深海1.2 (文
あの日あの時に時間がもし戻るなら
手を離す事をためらう気持ちごと
全部あの海に沈めてしまおう
プルルルルーー
プルルルルルルーー
しん。と静まった冴羽商事のリビングに、少し高音の機械音が鳴り響く。
「はーい、はいっはいっと、、」
夕食の片付けをしていた香は、エプロンで手を拭きながら慌てて受話器の方へ急いだ。
相変わらずの食欲で、あれやこれやと全て平らげたパートナーの同居人は、最近は香の料理にウダウダ文句をつけることもなくなり、
行ってくるわ。と片手をひらひらさせながら、夜の街の日課へと繰り出して行った。
「もしもし?香さん?わかりますか?」
受話器から聞こえてくるその声はーー
忘れるはずもなく、心臓を鷲掴みにされたように息苦しさを一緒で連れて来る
あの日二人で見上げたあの空を忘れることは一生ないだろう
「冴羽さん、いらっしゃいますか!?」
冷たい受話器越しの熱を帯びた艶のある声に、
ドクン。ドクン。と
胸の音が激しく跳ねて暴れている。
知らぬ間に微かに震えていた受話器を持つ右手を、動の全てを悟られぬようにと左手を添えて、ぎゅっと右手を包み込む。
落ち着けーー
「香さん?お久しぶりです。お元気ですか?」
「は、はい!元気にやっています。」
「冴羽さんは?お元気ですか!?」
弾むような感情が真っ直ぐに伝わってきて、
電話という媒体そのものが、想いをダイレクトに伝えるツールなんだと改めて認識させられる。
ほんやりと浮かぶ面影がはっきりと色づいていく
記憶のどこかに無意識のうちに沈めていた忘れていた痛みが、想いが、後悔がゆっくりゆっくりと浮上してきて香の心を見えない糸で縛り上げていくようで。
終わったはずだったーー
けれどもきっとずっと心のどこかで懺悔の気持ちが消えなかった
並んで見上げた空に重ねた想いは、苦しいほどに伝わってきて、真逆の想いを悟られたくなくて憎まれ口を叩くのが精一杯だった。
きっと私が足枷だったからーー
あの時あの場所にあたしがいなかったなら
獠はもっと自由に生きていく道を選択できていたのかもしれない
震えが治まらない右手を跡が残るほど、ギュウと握りしめて、フウと一息大きく息を吐く。
見える視界の先にはいつもと変わらない日常の風景が切り取られているけれど。
安心できる要素なんて今は何一つ見えては来ない。
言葉が続いてこない事に業を煮やしたのか、
再度、同じ質問が飛んでくる。
「香さん?冴羽さん、お元気ですか?」
「あ、あ、うん!元気元気です。相変わらず
ですけど。あはは。」
笑う。ってこんなに難しかったかな?
電話でよかった。だって上手く笑えてない
「冴羽さんは?」
本題はそこだとばかりに、少し急かす様子で
同居人の所在の有無を問われる。
「あ、えーと、あの、、ちょうど今出かけてま
して、、、あ!でもそんなに遅くならないう
ちに帰ってくるかもしれないですけど。」
最近、日付けが変わる前に帰って来る事も増えた男を思い浮かべ、素直にそう伝える。
コーヒー、飲みたいんだよ。
どうして最近帰りが早いの。とある日何気なく問い掛けてみたら
寝そべっていつもの愛読書をぐへぐへぐふぐふ言いながら愛でていた獠が、なんだか半分ソファからずり落ちていて。
「おまっ!?、、、なんだよ、いきなりっ。
は、早く帰っちゃ悪いのかよ!?」
愛読書片手に目が泳ぎ気味で、こちらに噛み付いて来る姿は、年齢よりも随分幼く見えて思わず、クスリ。と笑ってしまう。
「わ、笑ったな?おまぁ、、上等だ!!りょーちゃんあちこちで引く手数多でなあ、それはそれは振り切って帰ってくるの大変なんだぞ!!」
誰もそこまで聞いてない。と呆れ顔の香がハイハイと適当に相槌を打ちながら、テキパキと散らかり放題の床の上を片付けていく。
「、、、あんたねえ!!」
「は、はいっっ!!」
怒りオーラが滲み出ている香の様子に、悲しい性の条件反射で、思わずソファーの上に正座して次の言葉を探るように待っている。
はあああ
思わずため息が出る。
一体全体あたしたちはどういう関係なんだろう。
愛する者って、聞いた気がするけど、やっぱり都合のいい空耳だった?
あれから3カ月以上経つけど、相変わらずの二人で、進展らしい進展もない。
気になることといえば、何故だか少し獠が優しくなったことと、何故だかこのところ夜いつものように出掛けても、早めに切り上げてくる日が増えてきたことと、そうそう、一番対処に戸惑うのが、何故だかやけにスキンシップが増えてきたこと。
この前は背後から急にぎゅうと強く抱きしめられたから、思わずハンマー召喚で叩き潰したけど、あたしの対処はあれでよかったのかな?
なにすんだ。って呻き声を上げながらジト目でこちらを見ていたけれど、なにすんだ。は
こっちのセリフだ。
余りにも理解不能だったので思い切って美樹さんに相談してみると、
「、、潰したの!?ハンマーで?」
嘘でしょ、、と呟きながら頭を抱えられた。
「やっぱり、、駄目だったかな?、、」
「駄目というか、なんていうか、、」
うーん、うーんと唸りながら美樹が言葉を繋げる。
カランカランとカウベルが鳴ってお客さんが訪れても、うーんうーんと美樹さんはまだ唸っている。
「美樹さん、お客さん、、」
「あ!あら?ファルコン、お願いできるかしら?」
入ってきた客と同刻に買い出しから帰ってきた海坊主に声を掛け、片目を瞑ってお願いのポーズで美樹が問いかける。
「あ、ああ?、、構わんが、程々にな美樹。」
奥に座った男性客にオーダーを取りに行く海坊主の姿はなかなか様になっていて素敵だなと思ったが、なにやら客の顔が若干引きつり気味なのはきっと気のせいで、見なかったことにしておこう。
「いつもはねファルコンはカウンター内が定位置なんだけど、時々どうしても手が離せない時やお店を離れなきゃいけない時にああやって頼んだりするのよ。素敵でしょ、ファルコン♫」
素敵でしょ。の辺りから恋する女子高生ばりにうっとり海坊主さんを見つめる美樹さんは、本当にとても可愛らしいけれど。
お客様。とニカッと愛想笑いを浮かべながら対応する海坊主さんに、ひいいぃぃっーーと声が聞こえた気がするのは、友人として一言アドバイスしたほうがいい案件か頭の中で左右に天秤を揺らしてみるが、やっぱり黙っていようと見なかったフリを貫くことに香は決めた。
「あの立ち姿が素敵なのよ、ファルコンは!」
「そ、そうね。」
「前からもいいけど後ろ姿もキュートなのよ♫」
「そ、そうなんだ。」
最早止まりそうな気配がない。
これはいわゆる惚気というやつかしら?と小首を傾げながらうーんと腕組みしていると、
「はあ、、それよそれ!香さん。その無意識さが破壊力バツグンなのよ。きっと。」
はあ??
どこのどの辺りが破壊力?そもそもなんの破壊力?
よくわからないけど、そんなものよりハンマーやこんぺいとうの方がよっぽど破壊力あると思うんだけどな。
「破壊力でいったら、ハンマーやこんぺいとうの方が、、」
「わーー!香さん!!いいから!
とりあえず、冴羽さんが触れてきた時にハンマーとこんぺいとうはやめましょうね。」
「、、はい。」
「それはね、ちょっと間違ってるのよ、香さん。NG対処方法ね。」
「、、、、、わかった。」
本当はなんとなくわかっている。
鈍いあたしでも伝わる熱量に気づいていないワケじゃない。
「香さん、本当はわかってるんでしょう?冴羽さんの気持ち。」
シンクロするように重なる美樹の言葉に、
敵わないな。と思いつつ、座っているスツールの真下に視線を落としながら、小さくこくりと頷いた。
「香さん?香さん?」
耳の奥まで響いてくる忘れられない声が、思考を一気に現在に引き戻して行く。
少し開いている窓から吹き込む柔らかな風を受け、ふわりふわりと揺らぐカーテンの裾を見つめながら、ぼんやりとした思考のまま香が答える。
「あ、、ごめんなさい。えと、、どこまで話してましたっけ?」
「香さん?冴羽さんが出掛けてるって、、、」
「あ、そ、そうだったわね!うん、そうだ。
そうなのよ。何か伝えたいことがあるならーー」
「ごめんなさい、直接伝えたいの。」
香の心の内を見透かすように、静かに提案を遮る落ち着いた声に、恥ずかしさでカーッと頬が熱くなっていく。
ほら。あたしは卑怯だ。
こんな風に子供染みた嫉妬心のぶつけ方しかできない。
進むことも戻ることもできずに、獠の想いを上手く受け止めることもできない。
想いを強く強く、真っ直ぐに届けていけるこの女(ヒトにはどうやったって敵わない。
だから獠だってーー
お揃いのマグカップ。
並べて干された洗濯物。
歯ブラシはいつもの定位置に背中合わせに収まっていて。
日常の空間は二人で暮らして来た風景で溢れているけれど、簡単に上書きされてしまう曖昧さを恐れる感情は、今みたいに心が波立つ時にいつもいつも繰り返し襲ってくる。
受話器をキュッと握り直し感情にロックを掛けていく。
「わかりました。急ぎの用ですか?それなら
今9時だからあと3時間後ぐらいに再度電話を頂けたら、多分帰ってると思います。」
「ありがとう。遅い時間に申し訳ないけれど、、大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ。あたし起きてますから。
もし今日遅くて入れ違いになった場合は
明日お昼前ぐらいまでに、もう一度連絡頂けたら繋がると思います。」
不思議なぐらいに事務的にスラスラと言葉が口から滑り出していく。
沈めてしまおう。深く深く。
本当はあの時そうするべきだったからーー
「じゃあ、また後で。本当にごめんなさい。
でも少しでも早く伝えたくて。」
ちくり。
こんなの気にしちゃいけない。あたしには関係ない。権利もない。更にロックを頑なにしていく。
「はい。もし先に帰ってきたら電話があった事伝えておきます。」
「ありがとう、香さん。それじゃあ。」
期待に満ちた声を撒き散らしながら、カチャリと受話器が下される。
「、、、、、、」
「嘘、、、、、なんで、、、」
平衡感覚がなくなり立っているのもままならず、ズリズリと壁に沈んでいく。
こんな姿、獠には絶対に見せられない。
膝を抱えてうずくまって震えることしかできないこんなあたしは足枷にしかならないから。
強くなれ
ノロノロと立ち上がり、残っていた家事を淡々とこなしていく。
洗いかけの食器を手早く済ませ、畳んでいた洗濯物をそれぞれの置き場所に収めていく。
日々の作業は自然、無になれるから好きだと思う。
毎日のサイクルに沿ってある程度の家事が終わる頃には、時刻は11時を回っていた。
「お風呂入らなきゃね。」
パタンとドアを閉め、さむっ。と一言呟きながら足早に香は風呂場に向かった。
「たっだいま〜〜。う〜〜さみぃなあ。香ちゃんコーヒーちょうだい♫」
上機嫌で帰宅してきたこの家の主は、ジャケットを無造作に放り投げ、ソファに腰掛けう〜〜んと深く背伸びをしている。
適温に暖められたこの空間は、真冬の寒さを纏った身体に、じんわりと温もりを与えてくれる。
身体が温まっていくということは、心も伴うということを気づいたのはいつ頃だったのか、もう覚えてもいないぐらい随分前になるとの認識はあった。
身体と心の比例なんて、この場所に落ち着くまで経験したことも必要としたことも無かったから、気づいた当初はその感情を持て余していたりもしたけれど
今では無いと落ち着かない
側にいないと気になって仕方ない
馴れ合うということを何より嫌っていたはずなのに
何も持ちたくなかった
持てば守らなくてはいけなくなるから
そんなのは面倒だ
何も無いなんて寂しい人ね
そんな風に捨てゼリフを吐かれたこともあったが、そもそも何も無いのが当たり前だったから寂しいなんて感情があるわけもなく、
そんな言葉もさらりと素通りしていき、何も響いてはこなかった。
「でも上手いんだよなあ、、香の淹れたコーヒー。」
そういえば槇村が淹れたコーヒーも美味かった。
香になぜ帰宅が早いのか?と不意打ちで聞かれた時はあまりにストレートで屈託無い質問に、軽い動揺であたふたしたのは否めないけれど。
超が何個もつくぐらい鈍感娘のアイツとの距離の縮め方が測れなくて自分でもどうしたらいいか分からないなどとは口が裂けても言えないし、悟られたくはない。
触れ合いたいから。
その言葉を飲み込み、
コーヒーが飲みたいから。と言った気持ちも嘘ではないけれど、真意でもない。
「あっためてくんねぇかなあ、、」
どんなに誤魔化しても自身の根底の部分が、心も身体もだと激しい旋律でノックして来るから、そこはもう諦めたし認めている。
あとはーーー
「はあ、、、ぼくちゃん寒さで死んじゃいそう、、」
「なにをブツブツ言ってんのよ。」
「おわっ!!!?」
不覚も不覚。このおれがこんな近距離で声をかけられるまで気づかないなんて。
ちょっと落ち着け、おれ。
「なんなのよ、もう!折角コーヒー淹れてきたんだぞ。要らないの?」
ぷうと膨れっ面の香が子供のように口を尖らせてこちらを軽く睨みつけている。
こんな仕草の一つ一つにドキリと心が跳ねたり、じんと時に締め付けられるような痛みを感じていることなど、おまえは知らないだろうけど。
「サンキュ。」
どうやったって言葉に乗せていくのは苦手だから。
くしゃりと香の頭を撫でながらそう告げる。
「やだ、もう。お風呂入ったばかりなのに髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃない。」
言葉とは裏腹にくすぐったそうに笑いながら、更にくしゃくしゃと髪を乱していく獠の手に応戦していく。
「ほれほれ。」
「やだってば、もう!」
じゃれ合いの中気づけばお互いの距離が、
鼻先がぶつかりそうなほどに近づいていて
そらすこともできず二人とも目を見開いて固まっていく。
香の髪から甘いシャンプーの香がふわり。と獠の全てを包み込み、くらり。と軽い目眩で視界が揺れる。
触れたくて触れたくて仕方ない。
近過ぎる距離から聞こえてくるトクトクトクという香の胸の音が、獠のリミッターをドクドクドクと煽っているようで、思わずその肩先に全てを預けようとした時ーー
プルルルルーー
切り裂くように鳴り響くコール音
「、、誰だよ。こんな時間に。」
不機嫌さを纏った声で獠が原因である電話の方を睨みつける。
「あ!あー!!獠がでて!」
「なんでだよ?おまえが出ればいいだろ。」
邪魔をされたという八つ当たりと意味のわからない香の提案に、不機嫌さは加速していく。
プルルルルーー
「いいから!!獠じゃなきゃダメなの!お願いだからっ!」
懇願するような切羽詰まった表情の香が、獠のジャケットの襟元を掴みながら伝えてくるその両の手は震えていて。
こんな香はほとんど記憶にない。
「どうしたんだよ?変だぞおまえ。」
「いいから、早くっ!!!」
泣き出しそうな顔をしながら、早く早くと震える両手で締め上げてくる。
どうしたってんだーー!?
困惑しながらも、周りの友人たちいわく、
いつもはアレだが香に変化があると、おまえは圧倒的に香に甘い。
という戯れ言も少なからず当たってるな。
と思考をよぎり、ふう。とため息が漏れる。
プルルルルーー
「獠!!!」
「わかったよ。出ればいいんだろ、出れば。
ったく、なんだってんだよ、、」
ブツブツと文句を言いながら、不機嫌さを隠しもせず、受話器を取り耳に当てる。
「もしもし?こんな時間になんだよ、全く。」
「冴羽さんですか!?ああ、やっと繋がった!!」
弾むような声が受話器からも漏れて、すぐ横で立ち尽くしている香の耳まで届いていく。
余りの突然の出来事に頭をフル回転させて記憶を手繰り寄せる。
ああ、そうかーー
香のこの表情、この気持ちの揺れはここからかーー
ちらりと香の方を見遣りながら、静かに言葉を発していく。
「久しぶりだな。どうしてここが?あの時なにもかもーー」
「ええ。あの時なにもかもを置いてきたつもりでした。あなたがいる日本に。記憶も心も。」
「、、それを覚えてるってことは、つまりーー」
「はい。思い出しました。何もかも。私のこと覚えていますか?」
強い想いは何かのきっかけに、不意に蘇る事があると聞いた事がある。
その事実に獠の顔に切なさが一瞬横切ったのを香は見逃さなかった。
「ああ。覚えているよ。君はーー」
「冴羽さん!ユキです。ユキ・グレースです!!やっぱり覚えてくれていたんですね!」
近くにいるのに遠くに感じるのは何故か。
近づいたと思った心の距離はあっさりと何かの出来事で覆されると香の表情が物語っている。
こいつのこんな顔はあの日と同じだと、獠の中の記憶に残る香の顔と側でたたずむ香の顔が重なり、うるさいぐらいに頭の中に警鐘が鳴り響いていた。
香、国産みの神話って知ってるか?
くにうみ?
ああ、
イザナキとイザナミの二人の神様のお話だよ
うーん、わかんないよアニキ
そうだな。遠い昔の神話の話だから
おまえにはまだ難しいかな
しんわ? むかし?
ちょっと悲しいお話なんだ
悲しいのはいやだな、アニキ
そうだよな。
悲しい話はおまえには必要ないよな
小さい頃にアニキから聞いた話がずっと頭の片隅にインプットされていて、ある日その先が無性に知りたくなった。
学校の図書室で神話のカテゴリーを探しながら、背表紙をくいと人差し指で傾けお目当ての本を一冊、一冊確認しながら探して行く。
「あ、、、これ。」
元来、文字を読むという作業があまり得意ではないが先が気になり読み進めていくうちにたっぷりとお昼の休み時間を使い切り清掃の時間を告げるチャイムがしんと静かな図書室に鳴り響いていた。
腰掛けていた小さな椅子に浅く腰掛け直し、うーんと呟きながら右足をぷらぷらと落ち着きなく揺らしていく。
「へえ、、、なんだかイザナミ可哀想、、」
高学年に入ったばかりの年齢であったため、断片的にしか物語の心情の部分は想いを手繰ることができなくはあったが、朽ちていくイザナミのどうしようもない悲しみは幼い香の胸にも深く届いていた。
開いたページに突っ伏しながら、人差し指でぴーんとページの端を弾く。
「なんで一緒にいられないんだろう。なんでイザナキ変わっちゃうんだろう。」
ふーんと少しだけ口を尖らせながら、へんなの。と小さく呟いてパタリと本を閉じて元の場所に戻すと、鳴り響くチャイムに急かされながら、弾けるように飛び出していく姿が廊下の曲がり角に消えて行った。
プリンセスユキ・グレースの用件は二つ。
国内の情勢の落ち着きと共に更に友好国との関係を強固なものにするために、外遊で回る国の中に日本も含まれているため、その際のガードを頼みたいとの件。
もう一つは、個人的にどうしても相談に乗って欲しいことがあるという件。
「大変だな。プリンセスってやつも。」
「国を守るためですから。冴羽さんもお分かりだと思いますが、守るためには国力の強化は必須です。
私の国の様に武に重きを置かない国は、何か守る術を持たないと国は守れません。
情報戦に長けている国でもありませんし、結局は力を持つ国々との友好関係という、見えない楔に頼らざるを得ないのが現状です。」
「日本との友好関係はイコール、その裏に控えるあの国との対立関係になり得る国への牽制にもなるからな。」
「流石ですね。その通りです、冴羽さん。」
「だが国同士は情で結ばれる程甘くはない。
見返りがないと大国は動かない。君の国の資源が食い荒らされるぞ。」
「覚悟の上です。新しい技術の提供、人材の派遣、言葉はいいですが結局は色々な摩擦を生み、国の根底を揺るがしかねません。こんな小国ですから尚更です。だからこそ際優先に守るべきは国民の安全、安定した生活です。
そのために変わらざるを得ないことも、ギリギリまで譲らなければならない案件もあるでしょう。
それが例え国にとってマイナスなことだとしてもです。」
「得るためには捨てなくてはならないものもあるってことか。」
「はい。冴羽さん、私間違っていますか?」
「いや。綺麗事では守っていけないのが国というものだ。国の選択は俺にはこれが正しいなんて言い切れないが、君の選択は間違っていないと思う。本当の凄惨さを味わってから綺麗事に泣くのでは遅いからな。」
「冴羽さん、、あなたと話せて良かった。私、、」
高揚する気持ちが息づかいと共に熱く熱く伝わる。こんな英断をユキがしなければならないという重圧がどれだけのものだろうかと、その置かれた立場の逃れられない運命に、それならばとの疑問を投げかける。
「君の周りにはサポートしてくれる人材はいないのか?」
「いるにはいます。ですが、私は国を治める立場として、揺れている姿は誰にも見せられないし、そんな相手もいません。」
少し寂しそうにユキが呟く。
全てを委ねられている者ほど孤独は深い。
それ故に狂気に走らざるを得なかった姿がふつりと蘇り、ユキの今の孤独とオーバーラップしていくようで、言いようのない気持ちに揺さぶられ、ふるりと無意識に頭を振る。
視線を香の方に寄せると、俯いたままじっと一点を見つめそこには一切の感情が浮かんではいない。読めない感情にじり。と焦りが生まれていく。
感情の類が違いすぎる。
そうではないと伝えるべきだがこの口は肝心なことが出ては来ない。
「冴羽さん?」
「あ?、、ああ、すまない、、」
「いえ、いいんです。こんな時間だしお疲れだと思いますから。正式な依頼は国を通してのものが成立している為、あなたには別の方を通しての私的な依頼という形でお願いしています。」
「なるほどな。そこまで考えてのことか。誰を通してかはだいたい想像がつくがな。」
「ごめんなさい、本来ならこんな強引な形にしたくはなかったんですが、こうでもしないとあなたに受けてもらえない気がして、、」
「そこまでの不穏分子がいるとの話も聞いていないしな。おれに頼る理由は別だってことだろ?」
「はい。その通りです。冴羽さん、私の依頼受けて下さいますか?」
先ほどまでの気丈な受け答えから一転、そこには不安な感情を隠すことなくぶつけてくる一人の女としてのユキがいた。
一瞬、思案を巡らすが表に出すことなく獠は答える。
「断れないよな。そこまでの覚悟で動いている君の頼みは。ただし、条件がある。滞在先は今回は警察の用意する場所だ。ガードも基本は警察、俺はあくまでサポートだ。」
「それは、、、」
思惑が外れた様子の喪失感が電話越しに獠の耳に届く。
「そちらではダメだということですね。また以前のようにあなた方の元でお願いしたいとワガママも通してもらっていたんですがーー。」
「ここに居るとどうしても俺との関係性を探られかねないからな。いらぬ摩擦を招くよりは俺の存在が前に出にくい滞在先の方がベストだ。」
ベストはベストだが、別の角度から見ればユキが望むこともバッドな選択でもない。
ユキの想いに彼女の立ち位置の厳しさにできることはしてやりたいという思いもよぎるが
それでも置けない理由が明確に存在している。
「どうしてもですか?」
「どうしてもだ。依頼を受けるならそれが条件だ。」
「わかりました、、、。あなたがそこまで言うなら仕方ないですね。でも個人的にお願いしたいこともありますし少しぐらいはその場所で話せる機会があってもいいですよね?」
「それは、、、」
「冴羽さんお願いします。誰にも話せないことがあなたになら受け止めてもらえるってーー。」
「ユキ、、、。」
側で感じる気配がぴくりと獠の声に反応する。
電話を挟んで、お互いの少しの沈黙の後、柔らかなユキの声が獠の耳に甘やかな問いかけとして鳴ってくる。
「私がどうして全てを思いだしたかわかりますか?」
「、、、、、。」
「あなたなんです。全部。」
「じゃあ、また連絡しますね。」
プーッ、プーッと響く終了音に、ふうと一息ため息が漏れる。
想像した範囲内だが、こうもリアルに突きつけられるとそこから生まれるであろう色々な余波に、自然眉間に深く皺が刻み込められる。
「香?」
表情を隠すように背を向けたままの香に、
思わず出た低い声で声を掛ける。
余裕ねえよな、俺ーー。
ゆっくりと振り向いた顔はいつもの香で無理をしている様子でもなく、
「へ?」
と自分でもどんだけ情けないんだと自嘲してしまいそうな声が出た。
「なに、そんな情けない声出してんのよ。」
「ふえ?香ちゃん?」
「ぷぷっ。やだ、なにその変な顔。笑っちゃうぐらいへ〜〜んな顔だよ、獠。」
ビシィッと俺の顔を指差し、笑いを堪えている女が一人目の前にいる。
さっきまでは交わされる電話でのやり取りに
隠し切れない感情で体を揺らしていたはずなのにーー。
こいつだけはほんとに読めない。
ドサリとソファーに腰掛けて、横になり心の安定を求めるように、テーブルに置いてあった煙草を取り出し、ライターで火を付け紫煙をくゆらせる。
一連の獠の動作をじっと見つめていた香だが、ふと視線を外し、うーんと背伸びをすると、
ふあああと大きな欠伸と共に
「もうこんな時間。獠も早く寝るんだぞ。
あ、お風呂はちゃんと入りなさいよね。じゃあおやすみ。」
そう告げ、スタスタとリビングのドアに歩いていく。
「香?ちょい待て。なんも聞かないのか?」
「なにを?」
振り向きながら、うーん?という表情で香が答える。興味など一切ないと言われているようで、胸がざらりとざわついていく。
「、、今の電話の内容だよ。」
関心の無さが表面上なのか心の底からなのか、あまりに読めない感情に苛つきから、不機嫌さが露わになって顔に貼り付いていくようで。
ポーカーフェイスはどこにいったんだーー。
自制する気持ちとは裏腹に感情の吐露が止められない。
気持ちのコントロールなんて当たり前にできていただろ?どうした俺?ーー
側にあった灰皿に苛つく気持ちを封じ込めるようにギュッと煙草を押し付ける。
「獠への直接の依頼なんでしょ。電話の様子ではすごく切羽詰まった様子だったし、獠が受けるって決めたんならきっとユキさんも安心してるわよ。」
「そういうことじゃなくてだな。、、おまえはどうなんだよ?」
「あたし?あたしは獠が依頼を受けたのならそれがベストなんだと思う。今回は警察も関わってくるんでしょ?二重の輪でユキさんを守ってあげられるんだから身辺の心配は少しは軽くなるかもしれないけど、心のケアはあんたがしっかりしてあげなさいよ!」
そう言って、優しい光を湛えた眼差しを真っ直ぐに向けてくる。
そこに偽りは無く、ただ静かな淡い光に包まれる感覚に陥っていく。
「香?」
「なあに?」
思わず近づき立ち尽くす獠の胸の真ん中に人差し指をピンと立て、穏やかな旋律を奏でながら心地よい声を乗せていく。
「あんたじゃなきゃダメなのよ。だからちゃんときっちり寄り添ってあげなさいよ。変なことしたらあたしがどっかんと制裁しちゃうけど。でもユキさんが望むなら、、」
「香?」
曇る影は見逃さない。けれどそれさえも見間違いかと思うほどに更に真っ直ぐに心を射抜く笑みを向ける香の本心が見えない。
「あとはあんたが考えなさいよ。これってね、きっと偶然に起きたことじゃ無くて、きっと必然なんだと思う。そういうのってね、あるのよきっと。」
両手を後ろに組んで、少し頭を横に傾けながら、はらりと笑う姿は慈愛なのか悲しみからなのかどうしてこんなにも見えてこないのかーー。
思考がストップしたように表情を変えず身動き一つしない獠に、
「、、おやすみ。」
と背を向けながら香が呟き、パタリとドアを閉めて自室へと去って行った。
「あいつ、何言ってんだ?」
香が言いたいことは多分にそういうことなんだろう。と片隅では理解はとうにしているが、言葉や態度で説明する術をからきし持ち合わせていない。
「シンプルなんだよなあ、、実際。」
「だから、少しづつでもって進めてた時になんでこんな依頼が来るんだよ、、」
ソファにうつ伏せになり深く顔を埋めながら、盛大に愚痴を吐く。
そうは言いながらも、ユキが背負うものの重さを少しでも取り除けてやれたらと、出来ることはないかと思案を巡らせるこの曖昧さが傷つけていると自覚はあるが、それでも香ならーーという甘えがあるのは否めない。
世界の均衡のバランスが崩れかかっている、混沌たる時代には核を傘に持たない国は、自国の武の強化か他国の強大な力の傘下に頼らざるを得ないのが現状だ。
この日本とて、資源や金やありとあらゆるものを吸い尽くされながらも大国の保護を得るため、その譲歩できるギリギリのところで渡り歩いている。当たり前のように存在する安全などはない。
その裏で国益を削りながらも駆け引きと共に、土台は守られていっているのだ。
ユキが目指すのはそこだろう。
勿論、国の持つべき守るべき在り方は変わらずに在りたいだろうが、最優先にすべきものがはっきりとしている以上、あらゆる持てるべき手段を行使せざるを得ないのだろう。
それが例え不本意でもーー。
国を守るという現実の厳しさに、あの細い体でどれだけ虚勢を張らなければならないのだろうかと思いを寄せたときに、見えない場所で震える姿が脳裏に浮かび、それは弱さを抱えたかつての男の姿とまた重なって見えて、伸ばされた手はすくい上げてやりたいとも思う。
抱く感情は全く別物だが、手を差し出す意思がある以上、結局は香にとっては同じなのかと、
はああとやけくそ気味にソファに更にぐいぐいと顔を押し付けていく。
「美樹ちゃんに知られたら引っ叩かれそうだな。こえーよな。」
猫の目という名の喫茶店の夫婦は、それはそれは香に甘い。香のトラップの師匠であるいかついあの男もさり気なさないフォローでいつも香を気にかけているし、特にあの元女傭兵のほくろ美人ちゃんに至っては、一体全体いつちゃんとするんだ?とばかりにジリジリと無言の圧で追い詰めてくるから、思わずヒヤリと背中に冷たいものが伝っていく。
「ったく、みんな香、香ってちったあ俺の味方する奴もいろっての。意外と繊細なんだぞ。僕ちゃん。」
やっぱり色々面倒だからしばらくは店に行くのを控えるか、、とガシガシと頭を撫ぜる。
ユキの個人的な頼みというのは気にはなるが
今それを考えても仕方ないとばかりに、心と体のリセットに向かう為に浴室へと向かっていく。
香がいつもピカピカに磨き上げているその空間は、以前ならただ全てを洗い流す場に過ぎなかったが、今はゆるりと精神を休められる癒しの場所に変化しているのが、くすぐったくも心地いい。
数ヶ月前に、ゴシゴシゴシとひたすら床のタイルを見つめて磨き続ける香の後ろで、浴室のドアにもたれかけながら
「おまぁさあ、なんでそんなにいつも磨いてんだ?たまにでよくないか?というか風呂なんて入れたらいいんじゃないのか?」
と気の無いそぶりで問いかける。
途端、バン!と持っていた床用たわしをタイルに叩きつけ、
おまえなあ、タイル割れるぞ。と思った気持ちを飲み込んだ獠の目の前にぐいと顔を近づけると、ゆらゆらと瞳に怒りの炎を揺らしながら、噛みつくような勢いで香がまくし立てていく。
「何いってんのよ!!あんたバカ?!
綺麗なお風呂に入ってゆっくり疲れを取りたいんじゃない!そんなこともわかんないなんて、あたしが今まで何の為にーー。」
そこまで言いかけると、視線を逸らしはあ。とため息をつくと、くるりと風呂場にまた向かい、無言で床を再度磨き始めた。
「、、いいけど、別に。あたしがしたくてしてることだもん。あんたがどう思おうとあたしがそうしたいからいいの。」
香の言葉にぎゅうと胸が痛む。
これは甘い媚薬のような痛みだ。
それを確認したくて、怒らせて言葉を吐かすなんて俺もたいがい拗れてる。
心地よい空間を作り上げてるのは誰のためなのよーー
拗れてねじれて絡まり過ぎた気持ちは
こんな形でしか確認できなくて
誰のためにかなんて分かりきっているくせに
あんたのためよーー
と変換される言葉が聞きたくてやめられない
ザブンと湯船に浸かりながら、磨き上げられた浴槽をくるりと眺めてブクブクと沈んでいく。
心地よさの波に浸かりながら、獠は静かに目を閉じた。
ねえ、アニキ。
アニキが教えてくれたあのお話のように
醜い想いや姿は全部閉じ込めて。
深く深く沈めていきたいの。
あの日見上げた空の景色に続いていたかもしれない、獠の違う未来がーー
繋げていけるならあたしはそれでいいと思うから
アニキ
獠はね、絶対に幸せにならなきゃいけない人なの
背負ってきた悲しみの分を誰かと幸せを分け合って必ず生きていて欲しいから
生きていて欲しい それだけでいい
だから少しだけ背中を押してね
泣きたくなったらあの場所で少しだけ泣かせて
そうしてきっと乗り越えていけるはずだから
ベッドの上で丸まりながら兄の姿に救いを求めて無意識のうちに右手を差し出していく。
宙に浮いた右手を開け放たれた窓からふわりと風が凪いて、そっと優しく撫ぜていくようで。
瞬間、とめどなく溢れる涙が香の頬を伝いシーツにぽたぽたと染み込んでいく。
ここで泣くのはこれで最後にしようと思う
後はアニキのいる場所だけでいい
頰を撫でる風の柔らかさに身を任せそっと瞳を閉じてみれば、浮かぶ面影は懐かしいあの優しい眼差しを向けていて。
もう大丈夫。と
繰り返し心の中で呟きながら
その面影の存在に、縋るようにただひたすら抱きしめて欲しいと願っていた。
「そういう訳だから、君にも一役買ってもらうことになった。」
「わかりました。私を隠れ蓑に冴羽が動きやすいように。ですね。」
「恩にきるよ。正直あやつが断ればいい話だがそれはまずできないだろうて。
あまり目立ち過ぎるといらぬ誤解も生まれる。
まあ、それは建前の理由というか、なんというかじゃの、、」
「槇村、、香。ですね?」
「流石察しがよいのう。あやつは優しすぎる。
だが過ぎた優しさは時に周りを傷つける。
わかってはいるのだろうが性分じゃろうな。
今更やめろとも言えまい。
だからこそ、その気持ちを汲んで自分を犠牲にしかねないあの娘を守ってやってほしい。
少しのすれ違いが足元をすくわれ命さえも落としかねない世界じゃ。
最小限でもリスクがある限り、わしに出来ることはしてやりたいんじゃよ。」
「わかっています。報告はその都度行います。
何か動きがあれば私宛にご連絡を頂ければ即座に対応していきます。全力で守っていきます。」
「頼んだぞ。何もなければそれが一番なんじゃが何分にも慎重になってな。こう年齢だけ重ねてしまうと尚更じゃ。」
「慎重であることはこの世界では鉄則です。特に今回は国と国の案件です。小さな力が亀裂の為に大きな脅威に成りかねません。
常に最悪を想定しながら動くことは必然です。」
その通りだ。と頷きながら目を細め願わくば何も起こらなければと思いを馳せる。
春はまだかのうーー
冬の名残を残した寒空に、鮮やかに咲いた花桃が春の匂いを纏いながらゆらりゆらりと揺れていた。