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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.174 「岩倉使節団の功罪」について

2026.02.09 20:20


本当はもう、前回の「幕末の謎③」を最終回として、また江戸時代の1番最初に戻ろうと思っていたのだけれども、何件か気になることがまだあるので、エピローグ的なこぼれ話を少しばかり続けようかと。


と言うのも、敬愛する「武将ジャパン」様の秀逸なる記事が、膨大にあるものでして。また幕末のこの辺まで戻ってくるのに2年ぐらいかかりそうだし、気になることは気になるうちに調べてメモっとかないとですよね。


てことで、まずは前回古畑さんが挙げてくれた「岩倉使節団」の不可解なる遊学について、メモメモしておこう。




⚫︎ 何やってんだよ岩倉使節団


幕末から明治維新後にかけて、日本は欧米列強との関係構築を急速に進める必要に迫られていた。その中で派遣された数々の使節団のうち、最も大規模かつ象徴的なものが岩倉使節団である。


岩倉使節団は、1871年(明治4年)12月23日に日本を出発し、欧米諸国を巡った国家的使節団であった。使節の正使には「岩倉具視」が就き、これに「大久保利通」「木戸孝允」といった新政府中枢の要人が随行した。彼らが直接西洋文明を視察し、日本の進むべき近代化の方向性を探ることが主な目的であった。


岩倉使節団は、総勢107名という前例のない規模で編成され、滞在期間は、約1年10か月(1871年12月〜1873年9月)に及んだ。訪問先はアメリカ合衆国を皮切りに、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと、計12か国に及ぶ。


随員の中には、後に明治国家を支える人物が数多く含まれていた。「大久保利通」「木戸孝允」「伊藤博文」「中江兆民」「由利公正」らのほか、将来の女性教育の象徴となる「津田梅子」「山川捨松」といった女子留学生も同行している。また、「牧野伸顕」や「武者小路実世」など、後世に影響を及ぼす人材も含まれていた。


彼らが欧米諸国で見聞した政治制度、産業構造、教育制度、社会のあり方は、帰国後の日本の近代化政策に多大な影響を与えた。議会制度、法制度、銀行制度、工業化、教育改革など、いわゆる「文明開化」の諸施策の多くは、岩倉使節団の報告と体験を土台として推進されたと評価されている。


しかし一方で、岩倉使節団は当時から多くの批判も受けていた。


・いくら何でも期間が長すぎた(国政が停滞)

・やるはずがなかった条約改正のようなことに手を出し、その手続きのためアメリカから一時帰国する羽目に陥る

・銀行詐欺に騙され、大金をだまし取られる

・西南戦争はじめ、政権を揺るがす事件に繋がった側面を持つ

・「西洋を真似したらいいってもんじゃねえだろ」派が反発

・同行していた女子留学生は、その後、政府からのフォローが無く、詰みそうになる


とまぁ、実は当時から「政権中枢が海外までお使いとか、あまりに非常識でしょ」と散々叩かれていた。




⚫︎ 予定になかった条約改正交渉に手を出し、かつ失敗


まずは、アメリカに上陸した使節団。熱烈歓迎を受けたワシントンで、早速やらかす。駐日公使の「デ・ロング」の口車に乗せられ、予定になかった条約改正の交渉を始めてしまうのだ。しかし、それは大いなる間違い。使節団は派遣前に「十二ヵ条の約定」を結んでいた。要するに、政府を無視して政治を動かしてはいけないという約束である


独断で条約交渉ができないということで、一旦帰国する羽目に陥った。日本国内では、当然ながら反発が強まる。「勝手なことをするな!」「トンボ返りってありえんだろ!」「また滞在が長引くんじゃねーか!」ついには、岩倉と木戸が切腹するしかない、というところまで追い込まれたとか。


これを聞いた外務卿「副島種臣」の言葉「切腹の儀は、ご勝手になさるべし。あえてお進めもお留めもいたさず」言い換えると「勝手に切腹すればエエやろ、進めないし止めないぜ」って、これが政府の見解。結局は「さすがにあの二人を切腹させたらいかんでしょ」となったのだが、いきなりの大ひんしゅくである。で結局、条約改正にも失敗。




⚫︎ イギリスで詐欺られて大金を失う


その後、一行は、アメリカからイギリスへ渡ったが、ここでも無駄に長引く部分があり、もっと計画的にできなかったのかとツッコミ所が満載。例えば、ヴィクトリア女王に面会しようにも、女王はスコットランドで休暇中で全然会えない、など。


しかも、使節団が預金していたブールス銀行が破綻し、2万5千ドル、25箱もの千両箱が消えてしまったのである。この事件、長州藩出身、高杉晋作の従弟にあたる「南貞助」が大きく絡んでいた。日本人と西洋人の国際結婚第一号(のちに離婚)でも名を知られた人物であるが、ロンドン留学後、ブールスという銀行マンに「きみの母国の使節団のお金、是非預からせてくれんか」と依頼され「欧米では現金を持ち歩きませんよ」という南の言葉に使節団はコロッと騙されたのだ。


やがて、日本国内では、薩長政府への怒りが滾るようになる。薩長中心の使節団が、長州藩出身留学生の口車に騙され、大金をドブに捨て、アメリカで条約にミソをつけられた話に続き、イギリスではこの始末。しまいにはこんな強烈な狂歌が詠まれた。


 条約は 結び損ない 金とられ
     世間に対して なんといわくら


留守政府では、ただでさえ不平士族の反乱に頭を抱えているのに、使節団がこの調子。後に明治政府と対立する「西郷隆盛」「江藤新平」らの台頭や不満も、ジワジワと募っていくのであった。




⚫︎ 留守政府は目の前の問題に追われていた


国家体制が未成熟な段階で、あまりにも長期間にわたって主要指導者が一斉に国外に滞在し、国内不在にしたことは、国内政治の停滞や混乱を招いていた。


使節団が海を渡ったあと、国内政治を担ったのが、いわゆる留守政府である。中心にいたのは「西郷隆盛」「板垣退助」「江藤新平 」「後藤象二郎」。彼らは、国内の不満と向き合わされる立場に立たされた。廃藩置県。士族の困窮。財政難。「机上の文明より、目の前の不満をどうするかだ」それが留守政府の現実だった。


留守政府のもとには、士族の怒りが集まる。「武士の行き場がない」「国は誰のためにある」西郷隆盛は、沈黙の中で考えていた。「外を見ている間に、内が壊れてはならぬ」彼は、外よりも内を向く政治を選ぼうとする。その結果、浮上したのが──「征韓論」だった。


3ステップで征韓論の趣旨をマトメると、

① 朝鮮が日本からの国書受理を拒否したことがキッカケで対朝鮮の外交論が浮上

② 板垣退助は、朝鮮に出兵して居留民を保護せよと主張する

③ 西郷は「単身で朝鮮に乗り込み話をつけてくる!」と意見を強行


かくして一度は西郷の遣韓大使任命が留守政府内で決まったが、重大な国策なので岩倉使節団の帰国を待つことに。


征韓論は、単なる対外強硬論ではなく「士族に役割を与える」「国家の威信を示す」「国内不満を外へ向ける」という狙いがあり、留守政府にとって、それは現実的な解決策に見えたのであった。


ただ、実は、留守を守っていた西郷隆盛は、このころストレスで精神がかなり傷ついていたらしい。確かに西郷の「征韓論」には、おかしなところがある。西郷が、朝鮮半島で死ぬことを覚悟していたとしか思えない点が最大の違和感であり、自ら朝鮮側に殺害されることで、攻め込む口実を探していた──そう思われても、仕方ない部分があった。


西郷は、旧幕府が滅びたのは西洋に阿(おもね)り、東洋としての自覚や誇りを捨てたと信じていた。その西郷からすれば、使節団の派遣だけでなく、西洋にあまりに媚びる明治政府が、東洋の美徳を捨てようとしてるように見えたようだ。


国内でも「西洋の模倣一辺倒でよいのか」という反発が強まっていた。伝統や価値観の急激な変化に対する違和感は、士族反乱や思想的対立の一因ともなった。このまま西洋に阿(おもね)るならば、国は滅びてしまう──そんな危機感が西郷を突き動かし、西南戦争での滅亡にまで駆り立てたのかもしれない。




⚫︎ 明治六年の政変へ


しかし帰国した使節団は、征韓論を却下。「今、日本は戦争をしている場合ではない」「今、戦えば日本は負ける」それが、帰国後の彼らの結論だった。

留守政府は言う。「国内は限界だ」「外に向かわねば、内が割れる」

岩倉は、静かに返す。「内が割れるのは、国が未完成だからだ」

大久保は、もっと冷酷だった。「戦争は、国を救わない。国を“消費”するだけだ」


やがて、征韓論は退けられた。そして、留守政府の中心人物たちは、政権を去る。西郷隆盛、下野。板垣退助、離脱。江藤新平、辞職。これが「明治六年の政変」である。国家は割れた。外を見た者、と、内を見続けた者、どちらも国家を思っていた。だが、視界が違ったのだ。


岩倉使節団は、日本に近代化の指針をもたらす一方で、留守政府との深刻な対立を引き起こし、明治政府内部の分裂を決定づけた存在でもあった。日本の進むべき道をめぐるこの衝突は、やがて西南戦争や自由民権運動へと連なり、近代日本形成の大きな転換点となっていくのである




⚫︎ 再び内戦へと逆戻り


征韓論が退けられた結果、多くの士族は深い失望を味わった。彼らは「征韓軍が編成されれば再び必要とされ、戦功によって生活の道が開ける」と期待していたため、その希望が潰えたことで不満が一気に噴出したのである。


さらに、中央政界を離れた維新功労者たちが各地に帰郷したことも、士族の動揺を増幅させた。彼らは反政府運動における有力な「旗頭」となり得たからである。


こうした中、明治7年(1874)に最初の大規模な士族反乱である「佐賀の乱」が勃発する。主導者は、元新政府中枢の人物である「江藤新平」であった。


明治9年(1876)、政府は武士の象徴であった刀の携帯を禁じる「廃刀令」を公布する。これにより士族の不満は決定的となり、同年10月、反乱が相次いで発生した。

熊本の「神風連の乱」では、敬神党が政府の西洋化を「日本精神の否定」と捉えて蜂起したが、計画漏洩により短期間で鎮圧された。


続く「秋月の乱」も準備不足と内部混乱から失敗に終わる。

萩の乱」では、旧長州藩士を率いた「前原一誠」が挙兵したが、県庁襲撃に失敗し鎮圧された。前原は征韓論支持と士族解体反対を掲げ、地元で強い支持を得ていた人物である。


これらの反乱はいずれも、事前調整不足と情報漏洩によって失敗した。その結果、不平士族の間では「人望・実績・軍事的指導力を兼ね備えた人物でなければ成功しない」という認識が共有されるようになる。そして、その条件を満たす存在として浮上したのが西郷隆盛であった


鹿児島で隠居していた西郷は当初決起に消極的だったが、私学校を中心とする士族集団の形成と、政府による弾薬回収を契機に、ついに蜂起を受け入れる。こうして明治10年(1877)、日本最後最大の内戦である「西南戦争」が始まるのであった。




なるほど、それで西郷どんと大久保は袂を分ったわけね。西郷どんも息抜きで一緒に海外旅行すりゃ良かったのに。いや、そもそも大勢でぞろぞろ行ったのが間違いだすわな。


ところで、同行した女性陣がその後、詰みそうになったって話が気になって、なかなか江戸初期に戻れない予感。。



参考
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/12/22/164942
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/10/27/106222