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江戸純情派「チーム江戸」

江戸恵方めぐりⅱ <五色不動編>

2026.01.03 09:13

 不動明王は右手に剣、左手に羂索(けんさく=縄)を持ち、憤怒の顔をしている。手にした羂索も怒りの表情も、人間たちを救おうとしている慈悲を示していると云う。不動明王は真言密教最高仏である、大日如来の化身と伝えられ、別名お不動さん、怒りの表情と背後の炎「迦桜羅炎(かるらえん)」で、人間の煩悩を焼き払い、人間(衆生)を救済している。サンスクリット語の「アンチャラトータ」が語源で、「揺るぎない守護者」を意味している。不動明王像は弘法大師空海の作だと伝えられ、12年に1度、酉年だけに開帳される。お不動さまの縁日は毎月28日であり、東北、関東、東海、近畿、四国、九州などほぼ全国に三十六霊場があり、またこのなかに入っていない寺院も存在するため、全国の総数はこの数を上回る。尚、36という数字は、不動明王の下で働く童子の数であり、人間の煩悩の数である。36ヶ所を巡る事で煩悩が消えるようにとの願いが込められている。我が国では近江三井寺(円城寺)の黄目不動、京都青蓮院の青目不動、紀伊高野山の赤目不動が著名である。関東近県では成田山新勝寺、東日本橋の薬研堀不動尊、多摩の高幡不動、目黒不動が著名である。

 江戸時代の五色不動は五目不動といわれ、東西南北と中央の五方角を五色で示すものもので、3代家光が江戸城守護と方難除け、五街道の守護を目的に不動明王像を五ヶ所に祀り、江戸の名所となっていった。五色の色は密教の五大要素で、万物を作る要素であり、赤は南で火を表し、黒は北で風、白は西で水、青は東で空を、中央の黄色は大地を表現している。「夏山雑談」によれば、江戸五色不動の歴史は、上野寛永寺を開いた僧天海が、江戸城鎮守のため城の四方に不動明王像を建立した。その配置は五街道の入口ともされ、五色不動を結んだ線の内側が「朱引き内=江戸府内」であり、これに3代家光が中央の目黄不動尊を加えて五色不動とした。この五色の色は不動明王の目の色から命名されたという確証はなく、また、東洋医学の陰陽五行説の方向と不動尊の位置とも一致していない。現在では目黒と目白に地名として残っているが、赤、青、黄不動尊の位置は、転居、合併によって当時とは異なっている。古代中国では、赤(朱)、青(藍)、黄、白、黒(玄)の五色を正色とし、その中間色である緑、紅、碧、紫、瑠色の間色は下位としたため、聖人君子は用いてはならないという規律があった。

<目黒不動尊>JR目黒駅から行人坂を下り太鼓橋を渡って、地形に沿って曲がりくねった道を歩いて約25分、目黒川西南斜面地は湧水が豊富で「谷戸」が沢山あった。参道に向かう石段の左側には、家光も飲んだであろう「独鈷の滝」がある。慈覚大師が独鈷(法螺貝)を投げたところ、そこからの水が湧いたと伝えられ、この水を浴びたり水ごうりをすると病気が平癒するという。その中の1番大きな谷戸に造られたのが、天台宗泰叡山龍泉寺、本尊は目黒不動尊である。約1200前の大同3年(808)慈覚大師が比叡山延暦寺に上る途中に、夢に現れた不動明王を刻み、勧請したのが目黒不動尊である。関東最古の不動霊場であり、肥後、下総成田と並んで日本三大不動のひとつとなっている。元和元年(1615)、本堂が火事で焼失、寛永7年(1630)護国寺の末寺となり、家光の庇護を受けるようになる。同11年、全50棟に及ぶ伽藍が寄進修復され目黒御殿と呼ばれた。今でも雑木林や坂の多い土地であるが、その頃は竹林が多く、筍飯や筍料理が名物で、これらのを食べさせていた土地柄である。秋刀魚は目黒に限るとぼやいた、落語「目黒の秋刀魚」の主人公とされる、家光が訪れていた焼きたて秋刀魚を供する釜屋茶屋はここが舞台である。       

 <目白不動尊>関東36不動の14番目の霊場目白不動尊・金乗院慈眼寺は天正年間(1573~92)に創建された真言宗豊山派の寺院である。弘法大師空海が古代中国唐から帰国、出羽三山のひとつ湯殿山で、大日如来の霊夢を見てその姿を刻んだとされる、不動明王像が本尊である。開帳は50年に一度という秘仏である。縁起によればこのお不動さまは身の丈8寸(1寸≒3,03㎝)「断腎不動明王」と呼ばれ、不動自ら左腕を断ち切り、そこから火焔が噴出しているという独特な姿をしている。自らの左手をこの世の衆生の慈悲のために与えられたという。家光はこの不動明王に「目白不動」の名を送り、五色不動のひとつとし、元禄年間(1688~1703)には「時の鐘」も備えられた。目白不動尊は元々神田川沿い付近の文京区関口の新長谷寺(しんちょうこくじ)にあった。この寺には、徳川光圀の作とされる「木之花開耶姫の額」もあったが、寺は戦災で焼失、廃寺になったため、現在の金乗院に移された。最寄り駅は都電荒川線雑司ヶ谷駅、学習院下からそれぞれ歩いて数分の処にある。学習院大学は京都にあったが、明治になって貴族、華族の子弟たちが通い始めた。その頃は全て全寮制でそこで寮長を務めていたのが、京橋桶町小千葉道場の娘千葉佐那である。龍馬をただ1人の伴侶と定め、維新後は千住で灸施術をするなどして独身を通した。

 <目赤不動尊>赤目不動尊も家光の命名によるものだという。メトロ本駒込駅から歩いて5分ほどの東朝院南谷寺は、伊賀の赤目山で祈祷中に授かったという黄金の不動明王が御本尊である。<目青不動尊>田園都市線三軒茶屋駅から歩いて5分程の世田谷区太子堂にある最勝寺教学院は天台宗寛永寺の末寺であり、元々は教学院は青山の地にあり、青山の閻魔様として親しまれたことから、目青不動を名乗るようになったと云う。

<目黄不動尊>川柳に「こいつは麻布で 気(黄)が知れねぇ」と詠まれるように、中央に位置する目黄不動尊は、いまいちどこが御本尊か分からないお不動様である。資料によると、江戸の頃の目黄不動は台東区三ノ輪から程近い、南北朝時代創建とされる養光院永久寺と、隅田川畔の東駒形にあった明王院最勝寺が記録されているが、目黄不動はこの他にもあった。目黄不動は浅草勝蔵院に祀られていた「明暦不動」が「メキ不動」と呼ばれていたことから、この名がついたとされるが、これらの真偽は定かではない。文化5年(1808)に出された柳樽46篇には「五色には 二色足らない 不動の目」と詠まれた川柳がある。当時は三不動が当たり前であった一方、五色に見立てる考え方もあったことがこの句から読みとれる。冒頭の麻布は、23区になる前の港区の1部で、港区は赤坂区、芝区、麻布区で構成されていた。麻布区は北は赤坂、東は増上寺、西は天現寺、南は白金に接していた。麻布は「鷹狩りに適切なり」と起伏が多く雑木林が密集していた田園地帯であった。こうした土地柄から江戸っ子たちの間では、麻布は鷹揚として気の知れねぇ、訳の分からねぇ処だ」とされ、麻布は確かな約束ができない言い訳として登場した。また、麻布領内では、目黒、白金、赤坂、青山の地名は存在するが、何故か黄色がつく地名が存在しない。つまり、黄がないから黄(気)が知れねぇ、訳が分からない、決局麻布はいい加減という方程式が導かれた。この答えが「こいつは麻布で 気がしれねぇ」である。更に、近くの六本木でも、実際6本の木が何処に植えられているか分からないことが、「木が知れねぇ」のダメ押しとなった。こうした江戸っ子たちの駄洒落は単なる言葉のこじつけであるにせよ、本人たちは大真面目にこの理屈を正当化して、世間様に堂々と幅を利かせていた。新春うららの1日、江戸っ子たちは御屠蘇気分で六地蔵や五不動を参拝、こうした言葉の遊びを通して、日頃の悩み事、心配事を吹き飛ばし、したたかに生きていった。

                    <チーム江戸>篠塚でした。