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中本真人著『中田みづほの百句』

2025.12.09 13:07

https://furansudo.ocnk.net/product/3200 【中本真人著『中田みづほの百句』(なかたみづほのひゃっく)】より

◆百句シリーズに中田みづほが登場!――ホトトギス俳人として

俳人の中田みづほは、浜口今夜との対談「句修業漫談」がよく知られるだろう。二人の対談は「まはぎ」昭和四年一二月号から始まったが、特に同五年七月号「秋櫻子と素十─ 句修業漫談のつゞき─ 」は、水原秋櫻子「「自然の真」と「文芸上の真」」の反論を招き、秋櫻子の「ホトトギス」離脱、「馬酔木」独立へと展開した。

このように書くと「秋櫻子と素十」が秋櫻子の「ホトトギス」離脱の引き金であったようにみえるし、実際そのようにもいわれてきた。しかし「秋櫻子と素十」が「まはぎ」に掲載されてから、秋櫻子が実際に行動を起こすまでには一年以上のタイムラグがあった。その間も秋櫻子は「ホトトギス」に投句しているし、東大俳句会や虚子たちとの座談会に出席している。

そもそも「秋櫻子と素十」は、どのような内容だったのだろうか。中田みづほと浜口今夜による対談「秋櫻子と素十」は、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱の大きな要因といわれてきた。しかし実際は、みづほも今夜も秋櫻子の俳句や作風を深く理解、高く評価しており、全く秋櫻子を否定するような立場ではなかった。

周知の通り、この「秋櫻子と素十」は「ホトトギス」昭和六年三月号に転載されて、また新たな火種を生むことになる。「ホトトギス」転載による「秋櫻子と素十」の影響については、別の機会に論じることにしたい。(解説より)


https://fragie.exblog.jp/38133558/ 【中本真人著『中田みづほの百句』刊行。】より

(略)

新刊紹介をしたい。

中本真人著『中田みずほの百句(なかだ・みずほのひゃっく)』

「ホトトギス」の俳人であり、脳外科医であった中田みづほの俳句を百句選んで鑑賞し、解説をほどこした一冊である。執筆者は、中本真人(なかもと・まさと)さん。俳誌「山茶花」(三村純也主宰)に所属する俳人であり、新潟大学で教鞭をとっておられる中田みづほは、新潟医科大学の外科医であり、本書のキャッチコピーに「日本脳外科医の父」とあるように日本の脳外科の発展におおきく貢献した医学者でもあった。中本真人さんは、2024年に上梓した『ブックレット新潟大学82 新潟医科大学の俳人教授』(第39回俳人協会評論新人賞)で、中田みづほについて一章をおこして書き記している。それを拝読して、中本さんにこの百句シリーズの「中田みづほの百句」をお願いしたのだった。本書は、中田みづほの作品を知ることができるだけでなく、みづほをかこむ同時代の「ホトトギス俳人」(高野素十・水原秋櫻子など)との交流や、師・高浜虚子との関係などを知ることのできる資料性の高い一冊となっている。

とりわけ、秋櫻子の「ホトトギス」離脱についてのそのいきさつの真意のほどが、詳細に語られており興味ふかい。

まずは、いくつかみづほの俳句と鑑賞を紹介しておきたい。

 空蟬(うつせみ)の脊の割(さ)け目より縷(る)のごときもの  大正九年

前年みづほは、外科教室の副手から助手になって、病院における責任も大きくなっていた。学生時代のように俳句に打ち込むことも難しくなり、数ヶ月にわたって雑詠への投句を休むこともあった。それでも俳句を完全に止めることはなく、ときどき句会にも出席していた。また本格的に俳句を始める前の水原秋櫻子、高野素十とも医局の同僚として親しく付き合っていた。大正九年、みづほは家庭教師として勉強をみていた喜多村萋(しげ)子こと結婚する。翌年には長男紳一郎が誕生し、みづほは父親になった。

 東京を春の夜汽車で発(た)ちにけり   大正一二年

みづほが新潟医科大学に着任した大正一一年四月、帝大俳句会復興句会がホトトギス発行所で開催された。復興に奔走した秋櫻子は、その句会記事の冒頭に「中田みづほ氏主唱の下に帝大俳句会が復興された」と記している。すでにみづほは新潟に移っていたが、東京に出張してこの句会に参加している。以後も上京のたびに、みづほは東大俳句会に出席した。

この句は東京駅から夜行列車に乗って、新潟に戻るときであろう。東京では虚子や秋櫻子たちと句会を開き、大いに語らうことができた。満足な気持ちとともに、春の夜汽車に乗り込んだのだ。 名をきいて居る草をとぶ蝶々(てふてふ)かな  百花園  昭和五年

東京の向島百花か園(むこうじまひゃっえん)の作である。次の年にみづほは「東京へ出たついでにほんとうの俳句を勉強したいと思つて居たところが、いろいろ都合をつけてくれて、百花園や植物園、茅舎の家等に於てのどかに句作することが出来た」(交通長閑(吟行記))と記しているが、あるいはこのときの成果であろうか。百花園は、素十と中村草田男と吟行したらしい。

「まはぎ」では昭和四年一二月号に「句修業漫談(くしゅぎょうまんだん)」というみづほ・今夜の対談が掲載された。俳句史上有名な「秋櫻子と素十」は翌五年七月号に掲載されるが、詳細は本書巻末の小論を参照されたい。

 葱坊主(ねぎばうず)白蝶(しろてふ)とまり三角に  昭和一三年

時局に目を向けると、前年七月に盧溝橋事件が勃発し、戦線が中国全土に拡大して日中戦争に発展した。「ホトトギス」や「まはぎ」には、戦地から俳句や文章が寄せられるようになる。みづほが拓いた海外俳句は、一部のエリートだけではなく、無名の兵士らが戦地で俳句を作る土壌にもなっていた。

この年みづほは、東京と京都を旅行した。新潟に戻ってすぐに、素十らと亀田を吟行し、この句を得ている。みづほは「亀田の泥水のしみこんだ僕の頭には新潟の地方の風物でないと俳句にはまとまらなくなつたらしい」(東京、京都、亀田)と記している。

 病よし南瓜(かぼちや)に顔が書いてある  素十入院  昭和一三年

入院中の素十に、妻の冨士子が子供たちを連れて見舞いに来た。その子供たちが南瓜にいたずら書きをしたのを、あとから見舞いに訪れたみづほが発見したのである。素十の元気な様子にも安心したのだろう。

この年、素十は「ホトトギス」一〇月号の雑詠に〈ひつぱれる糸まつすぐや甲虫〉を発表した。素十たちと亀田を吟行した帰り、みづほは大きな甲虫がいるのをみつけた。素十にその甲虫をみせると「いいなあ」と喜ぶので、みづほは自宅に持って帰った。句会の間、みづほの子供たちがその甲虫で遊ぶのをみて、素十はこの句を作ったという。

巻末の解説は、水原秋櫻子とみづほの関係、そして秋櫻子の「ホトトギス」離脱についての詳細な経緯が収録されれいる。

これは読んでほしい解説である。

一部のみ紹介をしておきたい。

俳人の中田みづほは、浜口今夜との対談「句修業漫談」でもよく知られるだろう。二人の対談は「まはぎ」昭和四年一二月号から始まったが、特に同五年七月号「秋櫻子と素十─ 句修業漫談のつゞき─ 」は、水原秋櫻子「「自然の真」と「文芸上の真」」の反論を招き、秋櫻子の「ホトトギス」離脱、「馬醉木」独立へと展開した。

このように書くと「秋櫻子と素十」が秋櫻子の「ホトトギス」離脱の引き金であったようにみえるし、実際そのようにもいわれてきた。しかし「秋櫻子と素十」が「まはぎ」に掲載されてから、秋櫻子が実際に行動を起こすまでには一年以上のタイムラグがあった。その間も秋櫻子は「ホトトギス」に投句しているし、東大俳句会や虚子たちとの座談会に出席している。

そもそも「秋櫻子と素十」は、どのような内容だったのだろうか。

中本真人さんは、みづほの秋櫻子理解などを丁寧に引用しながら、みづほもまた秋櫻子の「俳句の可能性を追求する姿勢を高く買っている。」と記している。秋櫻子をとりまく状況をかたりつつ、

中田みづほと浜口今夜による対談「秋櫻子と素十」は、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱の大きな要因といわれてきた。しかし実際は、みづほも今夜も秋櫻子の俳句や作風を深く理解、高く評価しており、全く秋櫻子を否定するような立場ではなかった。

周知の通り、この「秋櫻子と素十」は「ホトトギス」昭和六年三月号に転載されて、また新たな火種を生むことになる。

本書はには、「まはぎ」で句座をともにし、やがてブラジルへとわたる佐藤念腹との交流もしるされ、中田みづほという人間の篤実さにもふれることのできる一冊でもある。「日本脳外科の父」と賞され脳外科医としての業績をのこしたみづほであったが、俳人としてのみづほはあくまで質実な俳人であったとも。

 封切らぬ学術雑誌のみ暑し   昭和五〇年

(略)昭和五〇年八月一八日二一時二〇分、みづほはこの世を去った。その前日まで論文を執筆し、脱稿して植木幸明(こうめい)教授に託していた。生涯の盟友であった素十は〈盆過ぎの一人のこりて如何(いか)にせん〉と詠んで、その死を悲嘆している。その素十も、翌五一年一〇月にみづほの後を追うように他界した。

 団扇(うちは)もて萬代橋(ばんだいばし)を見に来たり  中田みづほ

表紙の団扇はこの一句より。