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富士の高嶺から見渡せば

この百年であなたたちは何を学んだのか①

2019.03.03 14:34

~「臨時政府は初の民主共和国の誕生?」文在寅大統領「3.1節100周年」演説批判~

3・1独立運動から100年となる3月1日、ソウル光化門前広場で行われた記念式典で文在寅大統領は演説を行った。前日までハノイで行われた米中首脳会議が予期せぬ決裂という事態になり、米朝合意が成立した暁には、大々的に南北融和を歌い上げるつもりだった演説の中身、はおそらく大幅に変更されたに違いない。日本のメディアは、文大統領の演説の中身について、日本への批判を押えて日本との協力に必要性を訴え、慰安婦問題などに言及して日本を刺激することは避けたと好意的に伝えているが、しかし、過去の歴史に対する言及は、従来より厳しいという指摘もある。演説の全文日本語訳は、聯合ニュースの<三・一運動記念式の文大統領演説全文>で見ることができる。しかし、子細に読み込むと、相変わらず突っ込みどころ満載の演説でもある。

いずれにしても文大統領の演説からは、彼の歴史観や日本や北朝鮮に対する考え方を伺うことができる。そのなかで、日本にとって見逃してはならないのは、次の一節だ。

尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、100年前のきょう、われわれはひとつでした。3月1日正午、学生たちは独立宣言書を配布しました。(中略)

 3月1日から2カ月間、南北韓を分かたず全国220の市・郡のうち211の市・郡で万歳デモが起こりました。万歳の声は5月まで続きました。

 当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。

 約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。

 逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。

この犠牲者の数について、ことしの3・1節の10日前、韓国の国史編さん委員会が3年間にわたって進めてきた「三・一運動100周年記念データベース構築事業」の結果として、三・一運動の当時のデモ参加者は80~103万人、死者は725~934人だったとする数字を発表している。

ちなみに朝鮮総督府が発表した数字は「デモ参加者数58万人、死者553人。逮捕者は1万2668人」だった。国史編さん委員会の発表数字は、日本の旧陸軍省や朝鮮総督府の報告書、判決文、在韓宣教師の資料など三・一運動に関する一次資料2万1407件を調べた結果だという。国の研究機関が三・一運動に関する公式な集計資料を発表したのはこれが初めてだった。(国史編さん委が初の公式集計『死者934人』朝鮮日報2月21日

しかし、文大統領は国の研究機関が客観的にデータを元に検証した信頼するに値する数字はまったく使わず、事実の裏付けも検証もない、伝聞と推測に基づいた数字を無批判に使っているだけに過ぎない。「死者7500人」という数字は、民族運動家でのちに臨時政府第二代大統領を務めた朴殷植(パク・ウンシク)が書いた『韓国独立運動之血史』の中の記述から来ていることは間違いない。しかし、朴殷植のこの本は、1919年当時、上海に亡命していた朴が、独立運動を鼓舞するために、事実関係の検証もなく、多くは伝聞や推測をもとに書いたもので、3.1運動の死者は「7509人」という数字も、「真相は分からないが」という但し書きがつけられていて、「誇張どころか事実無根のプロパガンダにすぎない」(八幡和郎『最強の韓国史』扶桑社新書p180)と言われる。のちに韓国人の歴史家によっても多数の誤りが指摘されている本だ。

韓国人の歴史観を「ファンタジー史観」という人もいるが、自分たちの勝手の思い込みやファンタジーに沿った物語しか聞く耳を持たず、いくら客観的な事実を提示しても彼らは目を向けようともしない。文大統領の演説に示された歴史観は、その典型であろう。一国の指導者が、国家の研究機関によって直前に発表され、多くの人が知っているにも拘わらず、客観的な権威ある数字を完全に無視し、従来からの主張に沿った数字を無神経に採用したこと自体、あまりにも分かりやすいというか、それこそ確信犯的な嘘を並べているに過ぎないことが分かる。

3・1独立運動百周年演説が、日本に対して従来よりも厳しい主張だというのは、3・1独立運動の過程で偶発的に起きた事件を「虐殺」という言葉を使って非難していることだ。

最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。

 3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。

京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。

孟山事件については詳しいことは分からないが、提岩里事件とは、日本人警察官殺害の容疑者を教会に集めて取調中に暴動が起こり、逮捕者たちを射殺したり、日本の官憲による放火や類焼で数十人の犠牲者が出た事件をさす。しかし、この地域では事件に至る背景として、独立万歳デモの興奮のなかで住民が暴徒化し、日本人家屋や小学校、駐在所などに投石や放火が繰り返され、警察の発砲によって死者3人が出たほか、駐在所の日本人巡査1人が殺される事件も起きていた。文大統領は、「朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいない」と述べているが、襲撃による日本側の被害は、官憲の死者8名、負傷者158名、駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15などに投石、破壊、放火などの被害があった。日本の民間人がいないとすることで何を言いたかったのか?対立を煽りたかったのだろうか?

参考:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/三・一運動)

3・1独立運動は、朝鮮総督府による武力鎮圧で収束した。その後の事件処理も、正規の司法手続きを踏んで行われた。

逮捕・送検された12、668人のうち起訴され、有罪判決を受けた者は7816人。その内訳は保安法違反が72%、騒擾罪22%で、その他は放火、レイプ、公務執行妨害など。懲役15年以上の実刑を受けたものはなく、3年以上の懲役は80人。3・1運動の指導者とされる、いわゆる「民族代表」33人も保安法や出版法違反など量刑は軽い罪で起訴され、もっとも重い懲役3年が8人、2年半が6人で、残りは訓戒処分、執行猶予で釈放されている。有期刑を受けた者も、翌年には大赦令で刑期は半減された。独立宣言文を起草した李光洙はのちに親日派に転向し、東亜日報編集長や朝鮮日報副社長を務めた。

要するに、独立運動は継続せず、衰退し、終息していったのが、歴史的事実ではなかったか。1919年から1945年の棚ボタ式の「光復」がなるまでの四半世紀は何をやっていたのか。100年後の今に至るまで3・1独立運動の精神と命脈は延々と保たれ、文政権成立の契機となった1917年「ろうそく革命」の精神的土台となったというのだが、本当だろうか。100周年のロゴマークのデザインには「ろうそく」が使われているが、それこそ牽強付会、現政権による100周年行事の政治利用そのものだという批判も出ている。

文大統領は演説で、3・1独立運動の最初の歴史的成果は、大韓民国臨時政府の樹立だという。

民族の一員として誰でもデモを組織し、参加しました。われわれはともに独立を熱望し、   国民主権を夢見ていました。三・一独立運動の声を胸に収めた人々は、自分と同じ平凡な人々が独立運動の主体であり、国の主人だという事実に気付き始めました。(中略)

その最初の結実が、民主共和国の根源である大韓民国臨時政府です。大韓民国臨時政府は臨時政府憲章第1条に三・一独立運動の意義を込めて「民主共和制」を明記しました。世界史上で憲法に民主共和国を明示した初の事例でした。

3・1運動を契機に、独立運動家たちは独立運動には求心点が必要だと考えた。国際社会に訴え、その支援をえるため、当時、国際外交の角逐の場でもあり、各国の外交官に接触できた上海のフランス租界に、1919年4月「大韓民国臨時政府」「上海臨時政府」を発足させた。臨時政府に結集した代表とされる人々は、李承晩を典型とするように最初から海外に逃亡していた人々で、3・1運動と直接関わりのある人々ではなかったのではないか。「世界史上で憲法に民主共和国を明示した最初」だと文大統領は自慢するが、民主共和制を標榜するかぎり、圧倒的多数の大衆の支持があって初めて成立するはずだが、臨時政府の存在を承認する民衆の意思表示はいつどこで行われたのか?

出自も根拠もあいまいな臨時政府は、どこの国からも顧みられることはなく、結局、国際社会に承認をうけることはなかった。臨時政府内部の路線と利害対立、腐敗で、ほどなくしてほとんど瓦解状態となる。何しろ1919年4月の成立から1948年8月(韓国政府の成立)まで28年間の間に大統領だけで、李承晩や金九などの解任と再任を含め17代を数え、トップの出入りの激しさを示している。またこの間、臨時政府の所在地も上海に始まり、重慶に至るまで7か所を転々としている。要するに蒋介石の国民党政府におんぶにだっこで頼るしかない存在に過ぎなかったからだ。

現在の北朝鮮は、臨時政府を「大衆的基盤がなく、誰からも承認されなかった政府」、「派閥争いと内閣改造劇を絶えず展開した亡命集団」と酷評し、臨時政府の要人たちは「独立請願運動」をしながら、海外の朝鮮人から「人頭税」「公債」などの名目で多くの金品を集め、腐敗堕落した生活を送ったと非難している。おそらく実態はそれに近かったのだろう。大衆の支持もなく、基盤もなかった組織が民主共和制を名乗るなどおこがましい。文氏にはそれがわからないのだろうか。

(続く)

(写真はいずれも「3・1節100周年」を祝う市民の風景、2019年3月1日光化門前広場から市庁前までの道路で撮影)