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江戸純情派「チーム江戸」

<江戸瓦版>新春編 江戸恵方めぐりⅰ

2026.01.02 05:43

 長い戦国時代も終わり、家康によって江戸幕府が開かれると、我が国にやっと真の平和が訪れてきた。そうなると時代の主役は武士から庶民に移り変わっていく。経済的にゆとりを持ち始めた庶民たちは、日頃の生活を楽しむようになっていった。遠出の旅行がまだリスクの多かった時代、近場の旧跡巡りや御利益のある神社仏閣詣でなどが人気を集め、信仰が建て前、行楽が本音の庶民たちの小さな旅が増えていった。芸事の神様、江ノ島弁財天から鎌倉五山、山岳信仰なら大山阿夫利神社、ちょいときつくなるが富士浅間神社詣でと庶民の楽しみは尽きなかった。「信心は 半分うさの 捨てどころ」であった。

 <七福神めぐり>さて、江戸庶民の新年縁起づくしは、①大晦日の夜は寝ないで元旦を迎えると、寿命が延びるとされた。➁年が改まったら井戸の水を汲んで副茶を淹れて飲むと、その年は病気をしないと云われた。井戸の水汲みはその家の主がすると尚縁起がいいとされた。これはその家の女房の言い分かも知れない。③初日の出を拝むと寿命が延びるとされた。江戸では愛宕山、洲崎辺りが初日の出スポットであった。④神社仏閣へのお参りは、その年の恵方からお参りすると運が開けるとされ、恵方とはその年の大吉の方角である。⑤ここが大事なイワレであるが、正月3ヶ日は嫁に楽をさせると家が繁盛するとされた。この項目もだぶんに女房殿が作ったイワレ、自己利益導入のきらいがある。⑥宝船の絵を枕の下に入れて寝ると「一富士二鷹三茄子」の吉夢が見られる。⑦いい夢を見た次の日は初湯、銭湯におひねりを包んでさっぱりして寿命を延ばした。こうして心身のメンテナンスをした後は、七福神めぐりが待っていた。江戸七福神は谷中が最も古く、享保年間(1716~35)の谷中に倣って、文化文政期(1804~29)になると太田蜀山人や酒井抱一、谷文晃、川上不白らの文人墨客たちが、向島百花園の福禄寿、三囲神社の恵比寿、大黒天、長命寺の弁財天などの神々に七福神を配し、新春の1日を縁起を担いで巡ったのが向島七福神めぐりである。江戸では他に、浅草、深川、日本橋、麻布、新宿、池上、品川など、江戸の粋人たちが信仰よりもレジャーとして考案した七福神めぐりがおかれている。このため、七福神全部廻らなくともご利益は確かであったし、また、巡る期間も小正月の15日のうちまでならと、大らかであった。

 <六地蔵めぐり>享保年間、旅人の無事を祈るために祀られたのが六地蔵である。仏教の教えに基づき、人間が生前の行いによって輪廻転生するとされている場所=六道、即ち地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道で苦しむ人々を救済する地藏菩薩の姿を、六地藏と呼んでいる。江戸時代、街道筋の出入口に置かれた。六道の筋とは「冥土の入口」の意味でもあった。1番は東海道品川、品川(ほんせん)寺、2番甲州街道、新宿太宗寺、3番中山道、巣鴨とげぬき地蔵新性寺(しんしょうじ)4番日光、奥州街道、浅草東漸寺(とうぜんじ)5番、6番は千葉、水戸街道の深川霊厳寺、深川永代寺と御府内の出入口に祀られた。1番の品川寺、3番の新性寺は現代においても人気を集めている。六地蔵の歴史は平安時代、仏教文化の発展と共に「浄土信仰」が浸透、六道輪廻の思想が受け入れられていき、江戸時代になって街道筋や寺院、墓地の周辺に六地蔵を祀る習慣が定着、交通安全、病気平癒を祈願、感謝して建立された。江戸の元禄年時代の頃から、六地蔵めぐりの他に、太陽の廻る方向、即ち東から南、南から西へと、春と秋の彼岸の季節に、太陽を追いながら神社仏閣をめぐる<六阿弥陀めぐり>も庶民の楽しみであった。西に沈む太陽を拝むことによって極楽浄土を願った。六阿弥陀の由来は奈良時代、悲しい娘の話を聞いた高僧行基が彫った、6体の阿弥陀仏を娘の近所の寺院に祀ったことによる。東都歳時記によると下谷長福寺、田畑村興楽院、西ヶ原無量寺、豊嶋村西福寺、沼田村応味寺、亀井戸常光寺などとされる阿弥陀様で結願、1日曜約5里半≒22㌔を太陽と共に歩いた。六阿弥陀像は娘の悲しい伝説から、女性成仏の阿弥陀様として崇められ、このため女性の信者が多く、彼女たちは自分たちのあの世の極楽浄土を願って巡ったという。

次回<恵方めぐり>ⅱも、読書の皆様の平穏無事、家内安全を願い、大日如来の化身であるとされる「不動明王」、目黒、目白などに祀られた五色不動を巡ります。乞うご期待です。