Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

陽子's Ownd

西池冬扇・俳句

2025.12.08 10:01

天狼星屋根に動かぬ猫の影 西池冬扇

天道虫太陽に入る目眩かな 西池冬扇

ひまわりに顔を上から覗かれぬ 西池冬扇

今日よりは冬木と呼ばん梢鳴る 西池冬扇

綿虫の空には穴があるらしく 西池冬扇


https://ameblo.jp/sakadachikaba/entry-12910165148.html【常連の俳句―西池冬扇】より

わいわいとムメの花やらウメの花         口開けて梅の上にはなにもない

農具市これぞブドリの麦藁帽           遍路笠ススメ テトならトテチテタ

節分の空に穴あり虎の鬼

   ※

睡蓮の浮き葉を渡る蟻の道           団子虫オオバコ草の角曲がる

春の月赤いと狸玄関に             麦藁帽被って鴉の愚痴を聞く

山法師いくつ咲いても南無阿弥陀

●どってけどってけ/西池冬扇(徳島市)

 命の最小単位が細胞なら、細胞の中のキネシンやミトコンドリアは一体何モノなのでしょうか。例の麦藁帽を被ってもあんまり小さなモノの声はきこえません。でもキネシンの「どってけどってけ」と歩く音は聞こえたような気がします。いつものように仲間の声を聴きに野にでます。夏が来るとシロツメグサ銀座通りはいろいろなものが行きかっているのですが、どってけどてけと歩く虫はいないようです。

※西池さんの句、2回分をいっしょに出します。早くに届いていた原稿を見落としていました。(ねんてん)


https://masakokusa.exblog.jp/31079290/ 【 <西池冬扇『高浜虚子・未来への触手』>を読む】より   

神は虚子を俳人にした       草深昌子

西池冬扇氏の『高浜虚子・未来への触手』は、高浜虚子礼賛の一書といえるだろう。

西池氏の博識、思考の深さに圧倒されつつも、『高濱虚子の百句』(岸本尚毅著)を座右にするものにとって、願ってもない大著であった。

長く俳句をやっていながら、未だ俳句の本当がよくわかっていない私。

そのたどたどしい足取りが少々いとおしくなってきたのは、虚子の「俳句に深刻になってはいけません、これからですよ」という声が本書のどこからとなく聞こえてきたからである。

そう、未来への触手は気軽にまさぐった方が面白い。面白いと言えば、虚子のどの句も、その批評もさまざまに面白かった。「面白くなければ俳句ではない」という私の考えを再認識したものである。生れて初めて句会に出た時の師の言葉を忘れない。

――〈甘草の芽のとびとびのひとならび 素十〉、昌子さん、このような「草の芽俳句」を作ってはいけませんよー

もとより、三十歳の私には素十も虚子もわからなかったが、この句の傾向に反発して「ホトトギス」を離脱した水原秋櫻子系統の俳句に惹かれてゆくのは当然のなりゆきであった。

以来、人間探究派などの主情の濃き句、格調高き句群に魅了され続けた。

ところが二十年前、大峯あきらに出会って、私の俳句観は百八十度転換した。高浜虚子に嵌まったのである。 

大峯は大学時代、山中湖畔における稽古会で、八十歳の虚子に「俳句は自分が本当に感じたことを素直に言うのが大切です。

感じてもいないことを言ってもだめです。言葉だけでこさえあげた俳句はよくありません」と教えられた。

だが、哲学を学ぶ大峯は「感じたことを素直に言えばよい俳句が出来るなんて、そんな単純なことではない、虚子も耄碌したのではないか」と怪しんだ。

やがて、この教えこそが詩の生れる不易の源泉であることを自得するのに、大峯にして五十年かかったという。

このことは耳にタコができるほど聞かされたので、今や実作の鉄則になっている。

虚子の言葉をとことん咀嚼して大峯はこう言う。

「人間の言葉より先に人間に呼びかける言葉がある。その言葉を聞いたら、人間の自我は破れ、その破れ目から本来の言葉が出てくる。それを詩という名で呼ぶのである」

   さまざまの事思ひ出す桜かな     松尾芭蕉

現代人は中世の無常とも、江戸時代のそれとも、異なった無常の趣を感じているはずだとして、その無常感の変化を「桜の無常」を切口に論は展開する。

ただ芭蕉の句に限って言えば、現代を生きる年年の花として我が身にしみじみと染み入る桜である。

芭蕉個人に発した思いが、今も世人のそれと一つになっているのではないだろうか。

「さまざま」という日常的な言葉が、詩的に密着して桜を離れないものになっているように思う。大峯は「人は死なない」と言う。このことが信じられないようでは俳句という伝統文芸に連なっている資格はないと厳しい。

〈さまざまの事思ひ出す桜かな〉は、三百三十年を隔てて、今も私の眼前に爛漫と咲いてくれる桜である。つまり俳句が生きているということは、俳句を作った芭蕉その人が生きているということになるだろう。

 われ亡くて山辺のさくら咲きにけり   森澄雄

「死んだら桜が見られないのは癪だ」という澄雄の思いに、「あの世とこの世はつながっていますよ」と大峯が返した言葉に誘われて成った句だとは直に聞いたことがある。

西池氏は、自身から意識的に取り込んだ澄雄の無常は無常観あるいは無常感の擬きに過ぎないことを丁寧に解き明かす。いたく納得させられる解釈である。

  花咲けば命一つといふことを    大峯あきら

私たちは季節の循環のなかに生きている。自然の中にある存在は、誰のものでもない大きな命によって生かされている。桜が咲くのは命そのものの顕現である。

住職であった大峯は、その法話において哲学や詩の話を持ち込むことはついぞなかったが、

何回も拝聴しているうちに、俳人の言う「命そのもの」は「阿弥陀」にほかならないことが分かった。

阿弥陀は「宇宙」という言葉に置き換えてもよい。

明易や花鳥諷詠南無阿弥陀      高浜虚子

宇宙はこれである。「明易」の力強さ。虚子は「花鳥諷詠論に誇りを持つ」と言い放って生涯を閉じた。 

宇宙というのは何も太陽や月や星だけではない、いまここに生かされて立っているところも又宇宙なのである。

先ずは第Ⅲ部から読み始めて、第Ⅰ部に戻ったのであるが、

ここでは虚子作品の「ただごと」が、如何ばかり「ただごとならぬ」ものであるかを味読することになる。

   一匹の蠅一本の蠅叩

 「それがどうした」である。これほどの無常があるであろうか。

 この世の何もかもが「それがどうした」でいいのではないか、と開き直っているようである。 いや虚子は、ただ「在る」と提示しただけである。ポツンと蠅、ポツンと蠅叩。

 蠅が飛ぶから蠅叩がある、いや蠅叩があるから蠅は飛ぶのかもしれない。〈蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな〉と同じである。ここにはポツンと虚子が立っている。命あるところ非情あらざるは無しという感じ。 去年今年貫く棒の如きもの

真直ぐな一本の棒がぬうっと見える。丸太ん棒の小振りのようなもの、あっけらかんとしている。行く年来る年は我々に大いなる感慨をもたらすものでありながら、漠然と過ぎ去ってしまう。そこを虚子は明確なるモノのかたちにして見せてくれた。これを肯定することによって心から安らぐ私が居る。ちょっと笑える。

「如く」と言えば、〈大寒の埃の如く人死ぬる〉もまた、大寒という凄みにひれ伏すしかない。

    物指で脊かくことも日短   わが癖や右の火鉢に左の手

    女を見連れの男を見て師走    自ら其頃となる釣荵

物指を持ち出すとは、痒いところに手が届くような句と言えばお笑いであるが、まことぐうの音も出ない。

虚子の句のあほらしさほど唸らされるものはない。世の中のことはすべて想定外である、

虚子は目についたところを片っ端から「不思議と思いませんか」と問いかけてくる。

この態度こそが花鳥諷詠であり、人生諷詠でなくて何であろうか。釣荵の涼しさはたとえようもない。

虚子は何も言わない、いつも素知らぬ顔をしている。だが、虚子ほど「あわれ」なる人はいないのではなかろうか。

私なども物心ついたころから無常にさいなまれている。一歳で海軍軍人であった父を戦争で失ったことが影響しているのだろう。

百点を取ってはナムアミダ、かけっこでビリになってはナムアミダ、すべては仏に直結していた。

子供心にこの世には生きている人と死んでいる人がいる、父は見えないけれど生きていると信じていた。

こんな無意識の無常感が横溢するがゆえに、時の流れそのものが無常だと言わんばかりの虚子の句に鋭く感応するのだろう。

まさに人生イコール非情である。だが、虚子は決して嘆かない。そこが虚子の句のすべてを面白くしている。

 「事実を直視し、それをリアルに描きとどめることによって、

 人間は無常を克服するという手段を発見したということに私はコペルニクス的転回を感じる」という通りである。

「虚子らしくない」句と見てきた句は、あるいは最も虚子らしい句だったのかもしれない。

ここに西池氏の大胆なる逆説があって、読者をどんどん引っ張ってゆき、ついには虚子の虜になるという手法が際立っている。

どれも「非情」だと決めつつ、花鳥諷詠と対立する概念ではなく、「非情」の句と「究極的花鳥諷詠」の句は範囲が重なり合う、

虚子の作品は「理性を超えたところに、作者と読者が共同して想像する時空を想像するという、俳句がもともと内包していた手法の意識的解放を求める触手」の香りであるという。

このくだりをどう読み解くかが大事であるが、ここに至って私は膝を打った。

虚子は経済学者ケインズではないか。

株を買うときによく引き合いに出されるケインズの美人投票論であるが、自分の好みではなく、誰もが美人だと思うのは誰か、皆がどのような人を美人とするかに思いを致す、つまりそういう予測のもとに株を買うと儲かるというのであるが、虚子こそは間違いなく株で儲けたタイプではなかろうか。

それでいてケインズその人は、他の誰もが見向きもしない株に投資して財を成したという、そのあたりも虚子にそっくりである。客観にして主観、主観にして客観である。

時ものを解決するや春を待つ     一を知つて二を知らぬなり卒業す

まるで箴言である、作者を忘れてしまう俳句である。世情を知っていると言おうか、さすが小説家である。

 ある恋愛小説の名手が語っていたことがある。山場に来て恋の機微がどうしても書けない、

 結局「女が男を好きになった」それしか書けなかった。ところがそんな色気のない一文に狂おしく酔うことのできる読者がいた、

 つまり恋愛小説は読者が完成させてくれるのだと。俳句も然り、読者が作品を秀品に仕上げるのである。 虚子は人々を山川草木を見るがごとくに深く観察していたのだろう。

「選は創作なり」の裏返しといえるかもしれない。

終りに、虚子には「我」の句が多い。「我」を見る虚子の眼はあの世からこの世を見ているものであった。

われの星燃えてをるなり星月夜 行年や歴史の中に今我あり わが終り銀河の中に身を投げん

没後六十年経っても虚子の論議は続いている、西池氏には未来を探る触手というものをかくも広範に考察されて、虚子の前途はいよいよ輝かしくなるであろう。

虚子を思うとゴッホが目に浮かぶ。折から、ゴッホの映画「永遠の門」を観てきたばかり。

僕が見ているものを人々と分かち合いたいというゴッホ。

その眼は永遠を見ている。広大なる麦畑にあって、ゴッホの描く線は強烈なるスピード感に溢れていた。

ゴッホは徹底して即物具象であった。糸杉の如くデフオルメであっても具象に違いない。

自然がゴッホに描けと命じたものにどこまでも突き進んでいった。

自我中心のレンズを外して、自然の中に心を解放しているのは虚子と同じである。

虚子は狂わなかったけれども、その人生における葛藤にはゴッホに近いものもあったのではないだろうか。

だが、ゴッホ同様、孤独ではなかった、静かにも幸せを感じていたのだと思いたい。

たった一枚しか売れない中にあっても描き続けたゴッホ。

牧師に「なぜ絵を描くのか」と問われて、「未来の人々のために神は僕を画家にした」と答える。

自信というものではない、真理というものを知っているのである。

芸術家の言葉にはいつだって驚かされるのであるが、この言葉を受けて、

私は「未来の人々のために神は虚子を俳人にした」と直感した。

つまり、西池冬扇氏の『高浜虚子・未来への触手』というもののすべてはこのことを言わんとしているように思えてならなかったのである。

(2020年2月発行「WEP俳句通信」114号所収)