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キャンピングカーで日本一周

2月24日 奄美市住用 → 龍郷町(西郷南洲謫居の地)→ 宇検村[奄美大島](110km)①

2019.03.05 08:05


昨日一日のんびりと過ごし、フェリーの疲れもすっかり取れた。


ということで、今日は馴染みの国道58号で奄美市の中心地・名瀬地区へと向かい、「奄美博物館」を見学することに。


さすがに日曜ということもあってか、博物館前は人や車の往来が激しい。


イベントでもやっているのか、敷地内にはテントが張られ、駐車場は満杯。


この辺りでは路肩駐車する車も多いが、ただでさえ狭い住宅街の小径に、他府県ナンバーのキャンピングカーで路上駐車を試みるほどの度胸はない。


仕方ないので、今日は博物館の見学は取りやめ、次の目的地・龍郷(たつごう)町の「西郷南洲謫居(たっきょ)の地」へと予定を変更する。



龍郷町は、島の北側にある港町で、西郷隆盛が1959年から約3年間遠島となった地。


この遠流は、薩摩藩が彼の身を守るための恩情措置であった。



1858年、僧侶・月照と共に入水した西郷は、一人だけ奇跡的に蘇生する。


月照とは、尊王攘夷派で、西郷の命の恩人。


島津斉彬の死後、切腹しようとした西郷を止めたのが、この月照であった。


安政の大獄で幕府から追われる身となった月照の護衛を、公家の五摂家・近衛家から任された西郷は、薩摩藩に彼の保護を依頼するが、幕府の目を恐れた藩は保護を拒否。


あろうことか、西郷は逆に「日向国送り(薩摩との国境での暗殺)」を命ぜられてしまう。


前途を儚んだ西郷は、月照と共に入水するという道を選んだのであった。



一人蘇生した西郷は、この地・龍郷町での潜住を命ぜられる事になる。


島津藩27代斉興の裁量により、薩摩藩が幕府に対し「西郷、月照と共に入水し死亡」との虚偽の報告を行い、翌年この地に流されて来たのであった。


菊池源吾と名前を変えた西郷は、藩士としての身分は剥奪されず、藩からは扶持米が送られ、生活は保障されていたという。


西郷は、ここで島の有力者「龍家」の娘・愛加那と結婚し、2人の子供をもうけている。


彼はこの島で三度転居しているが、最初の息子(菊次郎)が生まれ、家族の住居を新築したのが、この「謫居の地」であった。 


1862年1月14日、二人目の子・菊が この世に生を受ける前に召喚状がくだり、西郷は龍郷町から薩摩へと戻ることになる。


当時の藩の掟で、島で迎えた妻・愛加那は連れ帰ることができなかったという。


西郷は、来島当初と本土に戻る前それぞれ2ヶ月づつを、この龍郷集落で過ごしていることになる。



ここで、当時の奄美大島の状況と、西郷との関わりについて書いておきたい。


西郷がここに送られて来た当時、この島には「黒糖地獄」と呼ばれるほど島民を苦しめた、薩摩藩による搾取が存在していた。


薩摩藩の命で、全ての農地に換金作物のサトウキビが植えられ、食糧確保のための田畑は最低限のものしか作ることができず、島民は面倒な毒抜きが必要な蘇鉄を口にしなければならなかった。


一度自然災害が起こると、決められた年貢を納められず、家や田畑を売り、売る物が何もなくなった者は、奴隷身分の「家人(ヤンチュ)」となり、家畜小屋のような場所で寝起きし、焼酎の搾り粕を与えられるのみで、昼夜を問わず働かされていた。


人口の4割が、この「家人」であったという地域も存在していたという。



この「黒糖地獄」で苦しむ奄美の人々の待遇改善に努めた事で、西郷は島の人たちの信頼を集めるようになっていった。


そして、藩から受け取った扶持米を貧しい島民たちに分け与え、学問を教え、島民から慕われる存在となっていくのである。


もちろん、西郷がいくら島民のために尽くしたといっても、あくまでも支配者側、薩摩藩士の立場であることに変わりはない。


その一例として、西郷が沖永良部島から本土に召喚されたあとの1864年、彼は「砂糖惣菜買入制」の問題点を指摘し、島役人の人選・賞罰をしっかり行う、買入にあたって正当な代金を支払い島民の意欲を高める、砂糖車の材料価格を引き下げる、などの改善案を藩に提案している。


幕末期に幕府に対抗できる経済力を必要とした薩摩藩は、秘密裏に黒糖専売制度を導入し、その範囲を大島から与論島まで広げていき、それが奄美諸島全域にわたる「黒糖地獄」を更に強化することに繋がっていったという。


西郷の働きは、島民を思い、島民の立場に立って待遇改善を行ったということもあったに違いないが、むしろそれ以前に、大前提として薩摩藩への貢献に比重が置かれていたことも、紛れもない事実であろう。


また、大島に遠流された直後に西郷が大久保利通に宛てた手紙では、島民への不信感や島の生活に馴染めない不満を漏らしている。


西郷を親しみやすく、現地に溶け込んだ理想の人間像として捉えがちだが、彼はあくまでも封建社会の支配階層の身。


島民を「島の毛唐」と呼び、民俗文化の入墨を気持ち悪いと差別的な目で捉えていたりと、異文化に投げ込まれた一人の俗人として、綺麗事では済まない一面も持ち合わせていたのである。




前置きが長くなったが、いよいよ「謫居の地」に足を踏み入れることに。


「西郷南洲翁遺跡」とのぼりの立った旧家風の建物。




「龍」の表札があるお宅の庭に、この住居がある。




建物前面には勝安芳(勝海舟)が建てた石碑が、ひっそりと佇んでいる。


藁葺き屋根、2間続きの小さな家。




西郷隆盛自ら歩き廻って土地を求め、設計したと言われるこの住居は、残された図面を元に復元したという。


ここには、西郷が使った携帯枕や盃台などが展示されており、奥の屋敷から男性が現れてチケットを切り、この家についての説明をしてくれる。




この方の話される方言は、なかなか味がある。


「さごさん」というキーワードが何回か出てきた後で、ようやく「西郷さん」のことだと分かった。


説明によると、この龍家とは、奄美が琉球王朝の支配下にあった時代に、この地域の代官を命じられ琉球から派遣されて来た由緒ある家柄だそう。


薩摩の支配下に変わってからも、同様の役割を任されていたという。


説明をしてくれた男性は、西郷の妻・愛加那の甥の孫にあたるそうである。



「謫居の地」を後にし、来た道を戻る。


周囲は深い入江になっている。水面は穏やかで、漁船が2隻浮かんでいる。




一人の釣り客を除いて、行き交う人も見られない。あたりの風景をのんびり眺めていたら、観光バスがやってきて、観光客の一団が西郷さんゆかりの地を目指し、どやどやと歩いて行った。