Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

1 SCENT FOR DREAM

第七章:彼女がいた季節(後編)|1 scent for dreams

2026.01.08 03:50

シングルマザーであり、トップモデルとして煌めく世界を軽やかに歩いていた彼女。

「父親のことはどうでも良い。私には、類が全てだから」

そう言ったときのまなざしは、たしかに嘘じゃなかった。

有名な音楽家の父、その名にいつも付きまとわされていた類にとって、 “何者でもない自分”を愛すると言ってくれたその言葉は、救いだった。

だけど、救いの言葉は、ときに人の足元を脆くする。




彼女が去った理由は、経済だった。

「子どもがいるからね……」

その言葉に、類は何も言えなかった。

夢だった。 彼女と一緒にいられるなら、この会社で生きていってもいいと思っていた。

だが、現実は一枚の書類のように冷たく、正確に別れを差し出してきた。



そして、ある日。

街角で彼女を見かけた。偶然だった。

隣には新しい男性。彼女の子どもが、その男性に駆け寄ってこう言った。

「るいくん!」

胸が砕けた。

自分の名前が、まるで別人の記号になっていた。

しかもその男は、かつての知人だった。

自分の存在の複製が、彼女の新しい日常に収まっている。

すべてが白々しく、皮肉だった。





そして、類はそこで悟る。

「俺が信じたもの、愛だと思ったものは何だったんだ?」

自分の名すら他人のものであるかのようなこの世界で、 残るものは「勝つこと」しかないのではないか。

その瞬間、父の声が、まるで遠くの太鼓のように頭の奥で響いた。

勝て、類。勝つんだ。

その言葉に、初めて肯いた気がした。

愛の美しさを信じていた少年は、ここでひとつ死んだ。

だが、代わりに生まれたのは、歯を食いしばってでも歩き出す青年だった。