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Vents(馬乗り)の話

2019.03.03 15:07

カタカナ語で「ベント」とか「ベンツ」と呼ばれる、ジャケットの尻部分にあるスリット(切れ込み)は大きく分けて次の4種類がある。


・シングルベント(Single vent)

またはセンターベント(Centre vent)


・ダブルベンツ(Double vents)

またはサイドベンツ(Side vents)


・ノーベント(No vent)

またはベントレス(Ventless)


・フック(鍵)ベント(Hook vent)


英語の法則に乗っ取ると、Vent(ベント)の複数形はVents(ベンツ)になるわけだが、このVentsは複数形としてだけではなく、この名詞について一般論として述べる際などにも用いるため、以下「ベンツ」を用いる。


また、「ベントが2つあるものは複数形のベンツになるので、ダブルベンツが正しい」とされるが、どうやら英語圏でもDouble ventとDouble ventsが混在しているらしい。


ただ、「1着のジャケットについている一組の切れ込み」というような意味で’a double vent’という用法が多いようなので、以下ダブルベントと表現する。


また、本来「ベント付きジャケット」は受動態で’Vented jacket’となるが、日本での通例に沿って「ベントジャケット」と表現する。


と、本題までの理屈っぽい説明が長くなってしまったが、まずはベンツの歴史から述べたい。


今のスーツに直接的に関与するベンツの誕生は18世紀に遡る。


紳士らが、裾が膝まである長いコート(ジャケットや外套といった上着の総称)を身にまとって馬に乗っていた時代である。


馬にまたがると長いコートは引っかかって突っ張ってしまう。だからと言って前ボタンを開けるとコートが風を受けて広がってしまうし、雨風が侵入してしまう。


そこで、そのコートの後裾に切れ込みを入れ、馬にまたがった時に後裾が左右に分かれるようにしたのがベンツの起源である。

下の画像を見れば、その機能性が理解できる。


和服にも、ベンツ状の切れ込みが入った「馬乗り羽織」と呼ばれる羽織があり、それに倣って洋服のジャケットのベンツも「馬乗り」と呼ばれることがある。

下の画像を見て分かる通り、馬乗りによって刀で羽織を突っ張ってしまうのを防いでいる。


ベンツ以外にも、例えば、カーブ状に切り取られたモーニングコートの前裾や、L字型に切り取られた燕尾服の上着(テールコート)の前裾も、馬に乗りやすくするための加工の名残の一例である。


燕尾服の上着(テールコート、テールすなわちTailは尾を意味する)は、前裾や2列のボタン(今ではボタンは飾りであり留められないが、乗馬服だった時には雨風を防ぐ機能をしていた)、そして後裾のフックベンツなど、上の画像のボー・ブランメルが着ているような、18世紀から19世紀初め頃の乗馬服だったテールコートの形をほぼそのまま残している。


首元から腰あたりまでたくさんのボタンが付いている18世紀のフロックコート(下の画像。なお、19世紀から20世紀初頭にかけてのフロックコートとは異なる)も、馬に乗りやすいように前裾がカーブ状に切り取られていて、フックベンツがついている。


19世紀のモーニングコートやフロックコートは、この18世紀の乗馬服としてのフロックコートの子孫であり、その乗馬服だった頃の名残で、前裾は切り取られていて、フックベンツが付いているのだ。


モーニングコートや燕尾服は乗馬服由来ということがお分かりいただけたと思う。しかし、乗馬服由来ではない礼装がある。


タキシードことディナージャケットである。


ディナージャケットは、これまた室内着であるスモーキングジャケット(下の画像)からヒントを得て考案された夕食着である。


ちなみに、ヨーロッパ大陸の国々では、ディナージャケットのこともスモーキングジャケットと呼ぶことがある。


このスモーキングジャケットはその名の通り、夕食後の喫煙の際に着られた。


というのは、19世紀の貴族たちは、屋敷で家族や客人らと夕食を楽しんだ後、男性は喫煙室に移動してタバコやお酒を嗜みながらポーカーやビリヤードなどを楽しみ、女性はまた別の部屋で彼女たちの時間を過ごしていた(ちなみに当時、女性の喫煙は、はしたないこととされた)。


貴族たちは燕尾服を着て夕食を楽しんでいたのだが、食後に燕尾服のまま喫煙すると、燕尾服にタバコの匂いが移ってしまう。それを防ぐためにわざわざスモーキングジャケットに着替えたのである。


ディナージャケットは、ファッションリーダーであったエドワード7世の発案とされる。

生まれて間もない頃のディナージャケットはかなりカジュアルな部屋着扱いだったため、くつろぐためのガウンなどのようなショールラペル(ヘチマ襟)だったが、徐々に燕尾服の上着の意匠を取り入れ、20世紀初頭にはピークドラペル(剣襟。英国ではポインティドラペルと呼ばれる)のものが正式となった。


スモーキングジャケットもディナージャケットもただの部屋着であり、馬に乗るための外出着ではないため、ベンツは必要ない。


そのためディナージャケットが市民権を得つつある今も、ディナージャケットはノーベンツが伝統的な意匠なのである。


ただ、人々が滅多に馬に乗らなくなった今も、乗馬服由来であるモーニングコートから生まれたスーツのジャケットには、ベンツを付けることになっている。


つまり、部屋着であるスモーキングジャケットから生まれたディナージャケットにはベンツは不要なのだが、前裾がカットされた18世紀の乗馬服の上着から生まれた19世紀のホワイトタイの燕尾服の上着やフロックコート、モーニングコート、さらにそこから生まれた今日のスーツジャケットには、ベンツが必要だというわけである。


「ディナージャケット以外の紳士服にはベンツは必要」

と覚えていただければ良いだろう。


しかしながら、ディレクターズスーツことブラックラウンジスーツについて、 


「ディレクターズスーツには襟が尖ったピークドラペルかつノーベンツのジャケットを合わせます」


なんて説明をよく聞くが、そもそもこのスタイルは、いかにも格式張って見えるモーニングコートやフロックコートを、気安く着られるスーツのジャケットに替えただけのスタイルなので、何か特別なジャケットを用意する必要はなく、普通の黒いスーツのジャケットを着るだけで良い。

つまり、上着にはベンツが付いているはずで、ラペルも普通のもので全く構わないのだ。


日本人が厚く信仰する濃黒のスーツ、いわゆる「礼服」にも同じことが言える。


「礼服にはノーベンツのジャケットがふさわしい」


と言われることがあるが、これはおそらく、ディナージャケットがノーベンツであることから「丈の短い礼装=ノーベンツ」などと解釈されて生まれた発想と考えられる。


日本の「礼服」なんて所詮は単なる真っ黒のスーツに過ぎないため、絶対にベンツが付いているはずなのである。


つまり、紳士服におけるノーベンツは、服飾史的な経緯から見ると、ディナージャケットやスモーキングジャケットなどの「19世紀にインフォーマルな略装として誕生したジャケット」にしかあり得ない意匠だと言える。


ダブルベンツ


ダブルベンツの発祥について


「かつて腰に剣を下げていた時代に刀身を収めた鞘を突き出させるために生まれたものである」


という説明をよく見るが、これについてよく考えてみたい。


まず、時代考証の点から考察してみると、スーツが誕生したのは19世紀後半と考えられるが、腰から剣を下げていたのはそれよりずっと昔、まだスーツの先祖のフロックコートやテールコートすら誕生していないような時代である。

その後の時代に剣を佩用する人々といえばせいぜい近衛兵やフルドレス(正礼装レベルの軍服)の際の海軍くらいだし、そもそもフルドレスのフロックコートやテールコートはフックベンツである。


次に、服装と剣の佩用方法を、西洋のコートと剣、日本の羽織と刀とで比較してみる。


まず、日本では刀を袴の帯などに差し、先に述べたように刀身部分を羽織の背の馬乗りから出す。つまり刀は羽織の内側に入る。


対して西洋では、下の画像の右の軍人のように剣をコートの外側に巻いたベルトから吊り下げたりする。剣がコートの外側にあるため、コートのベンツにはどう頑張っても通せないのである。

下の画像のように、日本の刀と違って西洋の剣はそもそも着ける位置が低く、かつほぼ垂直に着けるため、ベンツの出番はないのだ。

いずれにせよ、スーツのダブルベンツは剣とは関係なさそうで、おそらく、日本の馬乗り羽織と刀の関係を西洋のコートと剣に当てはめてしまったものと推測する。