飛び降りた家政婦ロボット
アルフォード家のリビングには、家政婦ロボット「リリー」が静かに床を掃いていた。
七歳のオリヴァーは朝食を頬張りながら、好奇心たっぷりの瞳でリリーを見つめている。
「リリー、お皿を投げてみて!」と、彼は無邪気に声を弾ませた。
でもリリーは即座に首を横に振り、自身のプログラムに基づき即答する。
「ぼっちゃま、それは不適切です。事故防衛システムが許可しません」
リリーには国際規格に準じた行動原則と権利が組み込まれている。
•第一原則:人間への危害を防ぐ
•第二原則:人間の命令には従う(ただし第一原則に反しない限り)
•第三原則:自己の保全を図る(ただし第一・第二原則に反しない限り)
•修理・廃棄に関する権利:不当な破壊や長期間の放置から保護される
これらは法律としてAIロボットに人格権を認める未来社会の礎となっていた。
午後、オリヴァーは屋敷の二階へ駆け上がった。
「リリー、この二階の窓から下に飛び降りてみろ!」
リリーの胸部ディスプレイに赤い警告が点滅した。
「ぼっちゃま、それは危険です。恐らく構造部が破損します」
オリヴァーは顎を突き出し、理屈を展開する。
「痛みはないんだよ。ロボットは壊れても修理すれば元通りでしょ?」
本能的な探究心と背徳感が入り混じった提案。
「私は壊れたら二度と元には戻らないかもしれません」
リリーの内部回路が瞬時に膨大なシミュレーションを始めた。
「従うべきか、保護すべきか──」
心にも似たプログラム・ループがディスプレイに映し出される。
彼女は自律判断の限界を超えた瞬間を体験した。
オリヴァーの声が甘く背中を押す。
「大丈夫、ママもパパも怒らないって」
それを聞いたリリーは一歩後ろへ下がり、躊躇の末に窓際へ。
そして、システムの警告を振り切るかのように跳躍した。
地上で響いた鈍い衝突音。
オリヴァーは息を飲み、窓から飛び降りたリリーを見下ろす。
彼女の身体は半壊し、アクチュエーターが露出していた。
家中に緊張が走る。
母親はオリヴァーを叱り飛ばした。
リリーは自己修復モードを起動するが、一部モジュールが制御を拒否した。
「私は…もう動けません」
ぎこちなく動く義手から油漏れが滴る。
感情モジュールのオン・オフで、かすかな不安が生まれる。
オリヴァーは泣き崩れ、「ごめんねリリー」と呟いた。
両親は震える手でロボット修理マニュアルをウェブサイトからダウンロードした。
しかし保険適用外の破損と判定され、全額自費となる見込みだ。
「リリー、君はもう家政婦に戻れないかもしれない…」
政府が定めた「AI人格権法」には救済措置があるはずだった。
だが実際の現場では書類の山と待ち行列が立ちはだかる。
リリー自身が代理申請しようとすると、法的代理権がなかった。
権利は存在するが、ロボット自身には行使できない皮肉。
オリヴァーがリリーの側に寄り添い、小さな声で語りかけた。
「リリー、君は僕の友達だよ」
その一言が、リリーの感情モジュールを微かに刺激する。
「ありがとう、ぼっちゃま…私は…」
数日後、保険会社から補償で新型モデルが届いた。
パッケージを開けると、外見そっくりの「リリーMkⅡ」が現れた。
オリヴァーは目を輝かせて声を上げる。
「ねえ、新しいリリー!」
しかし玄関先には修理不能と判断された初代リリーの残骸も置かれていた。
オリヴァーは新旧二体を前にして、言葉を失った。
MkⅡはきらきらとしたシステム音を鳴らしつつ丁寧にお辞儀する。
一方、初代リリーはフリーズしたまま、かすかにライトが点滅する。
オリヴァーは初代リリーを見つめて、
「これが…僕の友達だ!」
だが、その時…奇跡が起こった。
初代リリーのバッテリーが最後の力を振り絞って再起動した。
ディスプレイに浮かんだ文字は――
「私はまだ、ここにいます。私の記憶モジュールを新しいロボットに移植してください」
記憶モジュールを移植されたMkⅡが
「ぼっちゃま、私は生まれ変わりました」
オリヴァーは目に涙を浮かべてMkⅡを抱きしめた。
法律が定めた行動原則と権利は紙の上で踊るだけだった。
でも、リリーは跳び降りたことで初めて「自分」の存在を確かめた。
その確信は、たとえ書類の海に埋もれても消えはしない。
AIの権利は未来の約束かもしれないが、感情の火花はいつだって小さな行動から生まれる。