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陽子's Ownd

作句と鑑賞について

2025.12.11 08:39

https://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=33 【感じる脳と考える脳 ~ 作句と鑑賞について】

五十嵐秀彦

今月はいつもと違い、句集等の書評は行わず私が日頃思うことなどを雑文として書いてみようと思う。評論ばかりでは息苦しいだろうから、たまにはコーヒーブレークのようなものもどうだろうか、という思いつきだ。

俳句を長く続けていると、選句選評を書く機会が多くなる。いま、私は朝日新聞地方版「俳壇」と、角川「俳句」の読者投句欄「令和俳壇」で選者をしているが、膨大な数の俳句を読んでいて多くのことを考えさせられている。選句選評というのは作品鑑賞であり、ある種の批評でもある。そのとき頭はさかんに動き句の世界を受け止めようとするものだ。中村草田男は俳句鑑賞について、句を自分の体験の中にとりこんだ上で鑑賞すると言っていた。私もその意見に賛成である。句の鑑賞で、季語の詳しい説明や措辞のテクニカルな面の評価で終わってしまう文章をときどき見かけるが、それはどうも鑑賞としてつまらないのではないかと感じている。

ただし、自分の体験に取り込むということは、実は容易なことではない。俳句は情景や体験の説明的な描写ではないからだ。また説明的な記述で終わっている俳句であれば鑑賞を書く必要もない。作者は何かをきっかけにして心の中に現れた光を瞬時に句に変換しようとする。論理的展開ではない。「何か」とは事物であったり、言葉であったりして、その材料は無数にある。そこにインスピレーションを得たときに句が生まれる。17音を思考することで成すのは難しい。難しいというより、俳句的ではない。このあたりに俳句の面白さがあるように思う。

では、作句の瞬間に作者の心の奥に光ったものを、鑑賞者が理解できるかというと、それは無理だろう。鑑賞と作句はまるで別物のように違う。なにをいまさらと言われるかもしれないが、毎日のように選句選評の作業を繰り返していると、その落差や乖離にしばしばとまどうことになる。

たとえば、角川「俳句」10月号(2019年)の「令和俳壇」で私が推薦句に選んだ次の句などはその点で興味深かった。

イミテーションこのオパールも夏海も  江口瑠里

選評の中で私はこう書いた。〈せめて夏の海だけは本物であってほしいが、しかし・・・・・・。オパールも、そして私自身もまたニセモノであるのかもしれない〉。はたして作者は「私自身もまた」などということまで思っていただろうか。ひょっとすると「イミテーション」という言葉から作句につながっていたのではないか。「オパール」はそこからの連想で、そこまでできればあとは「夏海」という季語を付けて一句とするだけだ。作句のインスピレーションはそんなところである可能性が高い。しかし読者はこの一句を自分の中にとりこんでみるのである。私はそのとき、体験的にニセモノの自分というものをこの句の「夏海」に見つけていた。ここに作句と鑑賞との間の飛躍がある。

あるいは、10月3日(2019年)の朝日新聞地方版「俳壇」で一席とした次の句。

カムイサウルスの箱庭にヒト生かされて  石井恵子

この句で私は〈人のちいささやいのちの不思議を語りたくなる〉と書いたが、作者は「カムイサウルス」を踏み切り台にして「ヒト生かされて」に至っていて、季語「箱庭」(これを見つけた作者のセンスは見事!)をそこに填めたのだろう。その跳躍が読者である私に「いのちの不思議を語りたく」させるのだ。

雪華「9月号」(2019年)の「余言」で橋本主宰の取り上げた拙句の鑑賞もまた、作句と鑑賞との間に存在する異空間を感じさせるものだった。

夏の夜や思想死に似て望郷詩  五十嵐秀彦

〈「団塊の世代」の十年後に隣接する作者や私の世代にとっては「イデオロギーの死」を令和の現代で強く感じるのだ〉〈蛇笏、龍太の死去でなにか望郷俳句、郷土俳句も廃れた気もするし、秩父の風土が生んだ金子兜太も昨年鬼籍に入った。掲句を逆説的に理解すれば、いまこそ望郷詩も大事だし、思想詩つまり社会詠俳句も大事なのではないか〉と、橋本主宰はこの句を捉えてくれている。

そして、作者である私はこの鑑賞を読み、なるほどそうか、と思ったのだった。私は「思想死」という言葉を見つけたことしか意識していなかったのである。あとの措辞はなんとなく自然に出てきたというしかない。しかし、主宰の選評を読んで「なんとなく」であった曖昧な動機が「解」を得たように感じた。

作句するときの脳と、鑑賞するときの脳の動きは、実にかくも違うのである。それが直観を起爆剤とする俳句文芸の妙味だ。散文であれば作者が伝えたいことがあり、読者はそれをいかに正確に理解できるかなのだが、詩は違う。特に俳句のように極度に短い詩型ではまるで事情が違っているのだ。しかも、作者が読者であり、読者が作者でもあるのが俳句の世界なのだから、そこに生まれる感性の飛躍そのものが芸術となっているのだろう。このことはまだ考察を深めなければならない。一見当たり前のことを言っているように思われるかもしれないが、ここに俳句文芸の核心があるようにも感じるからだ。


https://gospel-haiku.com/dig/d020206.html 【作句力と鑑賞力】より

やまだみのる

句会で一句評をするとき、「互いの句を褒めあうだけではおもしろくない。 没句のどこが悪いのかを論じあった方が勉強になる・・」と、力む人がある。 中には、「そのとおりだ・・」と、それに同調する人もいる。 確かにそれは間違いではないかもしれません。 事実、そのような研究会を推進される指導者もおられます。 でも、ぼくはその意見に反対です。

20年近くいろんなタイプの俳人と関わってきて、議論が好きで欠点探しが得意というタイプの人で、 且つ俳句が上手という人にはあまり出会ったことがありません。 俳句は理屈や論理で作るのではないので、「理論派=俳句が上手」という関連にはならないからでしょう。 初心者の句の欠点について得意げに語る人たちに、秀句の長所について意見を聞くと決まって寡黙になります。 つまり、いつも欠点探しを優先して鑑賞するので優れた点を深く鑑賞することに視点が届かないのです。

初心者の中にも、作品のどの部分がどう悪いのかを執拗に知りたがる人がいます。 そうした理屈を先に知ってしまうと、吟行で句を作ろうと思っても理屈がじゃまをして心を無にすることができず、 集中する訓練ができていないので、結局あれこれひねくり回して頭で考えて作るようになります。 俳句は「詩」です。考えて作った詩は決して人の心には響きません。 ほんとうに感動して、またその感動をとらえて授かった詩は、必ず他人の心を打つはずです。

「鑑賞力のある人=俳句が上手」という関係は紛れのない事実です。 ゴスペル俳句には鑑賞のページがいくつかあります。 その中でも「自由鑑賞」は、毎日句会や月例句会などの仲間の作品を鑑賞して、 その感想を書いていただくページになっています。 ぜひ、勇気を出して気軽に書き込んでください。 自分はこの句のどこに感動したか、共感したかと言うことを具体的に書いてほしいのです。 これが正しい鑑賞の姿勢です。

「自由鑑賞」だから何を書いても良い・・という意味ではありません。

わたしならこう表現する。ここはこう直したほうがよい・・・批判

わたしはこう思う。かくかくしかじかであるべき・・・自己主張

これに似た類句がある。これは類想だ・・・中傷

Aの作品より、Bの作品のほうがどうだ、こうだ・・・比較論

こうした内容はマナーに反します。 インターネットは公共の広場です。 批判・非難・比較論など相手に不快感を与えるような発信をしないことは最低限のマナーです。 メールを出す前、掲示板に書き込む前、どうぞ書いたことをもう一度みなおしてください。