毛利家の人々ⅱ <関ヶ原の戦い編③>
天正5年(1600)「関ヶ原の戦い」は東軍が勝利して1日で集結した。破れた毛利家の所領は、黒田長政と福島正則の連署で「毛利輝元は名目上の総大将であるため、本領を安堵する」とされていた筈であった。輝元は戦いの後、所領を安堵するという約束を取り付けて、家康の勧めで戦いをも見守っていた大坂城西ノ丸を退去した。しかし、輝元が大坂城を退去すると、家康から四国の伊予や阿波、九州などへ侵攻した行為が咎められ、安芸、備後、岩見、出雲、隠岐の全域と伯耆、備中の各一部を取り上げられ、長門、周防の2ヶ国に封じ込められ、29万6370石へ減封された。輝元が大坂城にいつまでも居座ってもらっては都合の悪い、また、敵方についた毛利家を減封しなければ、戦いの清算が合わないとした家康一流の策に、輝元はまんまとはめられた。吉川広家は家康に毛利輝元が西軍の総大将になった事を懸命に詫び、自分の功罪に代えて輝元の助命と毛利氏の存続を嘆願したが、所詮無理な事であった。当主輝元が西軍総大将となり、九州、四国に侵略の手を伸ばす一方で、分家広家は祖父元就の遺言に沿い、「天下を競望すべからず」と輝元に諫言した。家康は当初からこうした危険分子である輝元を改易とし、広家に防長2国を与えるつもりでいたが、広家の嘆願に折れ、輝元は安堵され、毛利家の約30万石の中から広家に3万石が分知され、支藩の岩国藩ができた。「岩国城」は蛇行した錦川に囲まれた山城(標高200m)である。防長2ヶ国に厳封された毛利家にとって、最東部に位置する東の守りを担う重要な拠点であった。一方、破れた輝元が築いた新本拠地が「萩城」である。萩は山口県北部に位置、日本海に面し三方を山に囲まれた町である。安芸広島城を追い出され、僻遠地の萩へ押しこめられた毛利家は、徳川幕府の下、忍従を重ねた。幕末の文久3年(1863)13代敬親(たかちか)は尊王攘夷に際し海防上不利であるとして、萩より山口へ移り、事実上萩城は廃城となった。
毛利家は広家によって滅亡を免れ、藩は存続したと諸藩の大名たちはみた。しかし、毛利家の中では「広家は本家を売った裏切り者」と憎んだ。毛利家は「朝鮮出兵」のため大幅な出費に加え、「関ヶ原の戦い」では、年貢の先納を農民に強いてきた。「関ヶ原の戦い」後、旧毛利領に入ってきた大名たちは、戦前の時代に毛利家が先取りした、16万石の年貢の返還を要求してきた。しかし、輝元には返済出来ず、防長2ヶ国の返上まで考えた。結局、借金は農民に転訛、一門・直臣の約6割をリストラされた。毛利家にとどまった者も武器、布団まで売っても間に合わず、離藩する者も続出したという。こうした結果を招いたのはあの吉川広家である。あの広家が家康と結託、余計なことをしなければ毛利軍は戦場で奮闘、一族の秀秋も裏切らずに西軍に与した。その結果西軍は勝利し、毛利家の領国は増大、繁栄は続いたと毛利家の人々は主張した。戦いはやってみなけれわからない。下駄を履いても解らない。総勢では勝っており、布陣も勝っていた西軍ではあったが、実質的な大将である三成が小身の身で統率力がない、加えて誹謗中傷が強い三成の下では、参戦した西軍の武将たちの意気込みは薄かった。その結果、西軍は数では勝されど、傍観者の集団であった。毛利家の人々の怨嗟は、負けた結果の悔しさ、貧しさ、辛さであった。260余年続いた我慢、恨みのエネルギーが倒幕運動となって爆発、「戊辰戦争」へ繋がっていった。次回、毛利家の人々は最終章、幕末維新編です。どうぞお楽しみに! <江戸純情派 チーム江戸 >