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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.171「五稜郭の戦い」について

2026.01.24 20:35


夢は、夢である以上、いつかは醒める。

榎本のとっつぁんの夢も、その時が近づいて来たようだ。


それを象徴するかのように、信じられない事件が起きる。軍艦「千代田形」が敵の手に渡ったのだ。それも、戦闘による損失でなく、こともあろうに艦長が自ら放棄した結果だった。たかだか座礁したという理由で、艦長が退艦命令を出したのである。無人の軍艦は、潮が満ちると共にぷかぷかと流れだし、あっさりと敵の手に渡ったという。


亡国の民の末路を暗示しているかのようだ。榎本らの取るべき道は、3つ。

降伏か、玉砕か、または蝦夷の奥地に逃れ、長期戦に入るか。

降伏とは誰も言い出せず、艦を失い軍資金も底を尽きた以上、長期戦にも耐えられない。


…となれば、玉砕しか道はない。





⚫︎ 回天の最期 ― 箱館湾海戦の幕開け


明治2年(1869年) 4月28日に青森口総督・清水谷公考が江差から上陸し、5月1日以降、松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、箱館攻撃の態勢を整えた。敗色濃厚となったため、5月2日、ブリュネらフランス軍人はフランス船で箱館を脱出。旧幕府軍は、大鳥圭介らが七重浜の新政府軍を数度に渡って襲撃(夜襲)したが、まさに焼石に水だった。


5月7日未明、夜明けとともに新政府軍艦隊が箱館湾に進入。その中には、旧幕府方にとって最大の脅威である装甲艦「甲鉄」の姿もあった。当時、榎本政権側に残されていた軍艦はわずか2隻に過ぎなかったが、そのうちの一隻「蟠龍」は機関の故障で修理中であり、実戦に出られるのは「回天」ただ1隻のみであった。圧倒的な兵力差の中、「回天」は単艦で敵艦隊の中へ突入するという、捨て身の攻撃を敢行する。


榎本軍にとって、もはや失うものは何もなかった。「回天」は「甲鉄」に肉薄し、ありったけの砲撃を浴びせる。数発は確かに命中したものの、鉄甲で防御された「甲鉄」は致命的な損害を受けず、沈むことはなかった。やがて「甲鉄」を含む新政府軍艦隊は三方向から一斉射撃を行い、「回天」はその集中砲火の中で蜂の巣のように被弾、炎上、ついに撃沈された。


翌5月8日、榎本武揚は自ら約800名の兵を率い、五稜郭をから出撃した。形勢が次第に不利となる中、榎本は自ら先頭に立って反撃の突破口を開こうとしたのである。しかし、勢いに任せた突撃は新政府軍の整然たる布陣に阻まれ、多くの死傷者を出す惨敗に終わった。


それでもこの出撃は、総裁自らが剣を執って戦場に立ったという事実によって、守備兵たちの士気を著しく鼓舞する結果となった。この一瞬の高揚を逃すまいと、榎本軍は最後の海上反撃を決断する。修理を急ぎ完了させた最後の軍艦「蟠龍」を出撃させたのである。


やがて敵艦「朝陽」が突撃してきた。「蟠龍」はこれを巧みに回避し、反転して太陽を背に取る。かつて旗艦「開陽」を擁していた旧幕府艦隊にとっては、この程度の敵艦は脅威ではなかったが、今や残された戦力はこの一隻のみ。それでも「蟠龍」は、太陽光を背にして敵艦の照準を狂わせるという戦術的優位を活かし、容赦ない一斉砲撃を加えた。その砲火は正確に命中し、「朝陽」はついに撃沈される。


しかし、勝利は束の間であった。直後に「蟠龍」は敵艦隊の集中砲火を浴び、被弾炎上。

前日に沈んだ「回天」と同じく、海上にその姿を没することとなった。




⚫︎ 土方歳三の死


海上戦力をすべて失った榎本軍に、もはや制海権は残されていなかった。「回天」「蟠龍」両艦の沈没によって、箱館湾は完全に新政府軍の支配下に置かれる。もはや邪魔立てする艦影はなく、新政府艦隊は湾内を自在に航行し、沿岸の要地に向けて艦砲射撃を加えることが可能となった。海上からの退路は断たれ、五稜郭守備軍は孤立を深めていく。


まだ雪の名残が漂う函館湾に、新政府軍およそ 3万人がいっせいに上陸した。彼らが持ち込んだのは、旧幕府軍には数えるほどしかない ガトリング砲 と アームストロング砲──当時最強クラスの連発兵器と高性能砲だ。海上の艦砲射撃と陸からの砲撃が重なり、星形要塞 五稜郭はまるで火の十字路に閉じ込められたかのようだった。


この時、戦局を決定づけたのが黒田清隆であった。彼は陸軍部隊を率い、箱館山の裏手にあたる断崖絶壁を強行登攀し、山頂への展開に成功する。これにより、五稜郭は完全に高所から見下ろされる形となり、榎本軍の配置や動きはすべて新政府軍の観測下に置かれることとなった。


黒田は、無用な流血を避けつつ確実に降伏へと導くため、徹底した威圧戦術を採用する。圧倒的な火力と制圧態勢を示すことで榎本軍の抵抗意志を削ぎ、最小限の損害で戦を終結させることを狙ったのである。


箱館山の番兵は新選組であった。大鳥圭介は、深い霧の中を敵が山を登って来るのに気づかなかったのは新撰組の怠慢だったと批判している。遁走した箱館山の新選組は、弁天台場(砲台)に逃げ込む。箱館山を占領した新政府軍は、箱館湾の幕府艦隊を攻撃し、さらに市中警備の伝習士官隊も攻撃していった。


激しい砲煙の立ちこめる戦場で最前線に立ったのは、五稜郭を守っていた副長・土方歳三率いる歩兵連隊であった。土方は部下に当時最新式とされたスナイドル銃を配備し、防衛の要である一本木関門に築かれた木柵を利用して反撃を指揮した。


明治2年(1869年)5月11日未明、土方は「誠」の旗を掲げ、新選組の生き残り50騎を従え、黒田のいる箱館山に向かって突撃する。銃弾が飛び交う中、土方は太ももに被弾しながらも馬上に留まり、「引くな、撃ち返せ!」と兵士たちを奮い立たせたと伝えられる。しかしその直後、胸を貫く一弾を受け、ついに馬上から落ちた。これが、戊辰戦争を通して幾多の戦場を駆け抜けた土方歳三の最期であったとされている。


午前11時ごろには新政府軍は箱館市街を制圧。弁天台場の旧幕府兵が材木屋に放火、瞬く間に火が広がり、872戸を焼失した。




⚫︎ 降伏か、死か


土方歳三が戦死した 5月11日──それは旧幕府軍にとって“最後の柱”が折れた瞬間だった。以降の8日間、榎本武揚は五稜郭の石垣に登り、望遠鏡で前線を見渡すたびに、砲撃の土煙が日に日に近づいてくるのを感じていた。弾薬と食糧は底を突き、味方の砲声は次第にまばらになる一方、新政府軍の砲弾だけが絶え間なく星形要塞を撫でていく──。


やがて、黒田清隆からの降伏勧告の書簡が、榎本の元へと届けられる。黒田は榎本に、これ以上不毛な血が流れることの無意味さを訴え、日本が再び分裂することなく一つの国家として近代化へ歩むべきであると説いた。


「降伏を受け入れることは容易だ。降伏すれば、多くの兵の命を救うことができよう。しかし、己の理想と信念のもとに命を落とした者たちの想いを、どう報いるのか。ここで無抵抗に降伏すれば、彼らの犠牲は無に帰してしまうのではないか」


榎本は五稜郭の幹部たちを招集する。会議の場は沈黙に包まれ、誰もが言葉を失っていた。戦か、降伏か――最終的な判断は榎本に委ねられていた。榎本が口にしたのは「玉砕」というニ文字であった。己の信念に殉じ、共に戦って倒れた仲間たちに報いるため、彼は死を覚悟したのである。


榎本は筆を執り、黒田清隆に書簡をしたためた。その内容は、蝦夷共和国が志高くして興された正義の国家であること、そしてそれを力で潰そうとする者には断固として抗う決意を表したものであった。たとえ全滅しようとも、その信念を貫く覚悟を示したのである。


さらに榎本は、その書簡に一冊の書物を添えた。『海津全書』──オランダ留学時代に師事したハーグ大学のフレデリック教授から贈られた、『海の国際法と外交』と題する上下二巻の書であった。榎本はこの書を生涯大切にし、近代国家としての日本の進むべき道を示す指南書とみなしていた。


五稜郭が戦火に包まれることを覚悟しながらも、榎本は願った。「この書だけは、燃やしてはならない」と。そこには、いつの日か日本が西洋諸国と肩を並べる近代国家へと成長することを信じる、彼の静かな祈りが込められていた。


榎本武揚の書簡を受け取った黒田清隆は、深い感銘を受けた。その文中には、玉砕の覚悟を貫きつつも、死してなお日本の未来を案じる榎本の真摯な思いがにじんでいた。さらに、オランダ語で書かれた分厚い海洋法の書物は、語学に疎い黒田にとって内容の理解は難しかったが、余白にびっしりと記された榎本の手書きの註釈が、その学識と情熱を雄弁に物語っていた。


黒田は思った。明治新政府は、いまだ「井の中の蛙」に過ぎない。世界情勢を理解し、語学に通じ、国際的な視野と外交手腕を備えた人物──そうした存在こそ、これからの日本には不可欠であると。榎本のような人材を、この無益な戦で失うべきではないと。


黒田は、榎本の心を動かすため、榎本に近しい人物を使者としてたびたび送り込んだ。しかし、再三の降伏勧告にもかかわらず、榎本の決意は揺らぐことはなかった。それでも榎本は、人道的立場から、負傷者および女性・少年ら非戦闘員の退去を求め、黒田はこれを快諾した。


やがて、非戦闘員の離脱が終わった後も、五稜郭から兵士の姿が消え始めた。戦況の絶望を悟った者たちが脱走し、新政府軍に降伏する者、あるいは箱館の町に潜伏する者も現れた。しかし、榎本は彼らを罰することなく、むしろ門を開いて脱出を黙認したという。将来の日本を担う若者たちを、これ以上無駄に死なせたくない──榎本の胸中には、そうした思いがあったのかもしれない。




⚫︎ 五稜郭防衛線の崩壊



5月15日。

箱館湾を望む要衝・弁天台場がついに白旗を掲げた。守備隊を率いていたのは、旧幕臣・永井尚志をはじめとする約240名。すでに新政府軍によって五稜郭との連絡路は断たれ、台場は完全に孤立していた。弾薬も食料も尽き、もはや抗戦の術は残されていなかった。


この降伏は、五稜郭守備側にとって大きな痛手ではあったが、榎本武揚は内心では「よく決断してくれた」と感じていたとも伝えられる。彼にとって、無意味な玉砕よりも、命をつなぎ次代へ希望を残すことこそが真の勇断であったのかもしれない。


翌16日早朝。

五稜郭の目前に位置する「千代ヶ岡台場」が、いよいよ最後の防衛拠点となった。ここに立てこもっていたのは、中島三郎助──元・開陽丸の機関長である。榎本は彼に幾度となく使者を送り、撤退を勧めたが、中島はそれを固く拒んだ。


中島には、誰よりも重い十字架があった。それは、旗艦・開陽丸の座礁沈没という痛恨の記憶である。「もし自分があの時、正しい判断をしていれば……」そう悔い続けた彼にとって、開陽丸の沈没は己の不覚であり、その償いの場がこの千代ヶ岡台場の戦いであった。


新政府軍が総攻撃を開始すると、中島は二人の息子とわずかな手勢を率い、正面から敵陣に突入した。火砲が鳴り響く中、彼は最後まで退かず、堂々と討ち死にを遂げたという。これが箱館戦争最後の戦闘となった。


その最期を知った榎本武揚は、深い悲しみに沈んだと伝えられている。彼にとって中島の死は、単なる部下の戦死ではなく、同じ理想を掲げた同志の散華であり、同時に開陽丸と共に沈んだ「幕府の夢」の象徴でもあった。




⚫︎ 五樽の酒と五尾の鮪


16日正午。

箱館戦争の趨勢がすでに決した中で、新政府軍参謀・黒田清隆は、五稜郭への最終総攻撃を目前に控えながらも、その実行を一時見合わせる決断を下した。彼は使者を五稜郭へ送り、総攻撃の延期を伝えると同時に、榎本武揚に対してこう申し出たという。


「必要とあらば、食料や弾薬をお届けする」


もちろん、榎本がこの申し出を拒絶することは黒田も十分に承知していた。それでもあえて言葉にしたのは、同じ武士として、敵ながらもその志に敬意を払いたいという黒田なりの“武士の情け”であった。


榎本が申し出を丁重に辞退すると、黒田は代わりに五樽の酒と五尾のマグロを五稜郭へ届けさせた。その贈り物には、一通の書状が添えられていた。


「先日お送りいただいた書物は、無学の私には到底理解できるものではありません。しかし、日本の将来のために必要な書であることは、愚鈍な私にも明白でございます。そのご厚意に、感謝の言葉もございません。早急に翻訳を進め、この国のために役立てる所存です。つきましては、せめてものお礼として、酒などをお届けいたします。誇り高き兵士たちの、わずかな慰めとなれば幸いに存じます」


この書簡には、黒田の人柄と、榎本への深い敬意がにじんでいた。敵将としてではなく、同じ国の未来を憂う志士として、互いに通じ合うものがあったのである。


戦場の最前線で交わされたこのやり取りは、単なる敵味方の関係を超えた、明治維新期の武士たちの美学を象徴している。榎本は黒田の真心を静かに受け止め、黒田もまた、榎本の誇りと知性に敬意を捧げた。


五稜郭陥落を目前にして、両者の間に生まれたこの一瞬の“心の交流”は、血と鉄の時代にあってもなお失われぬ武士の気骨を伝える逸話として、後世に語り継がれている。


榎本武揚は、黒田清隆の思慮深い所作に対し、敵ながらも深い感嘆を覚した。黒田が示したのは単なる軍事的配慮ではなく、相手の誇りを損なわぬよう配慮する武士的な礼節であった。榎本はそれを受け、「この人物ならば、降伏した将兵の名誉を守るであろう」と密かに確信したのである。


この確信が、彼の内面に決定的な変化をもたらした。榎本はもはや、自己の理想のために若き命を無為に失わせるわけにはいかないと考え、己の生を賭してでも将兵の命を救う道を選ぶ決意を固めた。


榎本は、己の命と引き換えに将兵の助命を嘆願する覚悟を定め、一人で総裁室へ向かった。これは戦術的撤退でも、政治的取引でもなく、将兵の生命と誇りを最優先に置く指導者の倫理的決断であった。


当時の文脈では、指導者が自らの生命を賭して部下を救おうとする行為は、武士道的な責務の顕れとして理解される。榎本のこの選択は、敗色濃い状況下においても指揮官としての責任感と、人命を尊重する近代的感覚が交差したものと評価できる。


榎本の心境は、かつてともに戦った将兵たちへの深い同情と、長年抱いてきた夢への静かな終止符が入り混じった複雑なものであった。彼は「自ら先に逝き、亡き将兵たちのもとへ行く」ことを潔しとし、その内的な弔意を胸に抱いた。


歴史的には、こうした個人的な決意は、幕末から明治期にかけての志士たちが共有した価値観──名誉、責任、そして国家の行く末に対する深い憂慮──を象徴するエピソードとして位置づけられる。




⚫︎ 五稜郭の開城 ― 北の戦いの終焉


明治2年(1869年)5月18日。

この日、榎本武揚率いる旧幕府軍は正式に降伏し、五稜郭は新政府軍に明け渡された。かつて玉砕をも辞さぬ覚悟を示していた榎本の表情は、今や驚くほど穏やかであったという。それは、己の理想に殉じた末に見いだした、一種の達観にも似た静けさであった。


五稜郭開城の場において、榎本と黒田清隆の間に、もはや一片のわだかまりもなかった。黒田は榎本の降伏を潔しとし、無益な流血を止めたことに心からの敬意を表した。一方、榎本もまた、降伏後の将兵の命を保証し、名誉を守ってくれた黒田に深く感謝の意を示した。


このときの互いの言葉は記録に残されていないが、両者の態度こそが雄弁にすべてを物語っていた。敵として戦い、しかし志を同じくする者同士──ふたりの間には、すでに友情と信義の絆が結ばれていたのである。この日を境に、榎本と黒田は終生の親友として互いを支え合い、日本の近代化にそれぞれの立場から尽力していくことになる。


こうして、1年半に及んだ戊辰戦争は、北の地・箱館において静かに終結を迎えた。徳川の時代を終わらせた内戦は、同時に新しい日本の夜明けを告げる戦いでもあった。


五稜郭開城は、単なる敗北ではなく、旧時代の志士たちが己の理想と信念を次代に託した「幕引き」であったといえる。“蝦夷共和国”が歴史に刻んだ生命線は、わずか半年だったが、土方歳三の最期と要塞防衛の粘りは、敵方の戦記にまで「武士道、ここに極まる」と記された。


北の大地で燃え尽きたものは、敵味方を越えた敬意とともに語り継がれ、今も函館の空に静かな余韻を漂わせている。




ようやく戊辰戦争が終わった。。

長かった〜。長かったけど、こんなにいろんな話があるとは思わなかったし、どれもドラマチックで面白かった。やっぱ侍はカッコいいですね。これらのサムライエピソードは歴史の授業でもっと取り上げるべきだと思う。その方が授業も面白くなって生徒たちも寝ないで済むはず。何度も言うが、戊辰戦争はしょりすぎだぞ教育委員会!

榎本と黒田のマグロエピソードを知っている人、世の中にどれだけいるんだよって話。



参考
http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-524.html?sp
https://ja.wikipedia.org/wiki/箱館戦争