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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「マリアの賛美」

2025.12.07 14:44
ルカの福音書 1章 46-56節 
 46. マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、 
47. 私の霊(れい)は私の救い主である神をたたえます。 
48. この卑(いや)しいはしために目を留(と)めてくださったからです。ご覧(らん)ください。今から後(のち)、どの時代の人々も私を幸(さいわ)いな者と呼ぶでしょう。 
49. 力(ちから)ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名(みな)は聖(せい)なるもの、 
50. 主のあわれみは、代々(よよ)にわたって主を恐れる者に及(およ)びます。 
51. 主はその御腕(みうで)で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。 
52. 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。 
53. 飢(う)えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。 
54. 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。 
55. 私たちの父祖(ふそ)たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」 
56. マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。 

第Ⅱアドベント聖餐礼拝メッセージ

 2025年12月7日 

ルカの福音書1章46-56節 

「マリアの賛美」  


イエス様のお母さんになるという特別な使命を頂いた10代半ばのマリア。彼女が住んでいたガリラヤのナザレという町は、都エルサレムから北に140キロほど行ったところにありました。当時は500人弱の人口だったと言われています。 

このマリアの人生に、ある日突然とんでもないことが起こります。神様の使いガブリエルが現れて、告げたのです。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)  

 戸惑い、言葉を失い、「何のことか?」と考え込んでしまったマリアに、御使いは「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(1:30,31)と語りかけます。受胎告知です!  

結婚前の女性が妊娠するのです。マリアの身に起こったことは、人間的に見るならば最悪の事態でした。旧約聖書の戒めにもとづく高い倫理観で取り囲まれているナザレの町、500人弱の人口でしたから、みんな顔見知りでした。この小さな町で、あってはならないことが、自分の身に起こるのです。約束された救い主を、この地上に迎えるためとは言え、マリアが引き受けるには、あまりにも荷が重い使命でした。

ですからマリアは御使いに向かって、悲鳴をあげます。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(1:34)  

不安なこと、恐ろしいこと、訳がわからないことしか待っていないように思われるマリアに対して、それなのに御使いはまず「おめでとう、恵まれた方」と伝えたのです!  

私たち人間が期待している時・状況・事柄とは違う形で、神様の祝福や恵みは届くのです。それは、時に想定外の形でやって来ます。ピンチの時、最悪としか思えない出来事の中で、私たちは神様の大きなご愛と恵みまた守りを体験していきます。  

御使いは事前にマリアの希望や願いを聞いてはくれませんでした。「神の子を宿すことになるけど、大丈夫かな?」とは言ってくれませんでした。何の断りもなく、「あなたが選ばれた。もう決定事項だ」とだけ告げ、マリアにとっては、それを受け入れるしかないのです。  

私たちの人生で起こる出来事、特に突然の試練や困難は、マリアと同じように全くの想定外の形でやって来ます。(もちろん、人間には想定外であっても、神様にとっては、すべてご計画通りなのでしょうが。) マリア同様、「どうして俺の人生にこんなことが…」、「私が何か悪いことをしたせいなの…?」と叫びたくなります。  

受胎告知を受けた時、マリアの頭に浮かんだのはナザレの顔見知りのあの子・あの人だったでしょうか? 誰もが驚くスキャンダラスな事件として、変な噂が一斉に広まってしまいそうでした…。育ててくれた両親の驚き、悲しみ、動揺する姿も想像できたでしょう。誰よりも思い浮かんだのは、婚約者であり、結婚の日が近付いていたヨセフであったでしょう。「正しい人」(マタイ1:19)であるヨセフさんが、私の妊娠が、神様の御手によることを信じてくれるだろうか…。私のことを受け入れてくれて、結婚してくれるだろうか…と、不安だったでしょう。  

しかしマリアは御使いの受胎告知に驚く答えをします。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(1:38)すべて主なる神様がお決めになった通りのことが、私の身に起こりますように、とマリアは答えたのです。マリアが勇敢で素晴らしい信仰者だったというよりも、ここでマリアは神様のおことば通りにと答えています。ここが大事なのでしょう。小さなころから聞いてきた聖書のことば、神様の約束が今から実現していく。その通りになりますようにと、みことばの真実さ、神様のすばらしさに圧倒され、それにかけていくのです。  

親戚のエリサベツと顔と顔を合わせ、聖霊に満たされたエリサベツから祝福の言葉を受け取ったマリアは、それに応えて神様を賛美します。 「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(1:47) 

この賛美の中で、マリアは自分の民族のルーツにあたるアブラハムについて語ります。「私たちの父祖(ふそ)たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」(1:55)  

主イエス様誕生の約2,000年も前に、神様はアブラハムと約束をなさいました。 「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」(創世記17:7)  

 永遠に祝福するという驚くべき約束を神様は与えてくださったのです。神様が永遠に私たちとともにいてくださり、私たちの主でいてくださるという約束です。私たちに永遠のいのちを与え、永遠の御国に住まわせてくださる約束です。その約束を成就するために、アブラムとサラの息子であるイサク、その子ヤコブの子孫としてイエス・キリストを誕生させてくださったのです。 

先ほど交読した詩篇105篇にも歌われていたように、主なる神様はアブラハムと、またその息子イサク(創世記26:24)と、さらにその息子ヤコブ(創世記23:13-15、)と祝福の約束を結んでくださいました。その約束は期間限定のものではありませんでした。一代限りの約束でもありませんでした。永遠に守られる約束なのです!この約束はモーセにも、そしてダビデにも(ルカ1:32)にも語られ続けていきました。そしてナザレの会堂で、マリアにもヨセフにも語られ続けていたのです。 

 神様は救い主をこの地に送られ、永遠の救い・いのち・祝福の約束を実現される。そのみことばを聴いてきたからこそ、そのみことばに期待し、信頼し、実現を待ち望んでいたからこそ、マリアは「みことばどおりに」と応答できたのではないでしょうか! 

 マリアの信仰は素敵です。アブラハムやイサク・ヤコブ・モーセ・ダビデもすばらしい勇ましい信仰者です。けれども聖書は、彼らを完璧な非の打ちどころの無い人間とは描きません。彼らの欠点、弱さ、ずる賢さ、犯したおぞましい罪もそのまま記録するのです。そして、そんな彼らであっても、永遠の祝福の約束をあたえ、ご自身が語られたことばを絶対に守り抜いてくださる主なる神様の真実さ・すばらしさを聖書は、私たちに伝えているのです。 

 マリアの賛美に繰り返しでてくる単語「あわれみ」には、「真実の愛」という意味もあると、新改訳聖書の脚注は説明しています。あなたを愛する、あなたを救い出す、あなたを生かす、この神様のご意思、あわれみは永遠に変わることが無い真実な約束なのです。たとえ私たちがどんな状況になっても、繰り返し繰り返し神様を悲しませるようなことになってしまっても、神様の約束は変わらないのです。それが真実な愛なのです。 

 この神様の真実さ、永遠の愛をマリアは知らされ、心から主をほめたたえ、歌ったのです。

ルカの福音書1章46-50節、 
マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」 

 「本当に幸せ!」とマリアは言い切っています、そして心から神様を賛美しています。マリアの置かれていく状況は厳しいものでした。大変なことが次から次に起こります。 ― 裕福な暮らしが与えられ、恵まれた環境で子育てができる、そんなバラ色の人生は ― 待っていません。イエス様を生み、育てていくにあたり、つらいこと、悲しいこと、恐ろしいこともたくさん経験していかなければなりませんでした。 それでもマリアは幸せを心いっぱい、身体いっぱいで感じていたのです。

神様の真実な愛、大きなあわれみの中にぎゅっと包まれていたからです。御使いは言いました「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」神さまがいつも共にいてくださる。そして、この神様がいつも私のことを見守っていてくださる。そのことを心底、実感し、ああ、うれしいと感じたのです。 

マリアは「この卑しいはしために目を留めてくださった」と神様をほめたたえます。こんな小さな私を、田舎者の目立たない少女の私を、神様は選んでくださった! 神様は、私のことをずっと見ていてくださった! そして神の御子を宿し、産むために、私を選んでくださった!  世界一大事な使命のために、私を用いてくださる。マリアは、その事実を受け止め、喜びました。 

 「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。」  神様がしてくださることは本当に素晴らしい。神様は本当にすごいお方だと、その素晴らしさが心に迫って来ました。そして 

 「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」  王女様でも、王妃様でもなく、貧しい私のような者を神様は選んでくださった! このことを通しても、マリアは神様のあわれみ深さ、神様の愛、神様の優しさを感じたのです。神様がいと小さき者、私たち庶民の味方でいてくださること。虐げられている人、苦しんでいる人、貧しくてみじめな思いをさせられている人、そのような者を気にかけ、救いたいと願っていてくださることに気付いたのです。 

  「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」 マリアは感動して言いました。この「幸せ」って、この「喜び」って、どんなものでしょうか?  神様が、特別にあなただけに良い思いをさせてあげるよ。あなただけが得をするよ。何不自由ない生活を保障してあげるよ…神様がマリアに用意した祝福・喜びは、そういったものではありませんでした。マリアが感じていた幸せは、そんなちっぽけなものではなかったでしょう。 

 それを知ったマリアの喜び、それを体験したマリアの感動が、「幸せ」・「喜び」となってあふれ出て来たのではないでしょうか。 それこそ私たちも与えられたい本当の幸せ・本当の喜びではないでしょうか。 

 これから今年最後の聖餐式にあずかります。主イエス様の約束、その確かさ・すばらしさ、この約束が永遠に真実であることを心から受け止めていきましょう。

 「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」 
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」 

 祈ります。