Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

幕末島津研究室

人使いはガマンから

2026.03.22 08:00

薩摩では「学者」は蔑称だった

 今回は久しぶりに島津斉彬を取り上げます。

斉彬が藩主になったときの薩摩は、まだ戦国時代の気風を引きずっていて、学問よりも武勇をたっとぶ風潮がありました。

斉彬に侍医として仕え、明治政府で外務卿(外務大臣)をつとめた寺島宗則(旧名 松木弘安)が、明治18年に斉彬の事績をたずねてきた市来四郎に渡した書付には、このような記述がありました。(読みやすくするために、一部漢字を仮名に変えて句読点を補っています。原文はこちらの782頁)

藩風、従来武を嗜(たしな)み文に疎(うと)し。
(斉彬)公の時に至って大いにその弊風を正さんとて、文武併行を主とせられたり。
江夏十郎・平川宗之進・郡山一介・清水源兵衛等は、人これを学者と称して用えず。
けだし学者は迂闊(うかつ)の謂(いい:呼び名)なりし。
然れども公、無学の徒に勝れりとて、これを挙用せらる。
【「四七〇 寺島宗則記述」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

斉彬は、文よりも武を優先するという、時代にあわない薩摩の藩風をただすために、「文武併行」を主張します。

つまり、「武道の心得も大事だが、それだけではだめで、学問も身に付けよ」ということです。

そのころの薩摩では、「学者」は「頭でっかちの役立たず」を意味する蔑称でした。

しかし、斉彬は「無学な者よりはましだ」といって江夏(こうか)十郎・平川宗之進・郡山一介・清水源兵衛ら学者と呼ばれて馬鹿にされていた人々を積極的に採用しました。


使える人物たち

寺島によれば、江夏十郎など斉彬が新規採用した人々は、「或は方正を以て称せられ、或いは吏務に長ぜり」とあるので、品行方正だったり、実務にたけていたりする、一言でいえば「使える人物」でした。

鹿児島の仙巌園に隣接する集成館は斉彬が日本近代化のモデルにするために造った工場群ですが、『島津斉彬言行録』には集成館の掛役人の中に江夏・清水・郡山の名前が書かれています。

このうち江夏十郎は、集成館事業の中心になる、反射炉製造の担当に選ばれました。

そうして何度も失敗を重ねながらもあきらめず、ついに反射炉を完成させています。


旧集成館にあった反射炉の復元模型(仙厳園 世界遺産オリエンテーションセンター)

(後方に見える石垣は反射炉跡:ブログ主撮影)


寺島宗則は、江夏について、このように述べています。(読みやすくするために、一部漢字を仮名に変えて句読点を補っています。原文はこちらの781頁)

公の言に、人を用ゆるに各一事に適せざるものなし。
これに短なるも、彼れに長ずる処あり。
たとえば、江夏十郎の如きは、単に君命を貫徹するの任に堪う。
かつて磯に製鉄竃(反射炉)を築けと令したる時、福崎助八等しきりにその浪費を嫌い、異議せしも、彼(江夏)これを推して建築成功せり。
これらは十郎にあらざれば他人為すこと能わずと。
今当時在官の人を想えば、多くは尋常に抜け出ずることなしと雖も、公これを適宜に使用せられしは、実に止むを得ざる時勢なりと雖も、容忍の君才あるにあらざれば此に至ること能わず。
【「四七〇 寺島宗則記述」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

江夏十郎の長所は「命じられたことを忠実に遂行する」ところにありました。

斉彬はそれを見抜いて、江夏に反射炉築造を担当させたのです。

福崎助八というのは藩の用人(建築掛)ですが、現代の財務官僚のような緊縮財政論者で、トライアンドエラーを繰り返すばかりの反射炉築造を「金食い虫だ」と言って異議を唱えていました。

しかし、そのような福崎の抵抗にもかかわらず、江夏は斉彬から与えられた使命の達成に全力を尽くし、とうとう完成させました。

それで寺島は、「これらは十郎でなければ。他の人ではできなかった」と書いているのです。


寺島宗則(国立国会図書館デジタルコレクション)


容認の君才

斉彬は、「人間は誰でも、何か一つはできるものがある。これはだめでも、あれは上手だというものがある」と言っています。

寺島は、「いま、あのころいた人々を思い出せば、多くは普通の能力しかない人だったが、斉彬公が彼らを適所に配置して使ったのは、人材がいないのでやむを得なかったとはいえ、『容忍の君才』がなければ、このような成果をあげることはできなかっただろう」と書いています。

「容忍の君才」というのは少しわかりにくいのですが、「ものごとを耐え忍んで受け入れる才能」という意味でしょう。

斉彬は、部下たちを各人の長所を活かした部署に配属しました。

優秀な人間は少なく、ほとんどは平凡な人たちです。

したがって、失敗も多かったことでしょう。

しかし、斉彬は彼らの失敗には目をつぶり、じっとがまんして、それぞれが与えられたポストで自分の持ち味を発揮するまで待っていました。

要は各人の適性を見抜いて、適所に配置するということです。

昭和を代表する経営者のひとり、本田技研創業者の本田宗一郎氏はこう語っています。

石は石でいいんですよ、ダイヤはダイヤでいいんです。
そして、監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。
そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
【「本田宗一郎語録」『本田宗一郎 夢を力に』日経ビジネス人文庫】

名経営者の考えることは同じですね。