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俳句の選

2025.12.11 08:21

https://fragie.exblog.jp/32045543/【すぐれた俳句鑑賞は、すぐれた俳句評論である。】より

(略)

「秋麗」(藤田直子主宰)12月号で、評論家の坂口昌弘氏が藤田直子著『鍵和田秞子の百句』について書いておられる。

「秋麗」12月号「評論の基本は作品鑑賞である」というタイトル。抜粋して紹介したい。

『鍵和田秞子の百句』は優れた俳句鑑賞であり、評論である。

一般的に評論とは俳句についての総論的な俳句論と理解されていて、特定の俳人の百句についての鑑賞。解説は評論と思われていないところがある。

東洋最古の評論『詩品』が漢詩の作品を具体的に鑑賞しているように、評論というのは、そもそも作品を批評するのが原点であり基本である。作品がなければ批評が発生しない。俳句が詠まれて、その作品が良いかどうかを論じるのが評論である。(略)

『~の百句』のような書が一般的に評論と思われないとされる理由があるとすれば、百句の良さを説明できてないものが多いことや、選んだ句の評価が作者の主観にすぎないことが考えられる。しかし、もともと評論・批評というのは主観であり、絶対的で普遍的で客観的な批評というものはこの世にありえない。(略)作品評価において客観とは良い主観の総計で決められている。評論・批評は主観的判断をできるだけ客観的に文章化する行為である。批評文を通じて、句の批評をした人の主観が良かったのか悪かったのかを知る。

藤田直子の批評が優れていることを、例をあげて述べたい。

『鍵和田秞子の百句』の最後の句を取り上げる。

〈火は禱り阿蘇の末黒野はるけしや〉の句は、最近の句集『火は禱り』の代表句である。鍵和田が平成二年に阿蘇の野焼を見に行き、約三十年後に掲句を詠んだという事実を藤田は述べ、「阿蘇の末黒野に思いを馳せ掲句を詠んだ。末黒野から戦後の焦土を連想したのかもしれない。しかし末黒野は野焼の跡である。野焼は害虫を防ぎ、植物の育成を促すために行われる。生命が再生することを願って放たれた火である。遥かな時空を超えて、あの日の野火は秞子の心の中で再生への禱りとなって燃えていた。」と解説する。

藤田は鍵和田が主宰する結社の同人だから句の背景に詳しいが、読者は背景を知らずこの句だけで鑑賞する。「はるけし」はこの句だけでは地理的に離れているところを意味していると理解されるが、藤田は「時空を超える」意味を持つと解釈を深めている。

「火は禱り」の解釈がこの句の命である。藤田は「生命が再生することを願って放たれた火」「再生への禱りとなって燃えていた」と解釈する。読者がそう思っていなくともこの解釈を読めば納得する。(略)

藤田直子は事実に依拠して、自らの想像力をいかして鍵和田秞子の句を解釈・解説して句が優れていることを説明する。

鍵和田秞子の句が理解できない人にも彼女の句が優れていることを百句の鑑賞・解説を通じて納得することが可能となる。

本著は、はじめて『鍵和田秞子全句集』を読む人にとって、句をより深く味わうため鑑賞の手引きとなると思う。

俳誌「秋麗」には、藤田直子氏による評論「鍵和田秞子の世界」が連載されている。このじっくりと取り組んだ評論もまた氏にとって師・鍵和田秞子を顕彰するための大切な仕事となるだろう。

(略)

https://gokoo.main.jp/001/?p=10537 【俳句の相談 俳句の批評性について】 より

【相談】

以前、本歌取りの句が成り立つ条件として「その句に批評があるかないか」をあげてをられましたが、「俳句の批評性」とはどのようなことかを教えてください。

回答】

まず自然であれ社会であれ自分自身であれ、何ものかへの批評を欠いては文学は成り立ちません。いいかえれば「無批評な文学」など文学ではありません。このことは人類の文学の歴史をみても、あるいは名作といわれる作品をみてもわかります。

文学に批評が欠かせないのは俳句にかぎったことではありませんが、ことに極小の文学である俳句は批評性を凝縮した文学であるということができます。俳句の歴史をみても連句(歌仙など)の付句は前句への批評であり、連句のこの批評性が一句に集中したものが発句つまり俳句なのです。

俳句の「俳」という字は喜劇役者の意味ですが、喜劇がもたらす笑いは現実への批評を核にしています。このことは『俳句の誕生』(筑摩書房、2018年)に詳しく書きましたのでお読みいただければ幸いです。

和歌における本歌取りも本歌に対する批評を核にしています。ただまねるだけではまともな本歌取りの歌にはならず、その歌人なり時代なりの独自の視点(批評の視点)を要求しました。

俳句の本歌取り(本句取り?)についても同じことがいえます。というよりも本句取りの俳句にかぎらず、すべての俳句にその俳人なり時代なりの独自の視点(批評の視点)がなければなりません。批評こそが俳句の本質なのです。本句取りの句のよしあしも、この観点からとらえるべきものです。

このことはどんな句をよしとするか、どんな句を選ぶかという「俳句の選」の問題に直結しています。句会などではややもすると「どこかで見たような句」を選びがちなのですが、それは共感ではあっても「選」とはいえません。そんな「選」では類句・類想の山を築くことになります。

「俳句の選」とはその句のどこが今までとは違うかを見極めてその評価を下すこと、つまり選句もまた批評です。