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夏草の底貝塚の幾重にも 仲寒蟬

2025.12.08 13:51

https://fmfukuoka.co.jp/blog-archives/a/human/2017/06/2017617.html 【「モースが見た日本」】より

明治10年のきょう6月17日、横浜港に着いた船からアメリカ人の動物学者が日本に上陸しました。

そして横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝殻が幾重にも積み重なっている崖を発見。そう、大森貝塚を発見したエドワード・モースです。

モースといえば大森貝塚が有名ですが、功績はそれだけではありません。

ダーウィンの進化論を初めて体系的に紹介し、日本の人類学、考古学の基礎を作ったのはモース。

当時設立されたばかりの東京大学に請われて教授になりますが、ほかの外国人教授の大半が何の実績もないインチキ学者だと見破ったモースは、日本人講師と協力して彼らを追い出し、専門知識を持つ外国人教授の招聘に尽力。

さらに2,500冊の本を集めて東大図書館の基礎を作りました。

また、大学での講義や研究の合間を縫って、日本各地に標本を採集する旅行をし、多くの民芸品や陶磁器を収集。

日本の庶民の風俗や暮らしぶりを多くのスケッチに残し、そのスケッチを元に執筆した本の中で、日本の街の清潔さ、人々の正直さ、礼儀正しさ、心遣いに敬意を抱き、そうした気質が上流階級から庶民にまで及んでいることに感動しています。

学者として客観的で冷静なモースが見た明治日本は、貧しくても限りなく美しい国だったのです。


https://yumiaikawa.hateblo.jp/entry/2020/12/25/230940 【香取海の荒海(あらみ)貝塚】より

下総国 倭琴・やまとうた

暦が新しくなる冬至(12/21)に演奏修行をした"磯部"の姫宮神社は

現在、白鳳カントリークラブ(成田市磯部)となっている台地の北に鎮座。

鳥居の中からゴルフコースが見えてました!?

その白鳳カントリークラブの南、根木名(ねこな)川と荒海(あらみ)川の合流点に近い標高32mの台地に、約4,000~2,300年前にかけての荒海貝塚があります。

古い日本語は「母音は語頭にしか立たない」ため、「あらうみ」はあり得ず「あらみ」が伝統的な読みです。松浦党が「まつらたう」なのと同じですね。

古代名を伝える"荒海"ゆえ、駅家があったというのも頷けます。

貝層が1mにも達する荒海貝塚の名が広まったのは、ここから出土した約2,500~2,300年前の土器が、岩手県大船渡市の大洞貝塚の土器(大洞A′式土器)の影響を受けた独特のもので、「荒海式土器」と命名されてからでした。

何と、出土した「荒海式土器」の底部から籾痕が、土器が出た貝層中から稲のプラント・オパールが検出されたのです。

成田市ではここから3kmほどの宝田鳥羽貝塚でも稲の化石が発見されたことから縄文時代晩期にはすでに稲作が行なわれていた可能性が指摘されています。

これは12/21に撮った、ちょっと歪な「大」の字の五叉路にあった八幡神社です。

Google Mapsを見ると、ここ"荒海"の八幡神社と"磯部"の姫宮神社はともに東経140.32391で、縦一直線に白鳳カントリークラブを二分割しています。そして何とこの五叉路の200m先に荒海貝塚があったのです。

ところが、八幡神社の奇怪な形状に目を奪われた方向オンチの私は、地図も見ずに1枚だけ撮影して右折してしまいました。そこで、4日後の今日、"荒海"を再訪することに。

その前に、この地域にはあまりにも宇迦神社が多く、しかも宇迦(宇賀)神社には仏教とともに来日したダーキニー→稲荷に化身した例が少なくないため、手はじめに、住所が"成田市稲荷山"という宇迦神社を目指しました。

いやはや、うちから成田空港へ向かう道って、こんなに狭いんですよ…。

しかし、皆さんクラクションも鳴らさず、じっと耐えておられます!?ただ私はせっかちなので、信号のない土手を走ることにしました。

こういう道はずうっと走っていられます!!よくアーニャと散歩に来ていた土手です。

さ、利根川を渡りますよ。

しばらく道なりに走っていたら、すでに高台に入っていたようで!?

一車線の道路を走っているのに、下にこんな立派な道路があったとは…。

しかし、予想に反して、この台地からは下りてしまいました。住所が"稲荷山"なのに?

え?! これが"稲荷山"ですか? あまりに小さいので通り過ぎてしまいました。

鳥居まで戻り、左手の道を上がってみましたが、神社へは行けません。

何だかこの世ならざる空間に見えました。この辺りはどこを走っていても縄文の遺跡じゃないか? という気がするのです。

ここは現実的に、狭い社頭にキャノピーを停めて階段を上がるほかなさそうです。

上がったらすぐ社殿かと思いきや、参道がありました。

う~む、台地に上がってみても、あの雲の形は変ですねぇ。

上がってきた方角を振り返ると高さがよくわかりました。"稲荷山"…低いです。

石碑に「稲荷宮」とありましたが、この台地はむしろ浅間神社の富士塚のように人工的に山を切り開いたか土を盛った古代祭祀場という印象でした。

まさにキツネにつままれた状態で荒海貝塚を目指していますと、先日通り過ぎてから気になったお寺がありました。すごいですね。室町時代の仁王門ですって!?

下総国では古い茅葺の建物を残した天台宗寺院をよく目にします。

仁王門の手前に案内板がありました。

こんなルートが推奨されていますが、またしても宇迦神社?!次の機会に行ってみなくてはなりませんね。いよいよ荒海貝塚が近づいてきました。

現在、白鳳カントリークラブは、6つの神社に囲まれています。北東の姫宮神社をピークとして、底辺はともに北緯35.842の天満宮と浅間神社をつなぐ三角形(成田市磯部)と、浅間神社南の御嶽神社をピークとし、南の八幡神社と南東の須賀神社をつなぐ三角形(成田市荒海)が、歪な亀の子タワシ(?!)を形成しています。その亀の子タワシの南端が五叉路にある八幡神社で、

そこから東に200m入った同じ北緯35.835に荒海貝塚があるわけです。

今日は北東から下りてきたので、先に天満宮へ行った方がよさそうですね。

道路からは全く見えない場所にありました。湿っている感じがします。

ここに太陽が当たることはあるのでしょうか?

当然、菅原道真が生まれる前から祭祀が行なわれていたと想像されます。

ただし、日本中どこもかしこも祭神が幾重にも上書きされていて、残念ながら、祖先を神とする縄文の祭祀にはお目にかかれません。

同じ"磯部"の姫宮神社より古いのではないかと感じたのは、天満宮が(海や沼から?)階段で上がるタイプの神社だったからです。

"磯部"は、平安時代には「磯部郷」、江戸時代には「磯部村」だったとか。

数分走って、先日撮影した"荒海"の八幡神社の裏に到着すると、裏がスッポリ無い!?

もともと八幡神社が鎮座していた丘が切り崩されてあんな形になったのでしょうか?

荒海貝塚は、地名は"荒海"ながら、かつての「香取海」時代も、現在の根木名川からも

直に荒波を受けない場所にあったからこそ大規模な貝塚として残ったのでしょう。

根木名川を挟んで直線で約2.5km離れた宝田鳥羽貝塚が標高5m前後なのに対し、

荒海貝塚は標高32mの台地上に展開されていると書かれています。

ここを右折ですって? 向こう側は須賀神社参道の階段に続く道のようですね。

手前の坂ですが、見た目以上に勾配が急で、途中で時速0km/hになってしまいました!?

しかし重さが160kgもあるキャノピーを自力で押して上がれるでしょうか。

ここは何としてもキャノピーに頑張ってもらうしかありません。

あ、荒海貝塚の端っこが見えて来ました!! もうひと頑張りです。

貝塚の端っこにぶつかったら左折して更にエンジンをフカし、のぼり切りました。

荒海貝塚は約150m四方に4つの貝塚が環状に配置されているそうです。

ここから見ただけでは全容がわかりませんが、たしかに広いですね…。

しかも最も大きい貝塚(約100×40m)から縄文末期の籾痕のある土器が出土したことで

生活形態が漁労から稲作へと変容した過程の裏づけ調査が待たれているそうです。

100m先の須賀神社に到着。

これは…!? まさしく古代祭祀場ですね。ハンパない巨木が林立しています。先ずは140段以上あるという階段を見にゆきましょう。下までは見通せませんね。振り返って鳥居を撮ってみます。

扁額も何もありませんが、地図に須賀神社とあり、祭神は須佐之男命のはず。

ところが、境内社の稲荷に取って代わられてしまったのか、豊川稲荷系の紋が!?お正月に向けて新しい注連縄も飾られています。境内社なのに、ものすごい存在感ですね…!?

稲荷社はともかく、このような大規模貝塚と古代祭祀場が現存することに驚きました。

わざわざ再訪したので、白鳳カントリークラブを囲む神社を見に行ってみます。

急勾配なので、下りも気をつけないと。何とか無事、下りられました。

ほんの数分で御嶽神社の鳥居が見えてきました。しかしながら、高台の下は沼や泥濘地だった可能性が高いため「香取海」周辺の古社は階段を上るタイプが多いのでしょう。

この鳥居をくぐって道なき道を上がる勇気は持ち合わせていません。

時計回りにあと一社、ここから北上して浅間神社へ行ってみます。ゴルフ場に沿って北上してます。

ですが、ここは舗装されていないので入れないと思い、巾50cmあるかどうか

わからない側道を突き当りまで走りました。すると、まさかの…!!

いくら何でも階段をキャノピーで登ろうとするほどイカレてはいません。

ただ、重いキャノピーを自力で操作してバックするほかなく、ちょっと腰が!?

年寄りの冷や水とはこのことか…とガッカリしつつ帰途に就きました。日没直後の根木名川で、先日見たのと同じ筑波山を撮りました。

ここ根木名川や印旛沼東岸からは200基を超す古墳が見つかっているそうで、

三里塚遺跡で見つかった楕円片石器が房総地区最古の石器であったことから

3万年前には人々が住み始めていたとの見解が示されています。

また、千葉県内には約700ヶ所もの貝塚があり、全国で認められている貝塚の4分の1が千葉県に集中しているのだとか。お借りしてきた上の図は、大まかながら、●が縄文時代の貝塚、

●が縄文・弥生時代の貝塚、●が弥生時代以降の貝塚を示しているそうです。