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田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

説教20260104マタイによる福音書19章13-15

2026.01.06 08:53

「天国の人々」

 聖書

 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

説教

 ここまでイエスはさまざまな人間どうしの関わりの中でも、たがいに心を向け合い、求め合い、赦し合うことの大切さを語ってきました。弟子の中で誰がいちばん偉いのかとか(18章1節から)、迷い出た羊をどこまでも探し求めるように小さな者をこそ大切にすべきこととか(6節から)、過ちを犯した兄弟に対しては二人だけで人格を向かい合わせて忠告すること(15節から)、何十億という負債を赦されたのに数千円の貸しを返さないからと言って責めるのではなく七のその七十倍までも赦すべきことなど、様々な人間どうしの具体例をもってイエスは「赦し」を説いてきました。それは「夫婦」の関わりについても挙げられ結婚は「神が結び合わせ」たこと、だから神から恵みを受けるように配偶者を受け入れることを心に覚えるように語ったのでした(19章3節から)。そしてこの段ではついに「子供」が登場して、イエスが向けられる思いがわたしたち人間の生活に広く深く密着していることを思わずにはおれません。

 イエスはガリラヤ地方から旅立ち、自身で予言されたように学者や祭司たちによって苦難を受け殺される街、エルサレムへと向かう途中にありました。すでにヨルダン川を渡りユダヤの地に入られたのでした。この時、イエスのもとに人々が子供たちを連れてきたというのです。それはこれまで各地でなされたイエスの癒しや奇跡の大きな力や言葉を知り、自分たちの子供にも力ある手を置いてもらおうと考えたからでした。この「手を置く」という仕草はたとえば創世記でヤコブがヨセフの息子たちエフライムとマナセを後継者とするという時に記されたように旧約時代からの「儀礼」のひとつです。今日では「按手」と呼ばれ、それは第1に「祝福」のため、第2に地位の「相続や任職」のために行われます。手が置かれるとそれは「神の霊が注がれた」ことの徴(しるし)となるのです。イエスの時代では宗教的な儀礼がさらに通俗化され、高位のラビ(師・学者)から手を置かれることが神からの祝福や励ましや助力を与えられることにつながり、一般民衆もラビにこの按手を願ったのでした。

 そんな力ある方に是非自分の子供たちにも手を置いてもらおうと、人々がやって来たのです。イエスに追いつきその足を止めんばかりにいささか騒々しく黄色い声まじえてイエスを取り囲んでせがんだのでしょうか。人気アイドルを取り巻いてサインをねだるファンとは言わなくてもいくぶんか執こい状況になったのかもしれません。思わず弟子たちは「叱った」、つまり騒ぎをおさめようと上から目線的に「こらこらやめなさい」とたしなめたとも思われます。ところがイエスはそれを止め、むしろ「子供たちを来させなさい」と呼び寄せたのでした。「わたしのところに来るのを妨げてはならない」とも言われた。強調していえば「子供たちの邪魔をしないように」ではないでしょうか。イエスの眼に映ったのは無邪気にイエスを見つめる幼い子供たちでした。イエスが瞳を緩めればすぐにもそれをキャッチして小さくつぶらな眼に笑みを浮かべそうな幼児たち。大人に抱かれた嬰児もいれば、眼光鋭い少年もいたかもしれません。「天の国はこのような者たちのものである。」イエスの口から出たこの言葉は、その場にいたらきっと心に深くささるでしょう。それは周りの弟子や人々に向けて教える言葉ではありません。この優しく生き生きとした言葉は、ほんとうは子供たち、幼児たちに向かって真心から語りかけるイエスの祝福だったのです。「やあ君たちはみな、天国の子供たちだね」。

 聖書の中に子供のことは何か所も描かれています。そのどれを読んでも心が新鮮になります。5千人の食事の時、一人の少年が弁当を献げました。「少女よ、起きなさい」とイエスに言われてすぐ起き上がった子、「お父さん、かんじんの生贄がありません」と主の山でのイサクのつぶやきは大事なことを暗示します。少年ですがダビデは純粋な神への信頼でゴリアトにためらいなく立ち向かいました。兄たちを怒らせた夢見るヨセフには邪心がありません。一体ここでイエスは子供の何をもって「天の国はこのような者たちのものである」と言ったのでしょう。一体子供とはどんな存在なのでしょう。子供は大人とどこが違うのでしょうか。

 わたしは思います。子供が大人と決定的に違うところ、それは「教えない」ところだと。大人は大人になるほど他人を「教えよう」とします。これが良いことだとか、これは役立つこととか、してはいけないことすべきこと、これは正統これは異端、規則を、道徳を、理想を、人間のあり方を。自分の子に、友人に、仕事仲間に、他人に、社会全体に。そうして他人の管理人になろうとします。

 でもそのように「教えよう」とする子供はいるでしょうか。むしろ子供は「学ぶ存在」と言えるのではないでしょうか。もう無意識的に学んでいます。大人が教え込むよりも深く周りから学んでいます。この「子供」は「パイデイア」という「(知恵を学び)導き出される者」というギリシア語です。教え込むことに躍起になる大人には支配欲や権威願望があることに気づかされます。ジャンジャック・ルソーという人はこんなことを言っています、「子供にああしろこうしろ、ああするなこうするなと教育するなら、やがて彼は息をしろと言われるまで息をしなくなるだろう」と。

 イエスは子供の中に人間にとってもっとも大切なことを見たのです。それは大人のように他人を教えて自分の言いなりにしようとしないことです。ユダヤの律法学者や祭司は民衆に神の掟を教えて人々の心を雁字がらめにしてしまいます。そして心底からの自由な信仰をかえって不要なもののように忌み嫌い、自由な人間を律法にとって悪しき存在とばかりに十字架に架けようとするのです。

 無心な子供たちを純粋に見つめ、真正面から迎え入れるイエスの眼差しと言葉にこそわたしたちは無限の学びを得られるでしょう。ここには他のマルコやルカの同じ記事にある「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という警告じみた教えは語られていません。おそらく一番大事なことは次の言葉にあるでしょう。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」それは子供たちのように小さな存在の人々や人間のありのままの素直な心に目を向けられるなら、あなたもかならず彼らを迎え入れつながらずにはおれないのだという「愛のきずな」の約束なのです。