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一号館一○一教室

ヨハン・クリスティアン・バッハ作曲『クラヴィーア協奏曲集』

2025.12.26 08:19

個性だけが
音楽の魅力だろうか?


753時限目◎音楽



堀間ロクなな


 いわゆる「ながら聴き」も、わたしにとってなくてはならない音楽鑑賞の形式だ。たとえば、このブログの原稿を書いているときだって必ずBGMをかける。その際、いつのころからか、モーツァルトやベートーヴェン以降の作品を避けるようになってしまった。それらはあまりにも個性が際立っているため、耳に入ってくるなり、どうしても気を取られて原稿書きに集中できないのだ。



 こんなふうに言ってもいいかもしれない。今日、われわれはひたすら個性というものを神格化しがちだけれど、果たして個性だけが音楽の魅力だろうか? クラシック音楽史において個性が特権的な地位を占めるようになったのは近代の古典派からロマン派へと向かう流れのなかでのことで、それまでは必ずしも個性に拠らない音楽のあり方が成り立っていたはずだ。おそらく、わたしがこのところ、「ながら聴き」に重宝しているCDのひとつがヨハン・クリスティアン・バッハの手になる『クラヴィーア協奏曲集』なのも、そこに理由があるのだろう。



 「私のクリスティアンは愚か者だ。だからそのうちいつかはきっと出世するだろう」(樋口隆一訳)



 「音楽の父」ことヨハン・ゼバスティアン・バッハは1735年、50歳のときにライプツィヒで儲けたこの11番目の息子についてしばしばこう語ったという。



 その予言が的中して、ヨハン・クリスティアンは、兄のヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・クリストフ・フリードリヒとともに、バッハ・ファミリーにあって音楽家として大成した。かれは10代の終わりにオペラを勉強しようと本場のイタリアに旅立ち、オペラ作曲のかたわら大聖堂のオルガン奏者となって「ミラノのバッハ」と呼ばれた。そののち、20代後半に今度はイギリスへ渡り、オペラ公演や大規模な定期演奏家を成功させて「ロンドンのバッハ」と呼ばれた。当時においては、ドイツ国内の活動に終始した父親よりも、はるかに広汎な国際的名声をかちえたといえるだろう。



 そんなヨハン・クリスティアンが1763年に初めて出版した『クラヴィーア協奏曲集』作品1は、ときのイギリス国王ジョージ三世の王妃シャーロットに献呈されたものだ。それぞれ2~3楽章編成の全6曲から成り、いかにも宮廷の音楽にふさわしく典雅な長調の楽想を持ち味として、最後の第6番の終楽章はイギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の変奏曲で結んでいる。ことさら個性を振りかざさなくとも、そこにはおのずから万人を微笑ませてやまない音楽の鼓動が息づいていた。



 わたしが愛聴してやまないのは、オーストリア出身の女性ピアニスト、イングリッド・ヘブラーがあえて旧式のフォルテピアノを用いて、エドゥアルト・メルクス指揮の古楽器演奏団体カペラ・アカデミカ・ウィーンと共演した1977年の録音だ。これは後年の『クラヴィーア協奏曲集』作品7(1770年)の6曲と作品13(1777年)の6曲も組み合わせたCD4枚のセットで、トータル約4時間にわたる演奏をスピーカーから流しておくと、決して耳を邪魔しない、爽やかな風が通り過ぎていくような心地よい音楽に浸りながら、ブログの原稿をスムースに書き進めることができるのだ。



 「ぼくは今、バッハのフーガの蒐集をしています――ゼバスティアンのだけではなくエマーヌエルやフリーデマン・バッハのも。〔中略〕イギリスのバッハが亡くなったことは、ご存じでしょうね。音楽の世界にとって惜しむべきことです!……」(柴田治三郎訳)



 モーツァルトが1782年4月10日、ウィーンからザルツブルクの父レオポルト宛てに送った手紙の一節だ。バッハ・ファミリーのなかでただひとりと親交を結んだヨハン・クリスティアンが同年1月1日に死去した悲しみのなかでしたためられた文章で、この神童はさらに『ピアノ協奏曲第12番』の第2楽章で21歳年長の音楽家が書いたメロディを引用して哀悼の意を捧げている。



 もとより、このあと新たな時代を迎えると、モーツァルトのまばゆい個性を花開かせた作品がクラシック音楽界を席巻する一方で、ヨハン・クリスティアン・バッハの作品は忘却されていくことになったのだが……。