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戦後レジームからの脱却は、

2019.03.05 05:09

 戦後レジームからの脱却は、 

「8月15日には靖国神社に参拝から」。

毎年の8月が来ると、6日、9日の原爆投下の記念日に続き、15日が終戦記念日とメディアは姦しい。

15日はポツダム宣言受諾という名の詔勅で、戦争は終わって七十五年。

安倍総理が「戦後レジームの脱却」を唱えて久しい。

★戦後レジームとは戦後(第二次世界大戦後)に確立された世界秩序の体制(ポツダム宣言、ヤルタ協定等)や制度の事を指すことである。

安倍総理の先輩たる中曽根康弘も「戦後政治の総決算」を繰り返し唱えている。

だが、私の見るに、出来たのは、国民投票法が成立し、防衛庁が防衛省に昇格しただけである。

★平和憲法という名の国防思想の改正の準備も、連立を組んでいる公明党に配慮してか、一向に進まない。 

★アメリカの占領政策で、日本を世界の強国になる事防ぎ、アジアのリダ―にさせない為に、『戦前の日本はアジアを侵略し、世界中の皆さんに迷惑を掛けた、謝らなくてはならない』、日本国民を洗脳された自虐思想等を後生大事に守っているのだ。

★つまり、戦後レジームの脱却は一切できていないのだ。

★また、日本の野党の方々やマスコミに従事する諸君は、アメリカ占領軍の置き土産の平和憲法を、後生大事と、憲法改正阻止を、叫びながらも、反米に現(うつつ)を抜かしている。集団的自衛権すら、権利はあるが、憲法違反で出来ない、意味の解らない事を喚いているだけである。

★野党は「アメリカ軍と一緒になって地球の裏側まで行って戦争をする国になる、『戦争法案だ!』と言って、国会議員の義務と権利を放棄し、審議拒否まで続けて、反対しているのだ。

マスコミはこれに同調している。

こんな輩を反日売国奴と呼ばずに何と呼べば良いのか!

★「滑稽と言わずに何と言うか?」、空いた口も塞がらない。

★これは、瞬時に世界のテレビでも放映され、彼等は日本の国内情勢を熟知しているのだ。

こんな国内事情で真っ当な、外交交渉ができる訳がない。

★お隣のチャイナ、韓国は日本の総理大臣が靖国神社に参拝すると、「軍国主義の復活だ!」、

「歴史の真実を認めない、と、日本はアジアの孤児になるぞ!」。

「侵略された事を思い出だし、国民感情が許さない!」等、日本を舐めきった態度で、世界に向って喚き散らして大騒ぎをする。

★だが、これを叫ぶのは、チャイナ、と韓国、北朝鮮だけである。

★しかし、時代が替われば人の思いも替わって来ると。

―時代は替わったー

★占領軍・総司令官・マカーサーは、任務を解かれ帰国し、国会の報告で、「東京裁判は間違いだった。日本が共産主義を守る防波堤の役目を果たしていたのだ。これを潰してシナ大陸を共産党に進呈したような結果だ」。証言している。

★続いてチャイナに次ぐ、人口大国、インドを始め、ミャンマー、南洋諸島と呼ばれたインドネシア、マレーシアなど諸国は、大多数の国民はイスラム教徒である。

これ等、イスラム教の諸国も、「大東亜戦争のお蔭で、我々は独立出来た」。と感謝している。

★マレーアの首相のマハティール氏等は、

「今次大戦はアジア解放の正義の戦いである。日本が何故、アジア諸国に謝るのか?」と不思議がっている。

また、日本の国土復興振りを見て、「ルック、イースト」(東の日本を見習え!)と、アジア諸国を激励している。

ウノボレテハ行けないが自信をもって歩いて行こうではてはないか。

★一方のチャイナは人口の多さを利用し、安価な加工賃で下請けして、仕事をさせる先進国から技術を盗み、経済発展で溜まったドルをばら撒き、チャイナ主導の『AIID』(アジアインフラ銀行)に参加を呼び掛けたが不発に終わると、『一路一体』と称して途上国を手懐け、アメリカに対抗して世界の覇権を狙っている。

しかし、あまりにも自国の利益の優先が、バレ、これも中々思惑通り行かない。

★韓国は自国の防衛をアメリカに頼りながら、経済ではチャイナ便り、チャイナの御機嫌をとって鼻息を伺い、両大国のご機嫌ひとつで右往左往(ウオウサオウ)している。

★私が思うには、孤児なるのは韓国だと思う。

★さらに、軍国主義の復活というが、実質、戦争を指揮したのは、武将(軍人)ではなく、軍服を着て、軍刀を提げた『軍事官僚』で、軍国主義ではなく、官僚主義である。

戦争の事等何も知らない、「軍事官僚」が戦争指導をしたのが間違いである。

これは現在言うわれるシビリアン・コントロールも、戦争は軍人(専門家)の意見を尊重せねばならない。

軍人(武家)政治。

★武士(軍人)が指導して国難を克服した一例は、時のチャイナの政権・元朝のフビライ皇帝が日本を臣従させんと日本を攻めた文永、公安の役である。

★臣従を迫った使者の首を切って捨て、「答えはこれだ!」首を従者にも持たし追い返し、鎌倉武士を動員、博多湾一帯に防塁を築き、戦闘準備を行なった。

これは敵に対す返事だが、味方に、徹底抗戦の固い意志を示し、戦意を再興に保たす事は武将の常套手段である。

フビライは怒って無数の兵船で博多に攻め込んだ。

★日本の武士達は、博多湾に徹底抗戦し、元軍が上陸しても基地は造らせない。夕刻に船に戻り繰り返す内に嵐にあって全滅した。

領地を持つ武士の戦費は自腹である。この戦は、勝っても領地は増えない。敵は海に沈んだので戦利品は何もない。従って幕府も恩賞の出しようがない。

★公家社会は、全国の社寺に依頼、『敵国降伏』を祈らせた。

祈祷料は前払いであった。これが武士の不満となったのが鎌倉幕府の潰れた遠因であった。

★実際の戦争の指揮を執った将軍(アドミラル)は若い将校時代に、大使館付の武官として外国生活をして、欧米事情も可なり解っていた。

★日米交渉を聞きながら、「本当に日米が戦ったら勝てるか?」と危惧の念を抱いていた。と聞く。

だが、開戦を聞いた瞬間、「自分達軍人考える事ではなく、政治家の感がえる事だ」。

我々軍人は如何にして当面の敵に勝つかを考え、実行有るのみの、精神で戦場に向っているのだ。

私は好んで戦記ものを読む。その中の随所のそんなセリフがあるが、即座に、「嫌、我々軍人がそんな事を思ってはいけない。目の前の敵に如何に勝つかのみを考えるのだ。

★日露戦争を戦った明治の将軍達は『国債の売れ行きが良ければ、戦費が出来た、と次の作戦を考えた』と、司馬遼太郎の「坂も上の雲」に記してある。

―日米開戦の石油の備蓄量は?―

★昭和16年の春、開戦を想定して、戦略物資の貯蔵に入った。だが日本の石油備蓄は三ヶ月分だったらしい。

★当時の主な石油輸輸入はアメリカ、スマトラ、ボルネオの英、蘭合弁のロイアル・ダッチセルの油田の二箇所であった。

軍部の作戦計画では、如何に急いでも、ボルネオ、セレベスの油田地帯を、占領し、生産を始めるのには半年と考えた。すると石油の在庫は、六か月分は要る。

★メキシコも産油国で日米の争いに中立であった、のでメキシコ産の石油を買い付けたが、メキシコ政府は「売ってしまったもので日本のものである」。

「けど、お隣サンが煩くて、パナマ運河の検閲がね」。と積み出しに応じない。

このあたりは、「真珠湾攻撃を決断させた男」、萩野正雄 著(K&K出版)で詳述してあるので御一読を勧める。

★アメリカ軍によって封鎖されたパナマ運河を、見張りの目を掻い潜って、三ヶ月分が入って来たので、山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾の奇襲に踏み切った。

 ―日米英戦争勃発―

大東亜戦争が勃発するや、日本の空母航空隊が、アメリカの真珠湾に停泊中のアメリカ東洋艦隊の主力に壊滅的打撃を与え、翌々日の12月10日にはマレー半島沖で、英国自慢の『不沈戦艦』と呼ばれるプリンス・オブ。ウエルスと、友艦、レパレスを撃沈、イギリス東洋艦隊の主力も日本の基地航空隊が発見、数時間の激闘で撃沈される。

★マレー半島北部、コタバルに上陸した日本軍はマレー半島1100キロを、55日の快進撃で、シンポール要塞を挟むジュホール水道に到着、シンガポール要塞に猛砲撃。

イギリスの守備隊は、準備が出来ないとあっさり白旗を掲げる。

従って翌、昭和17年(1942)年2月15日にはイギリスのアジア統治の拠点、シンガポール要塞陥落。

続いて、鉄より固い、と言われた『香港島要塞』を攻め占領する。 

続いてアメリカ領・フリッピンの首都、マニラを無血占領、米兵の逃げ込んだバタア―ン半島、突端に位置するコレヒドール島要塞も降伏、75000名が日本軍の捕虜となる。

総司令官のマッカーサ―は家族同伴で、闇に紛れ水雷艇で、オーストラリアの米軍基地に逃げ込む。

★如何に本国の命令とは言え、一戦も交えず75000名もの部下を見捨てて逃げるのは軍人としての最大の汚点である。

その悔しさからか、マッカーサーが「ウイシャルリターン」(「我々は必ず帰って来るぞ」、と意思未来)の名セリフを残して行った。

★日本の『大和魂』と同じで、アメリカの『ヤンキー魂』をもっていた国家が激突したのが大東亜戦争であった。

★さらに、南方油田のパレンバンを奇襲攻撃した落下傘部隊は、たった392名なので、如何に困難な攻撃だったかを想像して欲しい。

落下傘部隊の奇襲攻撃で奇襲攻撃が成功。2月14日、3月末には生産が始まっている。

12月8日の宣戦布告以来、4ヶ月足らずで油田地帯を占領して、ガソリン25万トンを捕獲した。

如何に緻密な作戦と、忠実に実行したかを明快に語っている。

★決して無謀な戦争ではなく、綿密な作戦計画に元付いた作戦をとどこうりなく行った。

しかし、惜しむらくは、これと同時に停戦交渉に入らなかったのか?

「大日本帝国は領土的野心で戦争を始めたのではない。戦略物資の禁輸のABCD包囲網を解除さえしてくれれば、即時、撤兵をする」、と宣言したら、と思い、返すも無念である。

 ―アジア侵略の歴史―

★一般に欧米諸国がアジアの諸国の植民地支配をした、というが、インド、ビルマ、(ミャンマー)マレイ半島、シンガポール、香港島は英国領だ。

ベトナム、ラオス、カンボジャ一括して(仏領インドシナ)と呼ばれたフランス領。

南洋諸島と呼んだ、ボルネオ、ジャワ島、セレベス等の島はオランダ領。

★アメリカは、1776年にイギリスの植民地から独立した若い白人国家である。

国土の広いアメリカは、先住民のインディアンが住んで、狩猟、採取等で、自然と中に溶け込んで生きていた。

★そこに1620年、メイフラワー号は、ピルグリム・ファーザーズが1620年、イギリス南西部プリマスから、新天地アメリカの、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡った102名のキリスト教徒が、メイフラワー契約をして、新天地の建設を約束した国家がアメリカの発祥である。

入植者にとっては広大なアメリカ大陸の少数のインディアンが狩猟や採取を営んで住む未開発の土地である事を知った。

また、彼等は土地を所有する概念は持ちあわせない、そんな彼等を騙して広大な土地を我が物にするに時間は要ら手間閑は掛からない。

★彼等此処を開拓して、自分等の住宅、教会、学校を立て、農地や牧場を造って土地の所有がアメリカの物になる等、彼等インディアンは知る由もないので、得物を追ってきたインディアン達を、ヨロッパから持ち込んだ、新式銃で侵入者として皆殺しにした。

★西部劇に表現される開拓民、野心家、冒険家達は、未開の地を求め西へ西へとフロンティアラインを延ばして行った。

―米西(スぺイン)戦争―

キュバーの利権を争う米西戦争が始まってアメリカ有利に展開し、1898年5月1日に米西(スペイン)戦争の戦闘のひとつ、マニラ湾海戦でスペイン軍が敗北した。

★アジアに拠点を持たないアメリカは、フリッピンをアジアの拠点にする為にフリピンが必要であった。。

★1896年(明治29年)当時、カティプナンのフィリピン人たちは、スペインからの独立(フィリピン独立革命)のために戦ってきた。

アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。

★米、西(スペイン)戦争でアメリカが勝ったが、アメリカは2万ドルをスペインに渡し、アメリカ領にした。つまり独立させてやる、の約束は反古にし、アメリカ政府がフリッピンの統治権利は米国に替わった、とフリッピンに通告した。

独立させてやる、約束を反故にされたフリピンのアギナルド率いる民族主義者が怒り、米比(フリッピン)戦争となった。

そこで近代装備のアメリカ軍は、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。

米比戦争の結果、米上院に報告された数字では米軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。こうしてフリピンはアメリカの植民地となったのである。

―先進国の悪行を今更責めるものではないー

★今は人道主義に反すると批判する、アメリカだがが、欧米先進国と称する国々する事は、スペインの南米侵略と同じで、約束は破るし、抵抗する住民を逆殺したのである。

法律の不遡及が常識の現在、今更謝罪、弁償の要求はしない。しかし、この歴史的事実を抹消するのは如何なものか?である。事実は事実として歴史の書き残すべきである。

―アジアの植民地の解放を唱え、昭和16年12月8日、日本は米英に対し戦線布告―

前述の如く、英、仏、蘭の三国は開戦直後の四ヶ月の戦いで完敗、二度と立上れなかった。

★しかし、アメリカ軍はフリッピンの首都マニラを放棄し、バターン半島コレヒドール要塞に立て籠ったが、日本軍の攻撃に耐えきらず、78000名という膨大な兵士を置き去りにして、オーストラリアの米軍基地に家族のみを連れ、小形水雷艇で逃げ込んで反撃の準備に係った。

★そして一年半の準備で、1943年(昭19年)にはアメリカ軍の反撃が始まった。

あとは御存知の、アッツ島に始まり、パラオ、サイパン、硫黄島の守備隊は玉砕(全員が戦死するまで戦う)。最期の砦。沖縄守備での特攻隊の攻撃である。

★横殴りのシャワーのように撃ちだす対空機銃の雨を掻い潜ってくるゼロ戦に気が狂って海に飛び込む兵士も多く、当たれば空母なら数千の兵士が海に投げ出され、僚船が救助しても半数は死ぬので効果は歴然であった。

得物を見つけるまでは、べテランパイロットのゼロ戦が護衛に付くが、攻撃が始まると護衛機は上昇して戦果を確認して基地に報告する。

しかし、後には弾が当たらないのに爆発するゼロが増え、上空が観察するゼロの搭乗員が、敵は新兵器を開発したようで、対策のできるまで作戦の中止を具申した。

しかし、大体は空母か戦艦を狙って500キロ爆弾を抱いたゼロ戦が体当たりをすると、損害と戦果を比較し、作戦の続行を指示が出た。

★戦後、判った事だが、『近接信管』(目標の半径15mに飛行機が入ったら爆発する)が

投入されたのである。(小説『永遠のゼロ』参照)。

★これを、無駄死にという者もいる。しかし、この名誉の為に死も恐れない、大和魂。

八万人の捕虜をのこして逃げても、必ず仕返しするヤンキー魂。

勇者は戦った相手の善戦には敬意を表す。やはり戦う時には、死力を尽くして戦わなければならない。

戦い済んで、勇者は勇者を認める。日米は「日米安全保障条約」を結び、世界最大の同盟国となった。

しかし、準備に一年半かかったが、その生産力に負けたので、武装解除されたたに便乗し、経済発展優先で、世界二位の経済大国に躍り出た。

 ―ここで忘れたならない事があるー

昭和20年8月15日、終戦と同時に日本海軍は解散したが、掃海艇部隊だけは復員局の局員の身分で、日本近海に旧日本海軍の敷設した機雷除去の作業を黙々と続けていた。

海上保安庁に移管されても黙々と掃海作業を続けた事によって、戦時中に日米海軍が施設した膨大な機雷を除去し航路の安全に寄与した。

★間も無く起った朝鮮戦争でアメリカ軍は国連軍の身分で参戦したが、北朝鮮軍の攻撃は激しく、撤退を続け、釜山地域の狭隘な地域に追い込まれた。

たが、仁川に敵前上陸をして、戦線を挽回し、反対の日本海側に元山に上陸、共産軍の分断しようと図った。察知した敵がソ連製の新鋭機雷一万個を元山沖に敷設したので上陸作戦はできない。

困った司令官マカーサーが、吉田総理と直談判、復員局所属の掃海艇の応援を依頼する。

やっと警察予備が発足ばかりである。

当然、吉田総理は「敗戦国が」そんな戦闘行為の参加する事ができるか?と断る。

★復員船にリバティー船を幾ら無料で貸与、終戦処理の迅速化に協力してアメリカと国連に協力するのは、国際的な地位を高め、講和条約締結を有利に運べる、等の理由を付けた。

国連の近海の輸送の手伝いで朝鮮まで行け。

朝鮮海域に行ったら、黙って掃海艇をしろ。と言われ断る事はできず、船員には、『他言無用』の約束に、莫大な特別手当(危険手当)払うと、ともに元山沖に行く。一回の事故もなく任務は終了。

日本の機雷除去の技術の高さを世界に認めさせる。 同時に莫大な危険手当も露と消えて、無事終了。しかし、高額な出張費を手にしたのは間違いない。

間も無く創立した海上自衛隊に掃海部隊は引き継がれ、日本海軍の伝統は途切れる事もなく業務は引き継がれたのである。

★それには旧・日本海軍の生きのこれが陰に隠れ、日本海軍の復活を画策したのであり、それに協力したのが、バークレー少佐であった。

太平洋を舞台に、日米海軍で死闘を演じた日本海軍の消滅を惜しんだ、アメリカの若き海軍少佐のアレー・バークレイであった。

『日本海軍が海上自衛隊への歴史』を博士論文に書こうと調べる内に、この掃海艇の隠れた働きを知り、俄然興味を持ち、調べを続けていると、戦時中、日本海軍の勇猛果敢な戦闘ぶりを知って、この日本海軍の伝統の途切れる事を緒しみ、海上自衛隊の復活は日米両国のみではなく、世界平和に為にも役立つと、日本海軍の生き残りの海上自衛隊の幹部、アメリカ海軍の関係者の間を、日米間を何度も往復、奔走し、両者を繋ぎ、海上自衛隊の創設、発展に寄与した海軍高官事を書こうと思い資料を調べる内に、素晴らしい本を見つけた。もう少し書きたかったが、ここで一休みする。  了)