大名の序列は「家格」で決まる
大名ランキングの基準は?
世間では、よく「〇〇ランキング」「〇〇ベスト10」などといって、特定の集団や事柄に序列をつけたがります。
たいていの場合、その序列は、基準とする数値の大小で決まるようです。
では、江戸時代において大名の序列の基準はどうだったでしょうか。
現代のイメージなら「規模」、つまり石高・領地面積・藩士の数(武力)・領民の数(経済力)などで決まりそうです。
しかし、そうではありません。
家格
大名の序列を決めていたのは「家格」です。
家格については、このような説明があります。
家格とは、その家について定まった資格である。
公卿も武家もみなこの家格に従って官位の規定があり、いかに英才あり識見手腕あっても規定以上の地位にはなれなかった。
その代り莫迦(ばか)でも家格だけの地位は授けられた。
元来家格は何等の規定のあったものでなかったのだが、藤原氏時代に勢をもっぱらにし摂政関白などの重職を他家のものに委ねるを欲せずこれを独占し、
武家でも征夷(大将軍)の職は義仲、頼朝以来源氏のもののみが任ぜられ、それ等が幾代もの後は自然に家格と認められるようになり、
江戸時代には諸大名にも家格の規定が出来、官位の昇進、殿中(江戸城内)の座席が整然と秩序づけられ、非常な特例でない限り変革はなかった。
【大槇紫山『江戸時代の制度事典』】
大槇は、「家格」というのは「家の歴史」によって自然に周囲から認められ、それに応じて官位や殿中の座席が秩序づけられた、つまり大名間の序列が定まったとしています。
徳川幕府の最高位に位置するのは、将軍家です。
となれば、最も重視されるのは将軍家との関係ということになります。
つまり家の歴史が将軍家に近いほど、家格が高くなるのです。
もうひとつ重視されたのが、官位でした。
官位は本来朝廷から下されるものですが、武家の官位については幕府が決めて、朝廷が追認することになっていました。
そして官位も個人の業績ではなく、家格によってほぼ決まっていたのです。
武鑑の表記も家格から
江戸時代のベストセラーのひとつに、『武鑑』があります。
これは大名や幕府役人・旗本の名鑑で、いわば江戸の紳士録です。
毎年1回発行されるデータブックとして、武士だけではなく武士と取引のある商人も買い求めましたし、江戸見物にきて大名屋敷めぐりをする旅行者のガイドブックとしても使われたそうです。
フォーマットは各大名家共通で、いちばん上の欄に家の歴史をしめす系図、その下に家紋(島津家なら丸十紋と副紋の牡丹紋)、さらにその下に各大名に関するデータが書かれています。
斉彬が藩主だったときの嘉永6年(1853)版武鑑だと、島津家はこうです(右端は他藩のためカットしました)。
寛永六年大成武鑑(部分 『武鑑全集』日本古典籍データセット)
見やすくするために、冒頭の部分を拡大します。
黄色の枠で囲った部分が「家格」です。
寛永六年大成武鑑(島津家冒頭部分 『武鑑全集』日本古典籍データセット)
1行目には上屋敷の住所(芝新馬場)、次の行には「大広間 従四位上 中将 嘉永五(年)子十二月任(官)」とあります。
「大広間」というのは殿中の座席(江戸城に登城したときの控室)、「従四位上中将」が官位です。
3行目に藩主名(姓は将軍から与えられた「松平」が優先)がきて、4行目の「嘉永四(年)亥二月 家督」は藩主就任の年月になります。
5行目には正室の出自「徳川民部卿(一橋)斉敦卿御女」があり、その次からは参勤交代時期・幕府への献上品・拝領品や大名行列時の挟箱(長棒をつけて肩に担ぐ箱)にかかれる家紋の色(島津家は金)、毛槍や槍鞘の色や形状など、さまざまなデータが書かれています。
挟箱や槍は行列の先頭になるので、大名行列の見物人は遠目に見える挟箱の紋や毛槍・槍鞘の形を武鑑とつきあわせれば、どこの藩がやってくるのか知ることができます。
ガイドブックの本領発揮ですね。
周延『千代田の御表 将軍宣下為祝賀之諸侯大礼行列ノ図』(部分)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
そして詳細な記述の最後になって、ようやく石高と領地がでてきます。
武鑑「御大名編」に掲載されている順番は御三家・親藩が先で、それ以降は各大名(宗家)の石高順となっています。
それにもかかわらず石高が最後に掲載されているということは、石高が家格ほど重要な指標ではないことを示しています。
寛永六年大成武鑑(島津家末尾部分 『武鑑全集』日本古典籍データセット)
武威ではなく序列の向上を競わせた
旧幕臣の福地源一郎(桜痴)は、その著書『幕府衰亡論』の中で、幕府は「二百七十余年の久しきに因襲せる厳重なる慣例・格式・礼儀等にて形而下(形式のあるもの:原注)を検束し、遂に形而上(形のない精神的なもの:原注)に及ぼし、天下の諸侯を籠絡した」と述べています。
幕府は家格に応じて格式やしきたり・礼儀作法を細かく定め、厳重に守らせました。
それによって、序列の最高位にある将軍が神格化されました。
大名たちは序列内の順位を上げて先祖や同僚より上位になることに熱中し、幕府を倒して将軍に取って代わることなど思いもよらなくなった、というのが福地の見解です。
島津家を例にとると、殿席(江戸城の控室)は外様の大大名が入る「大広間」、官位は「従四位下・侍従」からスタートして、通常は「従四位上・中将」でおわります。
しかし、その上の「従三位」に叙せられた藩主もいました。
初代藩主(島津家18代当主)の家久、8代藩主の重豪、そして10代藩主で斉彬の父斉興です。
家久は徳川家康から「家」の字をもらったほど信任が厚く、重豪は娘茂姫が11代将軍家斉の御台所であったことから従三位に叙せられました。
斉興にはそのような将軍家との濃い関係性はありませんでした。
しかし、祖父の重豪と同じ従三位になりたくて、幕府に何度も願い出ています。
斉彬に藩主の座を譲らなかったのも、従三位になるまで居すわるつもりだったのですが、「藩主でなくても従三位になった例がある」といわれて、しぶしぶ隠居しました。
これは序列というイリュージョンが、大名の心を奪った一例です。
幕府の作戦勝ちですね。