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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.176 「津田梅子」と「大山捨松」について

2026.02.19 20:05


正直、新5000円札の顔が「津田梅子」になった時「誰?」って感じだった。それからしばらく経った今現在でも私は今だに「だから誰?」って感じである。おそらくこのブログをやっていなければ、この先また別の人にお札が変わっても「結局あのオバサン誰だったんだろ?、、まいっか!」って感じで過ごしたであろう。今回たまたま調べる機会に巡り会って本当によかった。


とりあえず「津田梅子」は、日本における女子高等教育の礎を築いた教育者であり、明治期を代表する女性知識人の一人である(らしい)。彼女の生涯は、日本社会において女性が学問を通じて自立する道を切り開こうとした、先駆的な試みの連続であった(そうな)。


だが、今回それを調べていたら別の面白い人物を発見した。それが「大山捨松(すてまつ)」という女性である。名前からして既に面白い。ので、こちらも並行してメモっておこう。




⚫︎ 岩倉施設団に随行させられる女子たち


捨松は初名を「山川さき」といい、会津藩の家老の家に生まれた。長兄の「山川大蔵」は、鶴ヶ城篭城戦で彼岸囃子を鳴らしながら城内の応援に駆けつけた、あの男、である。その妹のさきも、戊辰戦争で新政府軍が会津若松城に攻めてきた時には、家族と共に城へ入り、負傷者の手当てや炊き出しなどをしていたという。


篭城戦のある日、さきたちが食事をしている部屋で砲弾が炸裂し、大蔵の妻トセが大やけどを負い、さきも首を負傷した。トセは「母上、母上、どうぞ私を殺してくださいませ!あなたの勇気はどこにいってしまったのですか!」と懇願するほど苦しんだが、手の尽くしようもなく皆の前で息を引き取った。


そして戦争が終わり明治に入った後、旧会津藩の人々は苦難の生活を送ることに。改易の上、極寒の地である斗南藩(青森県の最北短あたり)へ移ることになったのである。本当は「旧領の一部・猪苗代かどっちか選んでいいよ」ということになっていたのだが、諸般の事情により斗南になった。


案の定、斗南に移った旧会津藩士たちは予想以上の厳しい気候により死者が多発。耐えかねて逃亡する者も出始め、山川家も苦しい生活を余儀なくされていた。この状況ではどこの家でも一家全員同じ屋根の下で暮らすことは困難なため、一人でも多く生きられるよう、年少者はあちこちへ里子に出された。


捨松もその一人で、彼女は函館の「沢辺琢磨」という(当時珍しかった)キリスト教司祭の元へ行き、その縁からか同じく函館で暮らしていたフランス人の家に預けられることになる。


そのころ明治政府では、岩倉使節団の計画が進んでいた。このとき随行する留学生には「賊軍」と呼ばれ世間から冷たい目で見られていた者も参加が認められており、捨松のもう一人の兄「山川健次郎」も加わっている。


女子の応募も認められていたが「政府がお金出すけど留学期間は10年ね!」という条件だったため、希望者ゼロというまさかの事態が起きる。さすがに10年ともなると本人より親が反対したのであろう。


しかし、捨松はフランス人の家で暮らしていたことから西洋文化に親しんでおり、山川家でも「いざとなったら健次郎が何とかしてやれ」という結論になったため、応募に踏み切った。最終的に女子留学生は以下の5人。

新政府が本当に女子教育を重んじるのであれば、薩長の家から率先して出されてもおかしくないのに、その全員が佐幕派もしくは賊軍とされた家の娘だったというから、まぁ、なんちゅうか「どうなってもええし」って扱いである。


「捨松」という一見ヒドイ字面の名前になったのはこの頃で。無事帰ってこられるかわからない留学に際し、母親が「お前のことは一度捨てたものと思いますが、帰りを待つ(松)ことには変わりありませんからね」という意味をこめて名付け直したのだとか。


日本には昔から魔除けの意味でわざと子供に汚い・縁起の悪い字をつけるという風習があったので、その一環かもしれない。ともあれ、こうして捨松ら女子5人は長い船旅を経てアメリカに渡った。


その中の最年少が当時6歳の「津田梅子」であった。父からはポケットサイズの英和小辞典を持たされ、「イエス」「ノー」「サンキュー」程度の英語を教えられただけで船に乗ったという。




⚫︎ 日本一意識高い女子「津田梅子」が出来上がる

明治5年(1872年)、いざアメリカにたどり着くと、美しい着物を身につけた生きた日本人形のような少女たちは大注目を集めた。少女を引率するアメリカ人は着物をみせびらかしたがったが、本人たちはあまりに見物人が多く、すっかり疲れ切ってしまったらしい。実際、年長者の2名は、アメリカ生活が合わずにすぐに帰国している。一方、残った3人は「トリオ」と呼び合い、生涯の親友となった。


現地ではホストファミリーのもとで生活をし、キリスト教や西洋式の生活習慣、そして当然ながら英語教育を受けた。当初は寂しさや言葉の壁に苦しむが、梅子はやがて持ち前の聡明さと努力によって、学年トップの成績をおさめるまでになる。

 

しかし、学力以上に梅子が得たものは、「世界には違う価値観がある」という視野の広さだった。日本では「女の子は結婚して家庭に入るもの」とされていた時代に、アメリカでは女性も学問を学び、社会の一員として活躍していた。この体験が、後の津田梅子にとって「女性も学ぶべきだ、働くべきだ」という強い信念の根になるのである。


梅子が帰国したのは、女学校の卒業に合わせて10年の予定を1年延長した1882(明治15)年。同年に大学を卒業した捨松と同じ船で帰国の途についたのは、18歳の誕生日を迎える直前であった。梅子と捨松は船の上で、帰国したら捨松が寄宿先で姉妹のように育ったアリス・ベーコンを日本に呼びよせて、3人で女子のための学校を開こうと夢を語り合った。日本の女性たちのリーダーとなって、国のお金で留学をさせてもらった分の恩返しをしたいと思っていたのであろう。


しかし、待っていたのは「浦島太郎のような戸惑い」だった。家庭では父と会話がかみ合わず、社会でもアメリカ帰りの彼女を奇異の目で見る人も少なくなかった。日本社会にはまだ「女性が学ぶ」という意識が根づいていおらず「女は裁縫や礼儀作法を学べば十分」といった考えが支配的だったのだ。(ちなみに、この男尊女卑の風潮は薩長が政権を支配したことで江戸時代より強まったと言われている

 

梅子は、華族女学校などで教鞭を執るものの、形式的な教養にとどまり、女性の自立につながらない教育の在り方に疑問を抱くようになる。そして、女性が自ら考え、職業を通じて社会に参加できる教育こそが必要であるとの信念を深めていった。




⚫︎ 日本で捨松を待っていた数奇な運命

帰国した捨松にも、日本では彼女が学んだことや看護婦の資格を生かせる場は、まだ存在しなかった。ちょうどそのころ、薩摩の「大山巌」が、最初の妻を亡くして困っていた。当時、政府は西洋風の社交界を作ろうとしているところだったため、パーティーに連れて行ける奥さんが必要不可欠だったのだ。巌は軍での責任も重くなり始めていて、ドイツ語やフランス語で交渉に当たることもあり、同等の語学ができる女性を探していたが、当然ながら、そんな人、国内に何人もいやしない。こうして捨松に白羽の矢が立った。


山川家では一瞬喜んだものの、相手が大山巌と聞くや態度が激変。それもそのはず、巌は、かつて鶴ヶ城へ小田山から砲撃を浴びせた張本人である。「敵のところへ嫁に行くなんてとんでもない!!」特に山川浩(大蔵)は、鶴ヶ城への砲撃で妻を亡くしていたので、許せないのは無理もない。


ところが、いざお見合いデートしてみると、お互い留学経験があるため英語で会話ができ、たちまち意気投合。ルイ・ヴィトンの最初の日本人顧客であり、自他共に「西洋かぶれ」と認めていた巌と、「アメリカ娘」の捨松。二人はすぐに惹かれあった。


二人はできたばかりの鹿鳴館で披露宴をし、1,000人以上もの招待客が詰め掛けた。既にドレスや西洋式のマナー、そしてダンスに慣れていた捨松は、その後も鹿鳴館で行われる欧米の外交官達と鮮やかに渡り合ってみせた。日・独・英・仏の四ヶ国語すべてを冗談が言えるレベルで話せる女性なんて、当時の日本には捨松以外いなかったであろう。というか現代でもなかなか稀有な存在である。


その後、捨松は今までの不遇を取り戻すかのごとく、日本初の看護婦学校の設立や、かつての留学仲間である津田梅子が大学を設立する際の支援をするなど、積極的に活動したという。




⚫︎ 理想の女学校開設に向けて

梅子の良き理解者だった捨松が薩摩藩出身の軍人、大山巌と結婚をすることになり、梅子は「アメリカで身につけた教育が日本では何の役にも立たない」と嘆いた。こうした問題意識のもと梅子は、教育者として日本人女性の地位向上に貢献することを決心。


1898(明治31)年にアメリカのデンバーで開かれた万国婦人連合大会に日本代表として出席すると、「女性は、教育によって人形のような存在から抜け出し、男性の本当の協力者、対等なパートナーとなることができる」と、3千人もの聴衆の前で教育による女性の地位向上を訴えた。


大会後、梅子はアメリカでヘレン・ケラーと、その後の渡英ではフローレンス・ナイチンゲールと会って、教育の重要性や理想に向かって進み続けることの大切さを学ぶ。そして、ついに明治33年(1900)、私財を投じて女子英学塾を創設するに至る。

これは後の「津田塾大学」へと発展する教育機関である。女子英学塾では、実用的な英語教育に加え、思考力や判断力を養うことが重視され、結婚準備としての教育ではなく、女性の人格的・経済的自立を目的とした教育が実践された。


このような教育理念は、当時の日本社会において極めて先進的であり、既存の価値観に対する静かな挑戦でもあった。津田梅子は、生涯を通じて女子教育の充実に尽力し、日本の女性が学問を通じて社会と向き合うための道筋を示したのである。


津田梅子は、日本の近代化の過程において、女性の知的自立という新たな理念を提示した存在であり、その功績は今日の女子高等教育の発展へと確実に受け継がれている。




へー、そうでしたか。やっと分かりましたよ。みなさん知ってたんですかね津田梅子。結構、知られざる偉人だと思うんですけどね。捨松とか知らない人まだまだいるんじゃないですか。


ともあれ、いろいろ運命が絡み合ってて面白い話でした。

塾設立は梅子ひとりじゃ資金面的に成し遂げられなかったし、捨松もかつての敵将、大山巌と結婚してなければ梅子をサポートできなかったし、大山巌は捨松が会津から放り出されてバイリンガル帰国子女になってなけりゃ日本の女子教育の発展に貢献できなかったし、、


ってことは、運命を遡ると「大山巌さん会津を滅ぼして(捨松を苦境に立たせて)くれてありがとう」って話になっちゃうのだけれども、、そーゆーこと考えるのは止めましょうね。



参考
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/02/17/14530
https://ja.wikipedia.org/wiki/大山捨松
https://maruchiba.jp/feature/detail_260.html?utm_source=chatgpt.com