《浅葱の灯》――境界を渡る蝶の記憶――
《浅葱の灯》――境界を渡る蝶の記憶――
執着からふっと解放された“森”での記憶。
旅人は、胸の奥に残る寂しさとともにゆっくりと歩いていた。
どこかまだ帰る場所を探すように、ひと呼吸ごとに足を進めていた。
木漏れ日の中、長く溜まっていた重たさが少しずつほどけていく。
固くなった心の膜がゆるみ、忘れかけていた感覚が静かに戻ってくる。
そのとき――浅葱色の蝶が、そっと旅人の肩先をかすめた。
羽は光を透かし、余計なざわめきを撫でるように落としてゆく。
不安も、孤独も、言葉にならない痛みも、 「ひとりで抱えなくていい」と語るように。
蝶とともに森を歩くと、ほどなくして澄んだ水音が聞こえてきた。
旅人は小川に腰を下ろし、蝶が静かに寄り添うのを感じた。
浅葱の羽が揺れるたび、胸の奥の寂しさが柔らかな光に変わっていく。
ふと、古い言い伝えを思い出す。
――“浅葱の蝶は、境界を渡る神の使い”。
水と風と空のあいだを行き来し、 迷った魂のそばに寄り添い、再び歩き出す灯を残す存在。
遠い昔、この蝶は祈りを運ぶ使いであり、 人の孤独にそっと寄り添う者だと語られていた。
忘れ去られた想いも見捨てず、 心の底に沈んだ願いを、水面へ浮かばせる役目を持つと。
小川を覗き込むと、凍っていた感覚が解けるように広がっていく。
押し込めていた想いが、すっと動き出し、 胸の底で消えずにいた小さな灯りが輪郭を取り戻す。
浅葱の蝶はその灯を確かめるように、ひらりと一度、旅人の周りを円を描いた。
その動きはまるで祝福のようで、 「もう恐れなくていい」 そんな声が風に重なって聞こえた気がした。
やがて蝶は、小川の光へ溶けるように姿を消した。
ただその余韻だけが淡い青となり、旅人の胸に残る。
――たとえひとりでも、見守られている。
その気配は、微かな灯となって静かに揺れていた。