CHOPIN、ショパン、ヴォジンスキ夫人の死の接吻
1837年3月ポーランドの田舎のスルゼーヴォのヴォジンスキ邸宅から
マリア・ヴァジンスカよりパリのショパンに1通の礼状が届いた。
赤い皮の表紙に金文字でマリアの名前を刻印した小さな音楽アルバムを作成したショパンで
あった。ショパンはヴォジンスキ夫人に立派な装丁の楽譜を贈り、ヴォジンスキ夫人の怒り
を買ってしまていたため、マリアが喜ぶようにとわざわざマリアの名を入れた自筆譜の音楽
アルバムを手づくりして、マリア嬢へとしてヴォジンスキ夫人へ送ったのであった。
マリアはこの音楽アルバムを美しい手帳と称してとても喜んでいるとショパンに伝えてきた
のだ。
そして、その喜びは「私どもヴォジンスキ一家をあげてショパンに終生かわらぬ愛情を注い
できたことはあなたもわかったいると思います」と、あくまでもヴォジンスキ家はいい人で
すとあなたは世間に言わなくてはなりませんと言いたいマリアというより、ヴォジンスキ夫
人なのである。
そして、あなたは私たちの下僕であるけれど、芸術家としては私たち名門貴族よりも上だと
心のどこかで思っていることは知っているから気に入らないヴォジンスキ家であった。
しかし、画家や音楽家、詩人とヴォジンスキ家は付き合うことでマリア嬢は社交界で名声を
得てきたことでヴォジンスキ夫人はある程度の目的を達成したため、マリアが書いたことに
しながらヴォジンスキ夫人は最後の仕上げにショパンに言い放ったのであった。
「私たちは才能の乏しい弟子でした。そして、あなとは幼なじみということで終わりにしま
しょう。」マリア。だから、あなたに変わらぬ愛を注いだことにしておいて、私たち名門貴
族ヴォジンスキ家はいい人ですとあなたは世間に言ってください。
しつこくショパンの首を絞めるヴォジンスキ一家、恐るべし夫人と令嬢。
最後に綺麗ごとをマリアを使って書かせるヴォジンスキ夫人、マリアだろうがヴォジンスキ
夫人であろうが、ここまでくると母と娘でもう一心同体であるかのようである。
おそらく本人たちも、どちらが書いているかわからなくなっているか、マリアの手紙はサイ
ンがないときもあった。たとえ筆跡がマリアだったときでさえ、もはやヴォジンスキ家とし
て全員一致で書いているのであろう。
マリアは最後に綺麗ごとの言葉を並べで、ほぼショパンから奪えるものは奪いショパンを捨
てたのだ。
ヴォジンスキ夫人がフレデリックへ接吻を送ると書き、マリアの妹がショペナとフレデリッ
クのことを話しているとマリアが書き、そして、
私たちは名門貴族のヴォジンスキ家であることをあなたはお忘れなくと結んでいる。
しかし、ショパン家も実は、フレデリックを守るために手を尽くしていたのである。
マリアにショパンが贈った小さなアルバムは実は姉ルドヴィカが書き写したものだった。フ
レデリックの自筆譜を姉ルドヴィカが守ったのだ。マリアにショパンが贈ったことになって
いる楽譜はルドヴィカの模写であった、マリアへと書いた金文字もルドヴィカの筆跡であっ
た。(これは後年1910年出版された。)
ショパンはこれを最後にヴォジンスキ家との異常な関係に終止符を打ち、
ヴァジンスキ家からの手紙の一部を束を封印した。ヴァジンスキ夫人とマリアからあまりに
も心が傷つけられた文章はショパンは燃やしたと伝えられている。
ショパンはこれを機に次へとモードを変えることになるのだ。
奪い奪われ、そして破局への精神と肉体そして経済的ダメージがショパンを惑わせ、もう後
戻りはできないショパンだった。
ショパンの家族は、ポーランドで生きているがフレデリックはポーランドに帰れないことは
決定的であった。
思い返せば、1836年夏、ヴォジンスキ家とボヘミアで再会し、9月ドレスデンで婚約さ
せられたことになっていた。
ショパンはドレスデンからパリに戻ると、芸術家の集まるカフェで、フランツ・リストなど
友人から、婚約の祝福を受け、ヴォジンスキ夫人に先手を打たれてしまっていた。
その時、ヴォジンスキ夫人のさしがねの貴婦人が、近づいてきて、「ショパンさん、私から
も、ヴォジンスキ家のマリア様との婚約のお祝いさせてくださる?」と言った。
ショパンは「結構です。あなたには関係ありません!」と、我慢ができず拒絶してしまった。
その貴婦人こそが、ジョルジュ・サンド(1804年7月1日~1876年6月)だった。
サンドは、男性の服を着こなす、ショパンは好きになれなかった。彼女はフェミニスト。
1836年の冬ショパンは喀血。結婚は延期。その後、マリアからの手紙も途絶え、母ヴォジンスキ夫人から「婚約破棄」の手紙が既に届いていた。
1837年3月にヴォジンスキ家と破局したフレデリック。その、すぐ後の3月末からサンドからショパンはあれこれ指図されるようになった。
パリ凱旋門19世紀頃