今年最後の満月(望月)
https://weathernews.jp/news/202512/040186/ 【今日は今年最後の満月 12月の満月は別名「コールドムーン(寒月)」】より
12月の満月、英語で”Cold Moon”農事暦における満月の呼び方
アメリカの先住民は季節を把握するために、各月に見られる満月に名前を、動物や植物、季節のイベントなど実に様々につけていました。
農事暦(The Old Farmer’s Almanac)によると、アメリカでは12月の満月を「コールドムーン(Cold Moon/寒月)」と呼ぶようです。極寒の季節を反映した名前です。
また、冬至に近い一年で最も夜が長い時期に昇り、地平線上に出ている時間も長いため「ロングナイトムーン(Long Night Moon)」と呼ばれるなど、他にもいくつかの呼称があります。
(略)
https://ameblo.jp/999-xyz/entry-12949109665.html 【今年(2025年)最後の満月(コールドムーン)】より
既報の通り、今宵(12/5)は今年最後の満月(望月)が夜空に輝いています。
(厳密には、8時14分頃に天文学上の満月(真ん丸)の状態となっていますので、今観える月は既に欠け始めた月となります。)
そして、今宵の月は11月5日の スーパームーン に次ぐ大きな満月であり、且つ夜空の最も高い位置を通る月でもある為、南天を通過する際には、首が痛くなる程真上を見上げなければならない事態となります。
因みに、12月の満月は冬至(今年は12月22日)に近い日に観られることから コールドムーン とも呼ばれますが、嘗ては ロング・ナイツ・ムーン(長い夜の月)や ムーン・ビフォア・ユール(冬のお祭り前の月)と呼ばれる事もあったようです。
尚、ご覧の写真は、1枚目は今朝未明の西の空に沈もうとする小望月(十四夜月)で、2枚目以降が東の空に姿を現した今年最後の望月(満月・ほぼ満月)となります。
(よって、1枚目の写真がより満月の状態に近い月になります。)
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210628-OYT8T50054/ 【この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは】より
新型コロナワクチンの接種はようやく軌道に乗ってきたが、東京の感染状況はリバウンドしている。3週間後に迫った東京オリンピックが、感染拡大の引き金になるとの懸念が収まらない。内閣支持率が低迷する中で東京都議選が告示され、秋には解散・総選挙が行われる。国民の信任を得ることができるか、菅首相は大きな試練の時を迎える。
「わが世の春」を謳歌した歌ではない?
敦成親王(後の後一条天皇)誕生50日を祝う儀式を描いた『紫式部日記絵巻断簡』。背を向けている右側の女性が彰子。画面下の男性が道長
選挙も支持率もSNSもなかった時代の支配者たちは、そんな試練とは無縁の優雅で安定した時代を 謳歌おうか していた、というのが多くの人の印象だろう。ちょうど1000年前の平安時代は、支配者にとって最もいい時代だったのかもしれない。当時は摂関政治の全盛期で、その頂点に藤原道長(966~1028)がいた。娘を次々に天皇の 后きさき (皇后、中宮)として権勢をふるった道長には、傍若無人の専横を伝える多くの逸話がある。最も有名なのが、道長が詠んだこの歌だろう。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
藤原道長(『前賢故実巻6』国立国会図書館蔵)
「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」――この時点で3人の娘を次々に天皇や皇太子の后とした道長が、得意満面に詠んだ歌とされてきた。だが、京都先端科学大学教授の山本淳子さんは、これまでとは異なる「望月の歌」の新解釈を発表した。近年の研究では、どうやら道長は得意満面にわが世の春を謳歌するような状況ではなかったこともわかってきた。
返歌拒み、唱和を促した実資
藤原道長自筆の日記『御堂関白記』(古文書時代鑑、国立国会図書館蔵)
山本さんの新解釈を理解するには、道長が「望月の歌」を詠んだ状況を知っておく必要がある。道長は現存する世界最古の直筆日記とされる『御堂関白記』(世界記憶遺産)を残しているが、そこにこの歌に関する記述はない。「望月の歌」は、「賢人右府」と呼ばれた藤原 実資さねすけ (957~1046)の日記『 小右記しょうゆうき 』の寛仁2年(1018年)10月16日の条に書き留められている。
藤原実資(『前賢故実巻6』国立国会図書館蔵)
『小右記』によると、この日は道長の三女、 威子いし (1000~36)が後一条天皇(1008~36)の皇后になったことを祝う 宴うたげ が開かれ、歌が詠まれたのはその二次会だった。祝宴には道長と子の摂政・藤原頼通(992~1074)をはじめ、左大臣、右大臣など貴族たちがそろって参加し、二次会も座る隙間がないほどのにぎわいだったという。あちこちで 盃さかずき が回され、道長ら政権の重鎮も酒を注ぎ合った。
道長が当時右大将だった実資に「今から座興で歌を詠むので返歌せよ」と命じて「望月の歌」を詠んだのは、盃が一巡した後のことだ。実資は「優美な歌で、返歌のしようがない。皆でただこの歌を詠じてはどうか」と出席者に呼びかけて、一同がこの歌を数回吟詠した。道長も歌を返さなかった実資を責めなかったという。
実資は故実有職に詳しい当代一流の知識人で、道長に 媚こ びずに意見することも辞さない気骨のある人だった。このためこれまでは、実資が返歌を拒んだのは権勢を自慢する「望月の歌」に内心あきれたからで、とはいえ祝いの席を台なしにするわけにもいかず、仕方なく出席者に歌の唱和を促したのだろうと思われてきた。一同は道長の機嫌を損ねないよう「望月の歌」を唱和し、道長も機嫌を直した、というわけだ。道長におもねり、即興の歌を声を合わせて唱和する貴族たちの姿が目に浮かぶようで、「望月の歌」を従来のように解釈する限り、何の 齟齬そご も感じない。
歌を詠んだ日は満月だったのか
だが、山本さんはまず、10月16日に「望月の歌」が詠まれたことに疑問を抱いた。当時の暦は月の満ち欠けを基準に決められ、通常なら満月は15日。歌が詠まれた16日の月は少しだけ欠けた 十六夜いざよい の月だったとされる。『小右記』には「当日は夜更けまで明るい月が出ていた」とあり、道長が月を見なかったとは考えにくい。実は寛仁2年10月16日の月は天文暦法上はほぼ満月だったが、和歌の世界で十六夜の月を満月と詠むのは極めて不自然だ。道長は「望月」に別の比喩を込めたのではないか。
そう考えて改めて「望月の歌」を見直すと、ほかにも疑問点が見つかった。冒頭の「この世」はそのまま「この世の中」と解釈されているが、この時代の和歌で「このよ」は、「この世」と「この夜」をかける 掛詞かけことば として使われている例が多い。それに続く「我が世」は、天皇や皇太子以外が「わが支配の世」の意味で使う例は他にない。一方、同時代の歴史物語『大鏡』には、「心のままに、今日はわが世よ」(心のままに過ぎる私の楽しい時間)という表現がある。山本さんは、「この世をば 我が世とぞ思ふ」は「今夜のこの世を 私は心ゆくものと思う」と解すべきではないかと考えた。つまり、「この世はすべて自分のものだ」という上の句は、「今夜は本当にいい夜だなあ」くらいの意味になる。
「月」は后と盃の隠喩か
紫式部(『抱一応挙等粉本』国立国会図書館蔵)
では、下の句の「月」に込められた意味は何か。山本さんは「后」の隠喩と解釈する。望月の歌が詠まれたのは三女が後一条天皇の后になり、「ひとつの家から三人の后が誕生するという未曽有のこと」(『小右記』)が実現した夜だった。朝廷で「后」と呼ばれるのは皇后、皇太后、 太皇太后たいこうたいごう だが、道長はこの「 三后さんごう をすべて娘が占めたことを「望月」と表現した。つまり、「空の月は少し欠けているが、后となった娘は満月のように欠けていない」と解釈すべき、というわけだ。道長が事実上のパトロンになっていた紫式部(生没年不詳)の『源氏物語』にも天皇を「日」、皇后を「月」に例える表現が出てくる。
さらに、実資が『小右記』に 酒盃しゅはい が座を巡る状況を詳しく記したのは、「望月」の「つき」に「盃」の「つき」が掛けられているからだ、と山本さんは見る。空を巡る月と座を巡る盃を掛けるのも、和歌の 常套句じょうとうく だった。だとすると貴族たちは道長の権勢におもねったのではなく、道長・頼通父子と左右大臣、そして右大将・実資という政権の中枢にいた5人が盃を交わして結束を確認したことを祝い、これからも皆で道長・頼通父子を支えていこう、と「望月の歌」を唱和したという解釈になる。
山本説が正しいなら、酒に酔いつつ即興でこれだけの掛詞を織り込んだ道長は一流の歌人、ということになる。もちろん歌の素養はあったのだろうが、どうやらこの歌にはタネがあった。やはり紫式部が「望月の歌」の10年前、「月」に「后」と「盃」の両方を掛けた祝いの歌を詠んでいるのだ。
めづらしき 光さしそふさかづきは もちながらこそ千代もめぐらめ(『紫式部日記』)
(中宮様という月の光に、皇子様という新しい光が加わった盃は、望月のすばらしさのまま、皆が保ち、千代に巡り続けることでしょう)
「今夜は心ゆくまで楽しいと思う。空の月は欠けているが、私の月――后となった娘たちと宴席の皆と交わした盃――は欠けていないのだから」という山本さんの新解釈が正しければ、これまでの道長のイメージはかなり変わる。だが、それでも、道長が娘を使い、歴代天皇に圧力をかけ、謀略も交えて藤原氏内部のし烈な権力闘争を勝ち抜いた事実は変わらない。
三条天皇(菱川師宣画『小倉百人一首』国立国会図書館蔵)
道長の父の藤原兼家(929~990)は摂政、関白、太政大臣と位を極めたが、五男の道長が最高権力者になれたのは、兄の道隆(953~995)、道兼(961~995)が次々に感染症で死去したためだった。道長は道隆の子を策略にはめて失脚させ、すでに道隆の娘、 定子ていし (977~1001)を后にしていた一条天皇(980~1011)に自分の娘の 彰子しょうし (988~1074)を嫁がせて( 入内じゅだい )、1人の天皇に2人の后を立てる前代未聞の手で強引に天皇の祖父になった。自分の娘が産んだ親王を皇位に据える一方で、定子の子の 敦康あつやす 親王(999~1019)や一条天皇の後を継いだ三条天皇(976~1017)の皇子、 敦明あつあきら 親王(994~1051)の即位を阻んだ。
『源氏物語』には六条御息所(みやすどころ)の生霊がモノノケになって登場する(葛飾北斎『北斎漫画』より、国立国会図書館蔵)
だが、道長は鉄面皮の権力者ではいられない弱さもあったようだ。権力を手にするにつれ、排斥した政敵や病死した兄たちが、死霊(モノノケ)になって仕返しをするのではないか、と極度に恐れるようになる。道兼の死霊に乗り移られて寝込み、意味不明のうわ言を叫ぶこともあったという。彰子の出産時には道隆や定子の死霊が安産を邪魔することを恐れ、僧や霊媒師を総動員して加持、 祈祷きとう 、 調伏ちょうぶく を行わせている。こうしてようやく手に入れた「望月」の夜は、道長がモノノケの恐怖を忘れることができた束の間のひとときだったのかもしれない。
長続きしなかった「望月の日々」
盃を交わす貴族たち(『源氏物語絵巻』部分、東京冨士美術館蔵)
しかし、苦労してつかんだ望月の日々は、長くは続かなかった。末娘の 嬉子きし (1007~25)を敦良親王(後の 後朱雀ごすざく 天皇、1009~45)に入内させたものの、 親仁ちかひと 親王(後の後冷泉天皇、1025~68)を生んだ嬉子は出産の2日後に天然痘で亡くなってしまう。後冷泉天皇には結局、世継ぎができず、天皇の外祖父という地位を保てなかった摂関家は、嬉子の早世をきっかけに力を失っていく。感染症をきっかけに権力を手に入れた道長の摂関政治は、感染症をきっかけに斜陽に向かい、権力は院(上皇)へと移っていく。
試練とは無縁どころか、平安貴族も感染症やモノノケ対策に追われ、優雅に和歌を詠んでいるだけではなかった。「それでも、血縁や地縁を固めた上でどぶ板を踏まないと勝ち残れないよりはずっと優雅ではないか」と思う先生方もいるだろう。選挙にプラスになるかも、と期待を寄せた東京五輪は、もはや感染症の試練に打ち勝った証しの祭典にはなりそうもなく、空の月を望月とみなして唱和するのはまだ先だろう。ちなみに2021年7月の満月は24日で、その前日、晴れていれば東京五輪の開会式で新国立競技場の上に出る月は少しだけ欠けている。道長や紫式部のまねをして「望月の歌」を詠むには、ちょうどいい夜だったのだが。