加波山事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%B3%A2%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 【加波山事件】より
加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年(明治17年)9月23日に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。
概要
自由民権運動の激化事件の一つであり、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こした。福島事件に関わった河野広躰(河野広中の甥)等のグループが中心で、これに茨城県・下館の富松正安や栃木県内の民権家が加わっている。栃木県庁の移転にともなって宇都宮に庁舎が落成する際に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。茨城県古河市中田にあった文武館を中心にして小山、結城にて策謀を練っていた。
その後
後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や、田中正造・小久保喜七をはじめとして300名におよぶとまでいわれる民権家が逮捕された。しかし、政治犯とはならず、資金集めの際の強盗等の罪によって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人と、内藤、鯉沼らの若干名にとどまった。7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。獄死した者以外は特赦によって1894年までには出獄している。
この事件を期に、政府は爆発物の使用に対して刑法(いわゆる旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。
茨城県筑西市下館地区の妙西寺に富松正安・保多駒吉・玉水嘉一・平尾八十吉の4名が葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財(史跡)となっている。
西條八十が作詞した下館音頭の11番には加波山事件が歌われている。
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【筑西市の歴史】
本日は筑西市にある市指定文化財の紹介をします。「加波山事件志士の墓」です🪦
加波山事件は、明治17年9月、富松正安を指導者とする16人が「自由の魁」の旗のもと加波山にたてこもり、自由立憲政体をつくろうとした事件です。(筑西市公式ホームページより)
指導者である富松正安に加え、保田駒吉、玉水嘉一、平尾八十吉は常陸国下館(現・筑西市)であることから、下館地区の妙西寺に葬られました。
他にも、西條八十が作詞した「下館音頭」の11番には加波山事件が歌われています。
事件となった舞台の加波山は茨城県の桜川市内にありますが、筑西市内の方が関係していることから指定文化財となっています。
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🪦「加波山事件の志士の墓」📍茨城県筑西市乙652-17
https://adeac.jp/mibu-town/text-list/d100080/ht000890 【5 加波山事件】より
141 / 201ページ 加波山
鯉沼九八郎は,下稲葉村で爆裂弾製造にとりかかり,1884(明治17)年9月15日栃木県庁開庁式に出席する大臣たちを襲う計画をたてました。しかし,9月に入って鯉沼は爆裂弾製造中に事故を起こし,左手首に重傷を負ってしまいました。このときに治療にあたったのが,壬生町で初めて演説会を開いた石崎鼎吾(いしざきていご)です。
鯉沼九八郎の仲間たちは,その後,警察の目を逃れるために身をかくしていました。9月23日には,爆裂弾約100個をもって茨城県の加波山(かばさん)にたてこもり「自由魁(さきがけ)」「圧制政府転覆」などののぼりを立てました。その夜,彼らは下妻警察署町屋分署を襲いました。しかし,警察からの激しい攻撃を受け戦いが不利になると山を下り,26日の朝,芳賀郡小林村(現真岡市小林)で解散し逃亡しました。鯉沼九八郎,妻時子をはじめとして,事件に関係したとみられる多くの自由党員は,10月までにほぼ逮捕されました。鯉沼九八郎は,北海道空知刑務所に送られました。出獄後の1899(明治32)年県会議員となり,「加波山将軍」といわれました。