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陽子's Ownd

『耀』

2025.12.06 06:31

https://ooikomon.blogspot.com/2014/07/blog-post_26.html 【牧羊社『現代俳句の精鋭Ⅰ~Ⅲ』のこと・・・】より

断捨離よろしく?本の整理をしようとしたら一冊の文庫に目がとまった。

近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)である。

ぱらぱらとめくると線引きがある。

かつて、愚生が『現代俳句の精鋭Ⅰ』への参加を求められて、句もないので、それでは書き下ろしで100句を書こうと、そのテキストに選んだ本が『本郷菊富士ホテル』だったのだ。

愚生のタイトルは「本郷菊坂菊富士ホテル」。

菊富士ホテルは羽田幸之助きくえ夫妻が営んだ下宿屋がその前身である。菊坂長泉寺内の地所を借りて建てられた下宿屋は、晴れた日には富士山が眺められたところから菊富士楼と命名された。その後、東京大博覧会の外国人客を見込んで様式ホテルに増築された。

時に大正三(1914)年、三月、地上三階地下一階、南端屋上に塔の部屋をもつ30室の菊富士ホテルが誕生した。(三階建てだが、真砂町あたりからだと五層の外観をもっていたらしい)。

大正5年,大杉栄と伊藤野枝が滞在、やがて竹久夢二、宇野浩二、広津和郎、三木清、宇野千代、直木三十五、坂口安吾、中条百合子など多くの作家、芸術家が止宿した。ホテルの地下の食堂は外国人でにぎわい、さながら人種のるつぼであったという。その菊富士ホテルの歴史は第二次大戦末期昭和19年には旭電化の寮として売却され、東京空襲で灰燼となった。わずか30年の命脈だった。が、1920、30年代の日本の爛熟と、背中合わせのように、民衆への弾圧の時間を垣間見せてくれる光と影の風景だった、ように思う。

話を『現代俳句の精鋭』に戻すと、1~から3巻まで約40名の若い俳人たち各100句のアンソロジーである。この本の企画と編集をしたのが、いまは無き牧羊社社員、現在のふらんす堂社主・山岡喜美子女史である。その若き俳人たちのかなりがいまは大家の仲間入りをしているのだから、その慧眼と実行力には敬服せざるを得ない。

一巻の帯文には「俳句のルネッサンスがはじまる。 20代30代作家を一堂に結集して現代俳句の可能性に挑戦。1985年の作品100句を収録した精選アンソロジー。俳句の現在を映し出し、新しい夜明けを告げる。1986年版」とある。まぶしいばかりだが、今もなおこれを越える新人輩出のための企画はないに等しい。それから数年後、愚生の「俳句空間」の雑詠欄から登場した有望新人をあつめた「俳句空間」新鋭作家集『燦』、『耀』も規模からすれば、後塵を拝した(近年では『新撰21』が出色)。

その『現代俳句の精鋭Ⅰ』に、いわゆる俳壇とは遠かった愚生が入集しているのはひとえに山岡女史の慫慂によるものであった。感謝している。ちと、恥ずかしいがいくつかの句を以下に再録しておきたい。

     たびたびは狂えぬ花の咲きほこる         恒行

     胸にたまる汗と見(まみ)えし名は彦乃

     唇は血のくちづけで憐愛さる

     致死量の毒と思いて唇吸えり

     米騒動富強の国家文化鍋

     わが祖国愚直に桜散りゆくよ

     月光のあふれる駅をまたぎけり

     天奥に河原ひろがる春の午後

     一葉に裏日記あり菊の花

     十月は真一文字に消えゆけり


https://fragie.exblog.jp/33403417/ 【五島高資著『平畑靜塔の百句』刊行!】より

9月5日(火)   旧暦7月21日 秋である。

五島高資著『平畑靜塔の百句』が出来上がってくる。

平畑靜塔の作品にふれる機会があまりないままに来てしまったので、本著をとおしてあらためて平畑靜塔の作品に向き合うつもりで私も本作りにのぞんだのだった。

著者の五島高資さんは、靜塔とおなじく医業にたずさわる俳人である。それゆえにこその医師として生をまっとうした平畑靜塔のありように深い理解をしめしつつ、「平畑靜塔の百句」に取り組んでくださった。いくつか、句と鑑賞を紹介したい。

 武器を地に累か さね木犀かぐはしき   「現代俳句」昭和21年

前書に「上海集中営」とある。昭和十九年に応召、中国南京市陸軍病院に軍医として勤務。やがて昭和二十年の終戦を迎える。そこで無用となった銃器などを地面にうち捨てたのであろう。その積み上げられた武器の嵩はもちろん、少時とはいえ戦争に加担せざるを得なかった運命に対する複雑な思いが、「重ね」ではなく「累ね」と書かせたのだろう。死屍累々の記憶もよみがえる。もちろん、将来の不安はあれども、折しも木犀の芳しい香りが漂っている。本来の医師として、また俳人として次の時代を担う静塔をひそかに予祝するかのように。

 我を遂に癩の踊の輪に投ず   『月下の俘虜』昭和22年

岡山のハンセン病患者隔離施設を大阪女子医専の学生達と訪れた際の作。折しも患者らによる盆踊が催されていた。当時、癩菌の感染力は低いことは知られていたが、治療法が充分に確立されていなかった。ゆえに患者と接近することは躊躇われたはずだが、学生に促されて静塔はその踊の輪に加わった。それはまさに我をして我を捨て去る「忘我」の境地だったのではないか。盆踊における音楽性と体感性、そして何よりもその回転運動が二項対立的な観念を超えて真の人間性を発露させるのかもしれない。以後、それは静塔俳句の核心的な詩境となる。

 海の中鯖青くして雪止みぬ   『栃木集』昭和44年

静塔夫妻は、正月旅行のため柏崎に旅したが、大晦日から夜来の大雪。三日には、糸魚川で句会に参加する約束のため、二日中に、数キロの雪道を歩いて南下し、やっとタクシーを拾い、直江津を経て糸魚川に到着。苦難の末に見た、雪晴れの空とエメラルドグリーンの日本海の美しさに静塔は心打たれる。その景は鯖をよく食べさせられたという故郷の思い出と相俟って海中の鯖が洞見される。海(わた)は腸(わた)に通じるが、かつて故郷を追われた静塔にとって、青く渦巻く鯖の群れは、何か雪辱が果たされたような清しい体感として立ち現れたのかもしれない。

巻末の解説もすこし抜粋しておきたい。

精神科医であればこそ静塔もまた前述した秋櫻子の行動にシンパシーを強く抱いたことは疑いない。しかし、秋櫻子が掲げた「芸術上の真」もまた「父の掟」であることを察知したがゆえに、静塔は「馬醉木」と距離を置き、京都大学の自由主義に裏打ちされた「京大俳句」を立ち上げて、そこを拠り所としたのだろう。ところが、前述した「京大俳句事件」による検挙と投獄、さらには応召による戦地(中国)への出征によって、静塔は社会的死と肉体的死という二重の危機に直面して筆を折ることになる。しかし、この危急存亡を乗り越えることで、静塔は俳句界はもとより社会や生死といった二項対立的な固定観念を超克した境地へと参入することが可能となったと言える。

 滝壺に落ちて椿の崩れざる     平畑靜塔

新聞の記事を紹介しておきたい。

9月3日付けの信濃毎日の土肥あき子さんによる「けさの一句」は、堀かをる句集『風の譜』より。

 みせばやの咲きて日暦薄くなり    堀 かをる

「みせばやの花言葉は『大切なあなた』。猛烈な暑さが残していった忘れもののような愛らしい花が、今年の秋を知らせてくれる。」と土肥さん。

今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、寺田幸子句集『見失ふために』 より。

 崩壊を孕む地球や法師蟬   寺田幸子

「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ、ツクリンヨというホウシゼミの声は崩れゆく地球の悲鳴かも」と坪内さん。この異常気象の日々はわたしたちを不安にさせる。虫の声を聞いてもそう能天気ではいられない昨今だ。

今日は、昨日の早退をあなうめすべく勤勉に働いた。口数もすくなく、それはもう集中して。

わたしの働きぶりをみせてあげたかったくらい。昨夜は素晴らしい一夜だった。

とくに良きことが二つほどあったのね。だから、頑張る。。