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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「御使いたちの賛美」

2025.12.21 15:24
ルカの福音書 2章 1-14節 
 1. そのころ、全世界の住民登録(とうろく)をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝アウグストゥスから出た。 
2. これは、キリニウスがシリアの総督(そうとく)であったときの、最初の住民登録(とうろく)であった。 
3. 人々はみな登録(とうろく)のために、それぞれ自分の町に帰って行った。 
4. ヨセフも、ダビデの家に属(ぞく)し、その血筋(ちすじ)であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上(のぼ)って行った。 
5. 身重(みおも)になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録(とうろく)するためであった。 
6. ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、 
7. 男子(だんし)の初子(ういご)を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉(かいば)桶(おけ)に寝かせた。宿屋(やどや)には彼らのいる場所がなかったからである。 
8. さて、その地方で、羊飼いたちが野宿(のじゅく)をしながら、羊の群れの夜番(よばん)をしていた。 
9. すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 
10. 御使(みつか)いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 
11. 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主(しゅ)キリストです。 
12. あなたがたは、布にくるまって飼葉(かいば)桶(おけ)に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 
13. すると突然(とつぜん)、その御使(みつか)いと一緒におびただしい数の天の軍勢(ぐんぜい)が現れて、神を賛美した。 
14. 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 クリスマス礼拝メッセージ

 2025年12月21日

 ルカの福音書2章1-14節

 「御使いたちの賛美」


  ✨ 2025年のクリスマス、おめでとうございます ✨ クリスマスは教会でも、また世の中でも多くの🎶音楽が奏でられ、歌が歌われます。各地でコンサートが開催され、ラジオやお店のBGMからクリスマス🎄の歌が聞こえて来ます。

 しかし、私たちはクリスマスだけでなく。いつも歌います。キリスト教会は日曜日ごとに集まって、みなで一緒に歌います。その歌は、💗恋の歌ではありません。誰かを応援したり、自分たちを励まし喜ばせたりする歌でもありません。🏔 自然界の偉大さ・美しさ 🌸 をほめたたえる歌でもありません。人生訓や人生の喜怒哀楽を歌うものでもありません。これらすべてを造られ、ご支配くださっている真の神様をほめたたえる歌を、神様を賛美する歌を私たちは歌います。日曜日だけではなく、できれば毎日・ひんぱんに、賛美を歌い続けていけたら幸いです。

 イエス・キリストのお誕生:教会ではイエス様が、天からこの地上に降って来られたという意味で「ご降誕」と表現しますが、今年は、ご降誕に向かっていく出来事を新約聖書の「ルカの福音書」から順にたどって来ました。特にそこに登場する信仰者たちの賛美;エリサベツの賛美・マリアの賛美・ザカリヤの賛美を聞いて来ました。

 今日、クリスマス礼拝の朝、みなさんと一緒に聞いていきたい・心に留めていきたい賛美は、ルカ福音書2章14節のおびただしい数の天の軍勢(御使いたち)による賛美です。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」 

 「御使い」は「天使」とも表現され、英語ですとエンジェル(angel)です。神様に造られた超自然的で霊的な存在。聖書では、神からのメッセージを私たちに伝える「使者」として登場します。また御使いは、私たち人間や教会を守るために、神様から託された働きを担っています。そして天国において、父・子・聖霊なる三位一体の神をほめたたえている存在です。 

その御使いたちの賛美を、クリスマスの夜、羊飼いたちは生で聞いたのです。いつも外敵から🐏羊たちを守るために警戒していて、いざという時には盗賊や🐻熊・🐺狼などと戦っている屈強な羊飼いであっても、非常に恐れました。驚き、腰を抜かしそうになりました。どれほど荘厳で美しく力強い賛美だったでしょうか! そこにいるだけで感極まり、心が・たましいが揺さぶられる大合唱だったでしょう。自然と涙があふれ出て来るような賛美だったろうなと、そのハーモニーの素晴らしさや力強さを想像し、聞いてみたくなります。

 この時、御使いが歌った「いと高き所で、栄光が神にあるように」を、私たちも「荒野の果てに」というクリスマス賛美で歌っています。「グロリア・イン・エクセルシス・デオ (Gloria in excelsis Deo)」とラテン語で。この歌詞の意味をともに考えていきましょう。そして私たちも、御使いの賛美に声を・心を合わせて、ともに歌っていきたいと思います。 

 まず御使いが伝えたメッセージは、待望の救い主が今日、ベツレヘム=ダビデ王の出身地でお生まれになった!という知らせでした。

10-12節
 「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主(しゅ)キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉(かいば)桶(おけ)に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 

 救い主誕生によって、より一層、神のすばらしさがあがめられ、賛美されるのです。「いと高き所で、栄光が神にあるように」それを見た人・聞いた人・知った人・体験した人がより一層、神様をほめたたえるようになるのです。 イエス様到来によって。何が起きたのでしょうか!? この🌏世界にどのような変化が起きたのでしょうか!? 実際、大きな変化が起きました。「地の上で、平和がみこころにかなう人々に」もたらされました。この地上に本当の平和がもたらされたのです。 

神様が私たちにもたらしてくださった平和。それは人生で何の苦しみも試練もないような、また争い事などに一切巻き込まれないような平穏無事な日々ではありません。先ほど交読したローマ人への手紙5章3節の中に、「苦難が忍耐を生み出し」とありました。神様を信じていても、クリスチャンになっても、私たちは苦難に直面し、忍耐していかなければならないこともあります。けれども、その苦難・試練が、私たちの信仰や人格を練り上げ、希望へとつながっていくのです。 

「平和」それは波風が全く無い状態ではなく、波風の中でも、大いなるお方に愛され守られていることを確信し、勇気を与えられて、人生の🚢航路を進んで行ける。そのような状態なのです。 

 またイエス様がもたらしてくださった「平和」は、軍事力・武力によって、無理やりもたらす平和でありませんでした。この世の権力者は、敵よりも多くの強い力によって、相手を威嚇しおびえさせ、ときに打ち負かして、自分たちに都合の良い、自分たちだけが得をする平和を構築しようとするでしょう。けれどもイエス様が来られて見せてくださったのは、そのような平和ではありませんでした。

イエス様は私たちに語りかけてくださいました。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」(マタイ5:39)

また逮捕される時、ご自身が襲われそうななった際にも、弟子のペテロに

「剣(つるぎ)をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ27:52)

と命じられました。イエス様は⚔剣によらない平和、武力によらない平和、力によらない平和を私たちに見せてくださり、もたらしてくださいました。 

しかし現代も、また約2千年前の当時の人たちも力による平和を求めました。クリスマスの時の御使いの賛美に呼応するかのような賛美が、イエス様に向けられた場面が描かれています。

ルカの福音書19章37、38節です。 

イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 ロバの子に乗られて、イエス様が都エルサレムに入城される際、大群衆が「ホサナ=主よお救いください」と大声で賛美の声をあげて、イエス様を出迎えました。でも、この時の熱狂は、彼らの願う理想のメシア(救い主)としてイエス様を歓迎したものだったです。彼らは力による平和を期待しました。自分たちを支配し、重税を課し、苦しめるローマ帝国を打ち破り、解放してくれるメシアだと期待し、出迎えたのです。 

ローマから遣わされ、植民地のようにこの国を我が物顔で支配する総督ピラトを打ち破り、駐屯するローマ軍を駆逐してくれるような救い主を求めました。しかし、日曜日、大歓迎で迎えられたエルサレムの町で、同じ週の金曜日、イエス様はローマ総督によって死刑判決を下され、ローマ軍の兵士たちにあざけられ、なぶりものにされ、頭には茨の冠をかぶせられ、ムチ打たれ、十字架に釘付けにされて、命を落とされたのです。人々が期待する力による平和をもたらされませんでした。反対に、この世の力ある者によって消されてしまった救い主でした。 

しかし、この死にによって、イエス様は本当の勝利を、本当の平和をもたらしてくださったのです。交読したローマ人への手紙5章8, 9 節です。 

 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。  

神様の前に罪人である私たちはみな、聖なる神様の怒りを引き受けなければならない存在でした。その恐ろしい怒りをイエス様が全部肩代わりしてくださったのです。それが十字架の死です。身代わりに刑罰を全部引き受けてくださったのです。このことを信じる時、私たちは神様と和解させていただき、本当の平和を得るのです。この神様との平和を、私たちに与えるために、イエス様は来られたのです。 イエス様は、罪の中を歩み、不敬虔であった私たちのために、自らのお命を犠牲としてくださいました。正しくない人のために。 

ですからクリスマスの晩、御使いが歌った「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」「みこころにかなう」とは、神様の厳しいお眼鏡👓にかなう人だけが平和を受け取られるという意味ではありません。良い人だけが、道徳的な人だけが、真面目な人だけが、平和の内に生きることができるという意味ではありません。「みこころにかなう人々」という言葉には「神様の善意にあずかる人々」という意味もあります。神様の善意・愛・あわれみは、昔も今も、すべての人に注がれています。正しい人にも正しくない人にも。神様に愛され、生かされている私たちみなが、神様の善意、良き心、真実な愛を注がれているのです。それは無条件で注がれるものです。私たちが、何ができたかできないかに関係なく。一方的に愛してくださっている神様の無条件の愛です。

 イエス様の誕生の知らせを最初に聞いた羊飼いたちにも。東の国からやって来た博士たちも、みこころにかなう人たち=神様の真実な愛で愛されている人たちでした。私たちもです。イエス様は当時、「罪深い奴ら」とレッテルを貼られ、軽蔑されていた人たちに自ら近づき、いっしょにご飯を食べ、語り合い、友となってくださいました。弱い人のためにも強い人のためにも。貧しい人のためにも金持ちのためにも、イエス様は本当の平和をもたらすために来られました。 

 イエス様は、私たちと父なる神様との関係を和解させる使者として来られました。そのために自らのお命までささげる救い主です。だから、この素晴らしいニュースを聞いて、受け入れてほしい。そしてこれから先、ずっと一緒に歩もう、手をつないで行こう。私が与える平和の中を生き続けていきなさいと、イエス様は今日もあなたを招いてくださっています。

 イエス様はこの地に降って来られ、十字架と復活により、救いのご計画を成就してくださいました。それにより、私たちと神様との平和が実現しました、そして、神様の善意、真実な愛、素晴らしさが、よりはっきりと示されました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」 御使いの賛美が実現したのです! 

 ヨハネの福音書を見ますと。イエス様が栄光をお受けになる時というのは、十字架の場面だということが繰り返し語られています。

12章23, 24節
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 

 イエス様の十字架によって、私たちの救いが完成し、「いと高き所で、栄光が神に」現れたのです。 イエス様は私たちを救うために来てくださった。このクリスマスの喜び、素晴らしさをしっかりと確認しながら、「神様、ありがとうございます。感謝します。イエス様、ありがとうございます」と、心から神様ほめたたえていける者になりたいと願います。

お祈りをしましょう。