、わずか二週間足らずのことであった。この日、蝦夷南岸の乙部沖において、新政府軍の主力艦隊が姿を現す。それは、決戦の幕開けを告げる合図であった。


新政府軍はただちに上陸を開始し、同時に艦砲射撃を浴びせかける。轟音が響き渡り、海岸線はたちまち火と煙に包まれた。この作戦の背後には、「黒田清隆」の冷静な戦略眼があった。作戦参謀として榎本武揚を強く警戒していた黒田は、敵将の手腕と資質を正確に評価していた。


短期間に箱館を掌握し、さらにはアボルダージュを敢行するという一連の行動は、常識的な期待をはるかに超えるものだった。偶然や幸運に救われて新政府軍は危機を脱したが、もし榎本の作戦が完全に成功していれば、奪われた甲鉄を以て壊滅させられていた可能性すらあった


また、榎本には卓越した国際感覚と人物把握の能力があった。国際法を巧みに利用して箱館に駐在する各国領事館の同情を取り付け、松前攻略の際には捕虜を本国に返すなど、外交面でも成果を上げていた。このような人物に対しては、単純な力押しで臨めば思わぬ失策を招きかねない──黒田はそう強く認識していた。


したがって、黒田が描いた作戦は、一気呵成の短期決戦ではなく、周到に段階を踏んで蝦夷を包囲・切り崩す長期戦略であった。その骨子は次の三段階に要約される。


1. 箱館勢力が手を及ぼせない地点からの上陸を行う。

2. 松前をはじめ周辺の拠点を順次攻略し、箱館を孤立させる。

3. すべての準備が整ったのち、箱館に対する総攻撃を断行する。


黒田のこの慎重かつ段階的な構想は、榎本という稀有な敵を相手に勝利を確実にするための合理的な選択であった。


黒田清隆の描いた包囲戦略に基づき、乙部に上陸した新政府軍は、着実に行動を開始した。上陸部隊は三手に分かれ、それぞれが異なるルートから箱館を目指して進軍する。黒田の作戦は周到で、計画は驚くほどの速さで進展していった。


上陸からわずか8日後には松前を攻略し、さらに3日を経ずして木古内を占領。三方面から北上する新政府軍のうち、すでに二部隊は当初の作戦目標をほぼ達成していた。残る一つ――二股口を突破する部隊がその任務を果たせば、三軍は合流し、いよいよ箱館への総攻撃が開始される段取りであった。




⚫︎ 土方歳三の鉄壁の防御


だが、その前にひとりの男が立ち塞がった。二股口の防衛を託されたのは、蝦夷を己の最期の地と定めた、旧幕臣の猛将──土方歳三である。二股口が破られれば、箱館はもはや風前の灯火。榎本は、この最後の防衛線を守るに足る人物として、土方に全てを託した。


松前攻略戦で見せた彼の奮戦ぶりは、まさに鬼神の如し。その名はすでに蝦夷の隅々にまで轟き、味方の士気を鼓舞し、敵将をも震撼させるほどであった。二股口をめぐる戦いは、蝦夷共和国の命運を懸けた最終の防衛戦として幕を開けた。


土方歳三は、この時すでに「新選組副長」としての旧来の戦い方を捨て去っていた。刀による白兵戦の時代は終わりを告げ、勝敗を決するのはもはや個々の技ではなく、火力と戦術である──そう彼は痛感していたのである。サムライとしての矜持を胸に抱きつつも、西洋式軍学を実戦を通して吸収し、体現した男。その真の戦略家としての力量が、ここ二股口で存分に発揮されることとなった。


土方は地形を熟知し、二股口の要衝たる二つの丘に堅固な防衛陣を築いていた。塹壕を掘り、陣地を高低差で構成し、敵の進軍経路を狭める──まさに近代戦の理念に基づく布陣である。さらに、300名の兵士すべてに銃を装備させ、可能な限りの弾薬を箱館から運搬して備えた。


峠道を進軍する新政府軍を待ち受けていたのは、周到に構築された土方歳三隊の防衛陣であった。狭隘な山道を登る敵兵に対し、土方隊は高地から一斉に銃火を浴びせかける。雨のように降り注ぐ弾丸が隊列を切り裂き、進撃は瞬く間に混乱へと陥った。


新政府軍も反撃を試みたが、土方が築いた胸壁がこれを完全に遮断し、弾丸の多くは空を切るのみであった。対して、上方から放たれる土方隊の銃撃は正確無比であり、露出した敵兵を次々と倒していった。旧幕府軍が撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間にわたる激闘であった。


新政府軍は甚大な損害を被り、死傷者は数知れず。一方、土方隊の損害はわずかに1名──。この日、二股口の戦いは、近代戦術を体得した土方歳三の圧倒的勝利に終わったのである




⚫︎ 負けてないのに無念の撤退


22日、新政府軍は再度攻撃を試みるが、土方軍はこれも撃退。23日午後、新政府軍は正攻法をあきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下ろしてきた。そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明には瀧川充太郎率いる伝習士官隊が抜刀して敵中に突進、混乱する新政府軍を敗走させる。それでも新政府軍は次々と新しい兵を投入し、旧幕府軍は熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続けた。


この二股口を突破すれば、箱館は目前。新政府軍にとって、ここを抜くことこそが勝利への最後の関門であり、総攻撃への道を開く鍵でもあったが、土方歳三が周到な準備のもとに築き上げた塹壕と胸壁、そして緻密に配置された射撃線──そのいずれにも死角は存在しなかった。新政府軍がいかに突撃を試みようとも、土方隊の銃火は容赦なくこれを撃ち倒し、前進はことごとく阻まれた。


峠の地形を最大限に利用したこの陣地は、まさに「鉄の壁」と呼ぶにふさわしいものであった。土方はその冷静な指揮のもと、数に勝る新政府軍をして一歩も進ませず、箱館への道を完全に閉ざしていたのである。25日未明、ついに新政府軍は撤退。これ以降、新政府軍は二股口を迂回する道を山中に切り開き始める。

しかし、戦は一つの戦場だけで完結するものではない。新政府軍は黒田清隆の立案した包囲戦略に従い、三方向から蝦夷地へと侵攻を進めていた。そのうち二股口を除く各戦線では着実に戦果を挙げ、ついに土方隊の背後にまで迫ろうとしていたのである。


やがて、要衝「矢不来(やふらい)」が陥落する。この地点が突破されたことにより、海岸沿いの平地から新政府軍が箱館へ侵入する道が開かれた。それはすなわち、二股口の防衛線が戦略的価値を失ったことを意味していた。さらに悪いことに、長くその地を守り抜いた土方隊は、今や背後を敵に突かれる危険すら抱えていたのである。


土方歳三は、その現実を冷静に見極めた。もはや持久は無益と判断し、20日間にわたり死守した二股口を放棄する決断を下す。それは退却ではなく、次なる防衛線へと戦力を温存するための苦渋の選択であった。無念を胸に秘めながらも、土方は秩序ある撤退を敢行する。


こうして、榎本武揚が松前半島一帯に築き上げた防衛網は、ついに完全に崩壊した。二股口、矢不来、そして沿岸部の諸拠点――そのすべてが新政府軍の手に落ち、蝦夷共和国の防衛線は事実上失われたのである。


残されたのは、箱館ただ一つ。

五稜郭を中心とする防衛拠点と、弁天台場・千代ヶ岡台場などの要塞が最後の砦となったが、もはや周囲との連絡線は断たれ、榎本軍は完全に孤立状態に陥っていた。


一方、新政府軍は着実に包囲を狭め、海上からも陸上からも圧力を加えていった。こうして、蝦夷共和国の首都・箱館は、次第に「鉄の輪」に囲まれてゆく。最終決戦の時が、いよいよ目前に迫っていた。




さすが土方隊長!

でも、もうダメな気がする、、泣



参考
http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-518.html?sp
https://ja.wikipedia.org/wiki/二股口の戦い

https://oliveblogolive.com/ippongikanmon_hijikata_toshizo_last/