史跡「御殿」の証し(その2:課題)
富士市今泉の御殿町(旧瀬古地区)に存在した「御殿」について、今回も引き続き御殿特集にいたしました。
1 はじめに
私は戦後10年経って御殿町で生まれ、高度経済成長による急激な社会の発展を見てきました。
荒廃した生活は、私が10歳頃には殆ど復興し、その後20歳頃まで高度経済成長が続きました。それからは、さほど急激な変化は見られなかった様に感じます。
20歳前頃から20代半ばまでは、中東情勢の不安定化によってオイルショックが起こり、30歳過ぎてから30代半ばまでは、金融緩和によってバブル景気となり、30代半ばからは逆に金融引き締めによるバブル崩壊が始まって経済が低迷しました。
その後の日本経済は、失われた10年、20年、30年などと言われ、現在でも経済は低迷し続けています。
昭和30年代初期、自宅前は未舗装で雨の日には水たまりができるデコボコ道でした。牛車を牽いて畑仕事に行く農家や藁ぶき屋根の家も残っていました。
当時の家並みが、今とは全く違う情景であったのを覚えています。
たった70年程でさえ此処まで時代が変遷してきたのです。それが400年も昔にこの地に「御殿」が存在したと言っても不思議ではなく、現在 想像する風景とは全く違う異世界が広がっていたであろうと思います。ある面 変わりがないのは、その地形や今なお残る「御殿」当時の石垣くらいであると思います。
終戦間がない頃、町内で催された神社の秋の例祭「お日待ち」の集合写真を見ると、我が家に関係する身内だけが判る程度で、そこに写っている人達が何処の誰なのか全く判らないのが現実です。
しかし、確かにどの時代にも この場所で、異世界の様に移り変わる風景があり、見も知らずの多くの人達が生まれ育ち、生活してきた証しだけは真実です。
激しく移り変わる時代の中で、江戸時代初期には徳川家康の宿泊場所「御殿」が存在し、文献にも明確に残されていながら、その存在が歴史から忘れ去られようとするのを、御殿町内の者として無下にする訳には行かないと考えています。
2 幾つかの課題点
「御殿」の歴史を紐解く上で私は、諸法実相(事実そのまんま)こそが基本であると考えています。想像や思い込みではなく、史料の確認、現地調査、根拠や証跡の記録等によって事実の実相を残し、伝承でしかない部分には虚飾を加えず、「事実そのまんま」後世に遺(のこ)していくのが基本だと考えています。
それには、普遍性・妥当性が求められ「誰もが納得する結果」(最大公約数)を駆使する必要があると考えています。
そこで古民家ギャラリー懐古庵としては、御殿の史蹟名跡を後世に遺(のこ)す取り組みとして、まずは御殿の歴史から皆様に知っていただく必要があると考えています。
今泉地区に存在した御殿を知っていただくにも、長い歴史の中で一筋縄とは行きません。
概ね御殿が存在した時代背景は判るのですが、古ければ古いほど地元の生活文化が殆ど伝わってはおらず、御殿の存在を古(いにしえ)の生活文化から補うのが難しく、想像に頼るしかないからです。
そこで、それらの問題点を幾つか明確化しておく必要があると思い、私が未だ調査不十分であると感じている幾つかの課題について纏(まと)めてみました。
(1) 平安時代末期、源平合戦の時には、この辺の高台地域に源氏の軍勢が陣を敷き、源頼朝が此処に祀られていた神社に戦勝祈願をした記録が残っており、更に富士の巻き狩りの時に頼朝が此の地に御殿を建て、神社に造営費を与えた事から「御守殿稲荷神社」と言われるようになった。
その御守殿稲荷神社は、今尚、地域の氏神様として珍重されています。
その時の御殿とは、どの様な建物だったのか。
(2) それ以前に暮らしていた人々の歴史は、平安時代・奈良時代・飛鳥時代・古墳時代・弥生時代・縄文時代に遡るが、その時代、どの様な生活環境であったのか?
① 縄文時代・弥生時代からある宇東川遺跡の発掘調査によって考えられる状況。
② 奈良、平安時代の政治的背景から、この地域がどの様な統治下にあったのか?
③ 鎌倉時代以降、善得寺が建てられる南北朝時代までの間、御殿地区の高台(頼朝が御殿を建てたとされる場所)には、一体何があったのか?
・庶民の住居があったのか、或いは公用地として何かの建物が存在していたのか?
・源頼朝が御殿を建てた場所として特別な場所(公用地)になっていたのか?
吉原市史(上巻)によれば、鎌倉時代及び南北朝時代、伊豆と駿河は、北條氏の得宗家領であった旨である。(吉原市史上巻、430頁)
今川氏は、足利氏2~3代目から分かれた名家であり、南北朝時代の建武5年(1338年)、3代今川範国が駿河の守護となり戦国時代まで続き繁栄した。
御殿地は、頼朝以降の鎌倉時代には北條得宗家筋の御領地に属し、南北朝時代以降は今川家の御領地となる。
後に今川義元が善得寺を再興し、吹上・御殿地区にまで及ぶ大寺院を建造したと考えられるが、戦国時代が終わり、徳川の時代に此処に御殿が築かれるまでの間、この辺りだけは頼朝の時代に御殿があった跡地として住民が居住しない特別な区域であった可能性も考えられなくはない。
そこに農家の軒並みが続いていては、そう簡単に善得寺の寺域拡大も出来なかったのではないだろうか?
(3) 武田が善得寺を焼き払い穴山梅雪(身延を拠点とした武田24将の一人)が数年間この地域一帯(今泉地区:旧横尾郷)を領有した際、身延や南部地域から家来衆を入植させており、現在も血筋が続いているお宅が何軒か存在する。
そうなると それ以前に暮らしていた今川方の大寺院 善得寺領の領民(郷士や農民)達は、その後、この地でどの様な暮らし向きに変わって行ったのか?
穴山梅雪の家来であった入植者達は、おそらく善得寺の廃墟跡及びその周辺に区割りされて住居を構え、善得寺が所領していた未開墾場所(土地)を分配される等して定住した可能性が考えられる。その他、戦による報奨金を抱えて入植し、土着した可能性も考えられる。
少なくとも、元武田の家来(郷士)だったお宅には、今も豊かな地主さんが多く存在しているため、豪農とまでは行かずとも生活豊かな本農として土着(入植)したと考えられる。
また、穴山梅雪の家来が此の土地に土着(入植)できたのは、穴山梅雪の歴史的特殊性が相当影響していると考えられる。
武田は今川領に攻め込んだ後、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて衰退し滅びる運命を辿(たど)る。
その重臣の中でも唯一穴山梅雪だけが、早い段階から武田を裏切り織田・徳川に寝返っていたため、信長の配下に入り横尾郷(今泉)の領有を認められ、更には武田宗家が断絶した後にも、武田宗家の親族として武田氏の後継を名乗ろうと画策するなど、穴山氏が歩んだ特殊性が相当影響していると考えられる。
その辺りの流れ(ストーリー)が非常に重要である。
郷土史研究家であった故N氏のブログによれば、穴山梅雪の家来で、徳川家に随身し士族になった者には、後に駿河大納言(徳川忠長)に遣(つか)えて「御殿」の管理人となった者もあれば、その一方、穴山梅雪の娘(武田秋山家からの養女)で徳川家康の側室になった秋山夫人(下山局)の子(家康の5男「武田信吉」)が、水戸25万石の大名になった所縁で穴山家旧臣の多くは水戸藩士として随身し徳川の士族になった とのことである。
結局、穴山梅雪は、本能寺の変で大阪から逃げる途中、京都南東部(現、京田辺市)で領民に討(う)たれて最期を遂げ、後継の長男(勝千代:穴山信治)も元服前(享年15歳)で病死したため穴山家はお家断絶となる。
武田氏を名乗るはずの穴山氏が断絶したため家康は、武田の名跡を秋山夫人(下山局)の子(家康の5男)に残そうとはしたが、その武田信吉も21才で病死したため、結局、武田の名跡を残す事は出来なかった。
そうした穴山梅雪の生き様が、この地に善得寺が再建できなかった事情や大御所「家康」の宿泊場所「御殿」が築かれた事情と複雑に重なりあっていると思われる。
家康の側室になった穴山梅雪の養女(秋山夫人・下山局)が、御殿に深く関係しているのではないかと想像するが、その根拠は何処にも見当たらず想像の域を出ない。
(4) 武田に攻められて善得寺が焼失した後、武田も滅亡し徳川の時代になった時、亡き太原雪斎の弟子「東谷和尚」が善得寺再建を試みる。
善得寺跡地は、穴山梅雪の家臣に分配されて入植していたと考えられるので、東谷和尚が善得寺を再建可能だった場所は、おそらく現在の御殿地区に当る場所であったと考える。
しかし、その場所には後に徳川家康の「御殿」が建造される。
その頃の経緯は、ちょうど豊臣秀吉の小田原征伐と重なる時期でもあり、家康による吉原御殿との関係も曖昧である。
小田原征伐の時に秀吉の宿泊場所として家康が築いた「吉原御殿」が鈴川地区にあったのか?今泉御殿そのものであったのか?も不明であり曖昧な点が多く残されている。
東谷和尚が集めた善得寺再建資材が、豊臣秀吉の一夜城建設に使われてしまい、結局、それが善得寺再建を断念せざるを得なかった事情だと言われているが、その後、そこには家康の御殿が建造されていることから、その辺りの経緯をしっかり調査して検証する必要がある。
つまり、家康が既に御殿の建設計画を持っていた可能性が十分考えられる。
それが側室の秋山夫人(下山局)と深く関係している可能性があると私的には想像する。
(5) 善得寺が今川義元によって再建された全盛期には、瀬古と云われたこの地域(現在の吹上から御殿一帯)に、かなり大きな寺院が建造されたようである。
その寺院の規模や姿はどの様なものであったのか?
現在の家並みとはまるで違う風景であったに違いない。
(6) 家康の「御殿」とは、どの様な建物であったのか?
「御殿」が消滅した経緯は、3代将軍の弟 駿河大納言(徳川忠長)の悲運な生涯からも明らかである。
駿河大納言(徳川忠長)亡き後、御殿は廃墟状態であったと考えられ、その後、低地に暮らしていた田宿地区の住人が水害に遭ったため、江戸期宝永時代、時の代官(能勢権兵衛)が廃墟であった御殿を取り壊して更地にし、そこへ田宿の住人が高台居住してきた との事である。
その時、田宿に祀(まつ)られていた産土神(うぶすなかみ)を御殿地区に移築している記録が残されているが、その産土神に関する文献や口証が伝わってはいない。
私は、田宿から移転したという産土神が、御守殿稲荷神社の境外社「坂本稲荷神社」ではないか と考えています。
よって、文献史料と住民の生活資料を照らし合わせて検証し、御殿の証しを可能な限り立証することが不可欠である。
3 おわりに
今回は、御殿に関する問題点や課題について記事にしましたが、ここまでのご報告とさせて頂きます。
次回は、源頼朝が建てたとされる御殿、及びその時代の年譜、並びに御守殿稲荷神社に関わる文献などについて紹介したいと思います。
古民家ギャラリー懐古庵では、御殿に関する史料を纏(まと)めてありますので、興味のある方はご連絡下さい。
古民家ギャラリー懐古庵