ℱ・ショパン≪屈辱の現実と沈黙の別れ≫
1830年10月12日、ワルシャワ。 昨夜の告別演奏会の熱狂が冷めやらぬ中、フレデリック・ショパンは親友ティトゥスへ向けてペンを走らせていた。
その文面は、一見すると華やかな成功の報告だった、しかし、その行間には占領下という歪んだ現実が生んだ、生々しく屈辱的なエピソードが刻まれていたのだった。
フレデリックは冷静な事実をティトゥスに話しながらも、自分の激しい感情を押し殺しながら書簡を綴った。
~コンスタンツィアとの「沈黙の別れ」~
それは、フレデリックにとって屈辱的でさえあったジエリンスキーの言葉だった。
ジエリンスキーは、コンスタンツィアの歌声に「1,000ドゥカートの価値がある」と言い放った人物。
「1,000ドゥカートの価値」と告げた男:ジエリンスキー
「低音Bの音だけで1,000ドゥカートの価値があると断言した」とショパンに告げに来た人物は、ジエリンスキー(Zieliński)という男です。彼は単なる友人ではなかったのだ。当時のワルシャワで音楽や芸術家のパトロンと関りがあった「目利き」のひとり。
フレデリックにとってコンスタンツィアは「神聖な理想(Ideal)」であり、その歌声は魂の響きでした。しかしジエリンスキーは、それを「金銭的な価値」で測り、あたかも高価な商品のように評価した。
フレデリックは彼女の才能が認められたことは嬉しい反面、彼女の純粋な美しさが「ドゥカート(当時の金貨)」という生々しい単位で語られることに、強い違和感と嫌悪感を抱いていたのだ。
そして彼女が「ロシア人に売られてしまうのではないか」という不安の背景には、当時のポーランドが置かれていた「占領下の歪んだ現実」が影を落としていたからだった。
「ロシア人に売られる」という恐怖の正体
フレデリック・ショパンが最も恐れていたのは、コンスタンツィアがその素晴らしい才能ゆえに、帝政ロシアの支配層(サンクトペテルブルクの宮廷など)に見初められ、連れ去られてしまうことだった。
当時のポーランドはロシアの支配下、才能ある歌手や芸術家がロシアの権力者によって強引に事実上の「献上品」としてロシア本国へ送られることは珍しくなかった。
この政治的背景により、ロシア人の高官たちは、ワルシャワの歌劇場を一種の「スカウトの場」として見ていたのだ。
フレデリックの焦りは、自分がワルシャワを去らねばならない時期に、彼女がロシア人のパトロンの目に留まり、金銭や地位と引き換えに「買われる(契約させられる)」ようにして異国へ連れて行かれる……。フレデリックにとって、それは恋人を奪われるだけでなく、ポーランドの至宝が敵国に奪われることを意味していたのだ。
ジエリンスキーが楽屋にやってきて、興奮気味にこう言った時のことを想像してみると、この背景の残酷さが浮かび上がるのだ。「フレデリック!聴いたか、あのコンスタンツィアの低音Bを!あれだけで1,000ドゥカートの価値があるぞ。ロシアの伯爵たちが見逃すはずがない。彼女はすぐにでもペテルブルクへ『売れて』いくだろうよ」
フレデリックは、社交的な微笑みを浮かべながらも、内側では怒りと悲しみで身を震わせていた (彼女を金で測るな。彼女は物ではない。そして、私の……私の理想なのだ)
そう心で叫びながらも、「そうかもしれませんね・・」と冷静を装うフレデリックだった。
~「1,000ドゥカートの価値」と告げた男:ジエリンスキー~
ショパンがティトゥスに話した「低音Bの音だけで1,000ドゥカートの価値があると断言した」と記した人物は、ジエリンスキー(Zieliński)という男だ。
彼は単なるフレデリックの友人ではなく、当時のワルシャワで音楽や芸術のロシアのパトロンと繋がりがある「目利き」のひとりだった。
ショパンにとってジエリンスキーは、表面上は自分の音楽を理解してくれる知的な仲間だったが、この時の彼の言葉は、フレデリックの心に複雑な棘を刺した。
フレデリックにとってコンスタンツィアは「神聖な理想(Ideal)」であり、その歌声は魂の響きなのだ…
しかしジエリンスキーは、それを「金銭的な価値」で測り、あたかも高価な商品のように評価し、しかも出番前のフレデリックに話しかけたのだ。
演奏会は順調のように見えていた。
「このアリアの後、私はアダージョとロンドを演奏しました。それから休憩に入り、私は友人たちと軽食をとりました。」
しかし、この平穏そうに見えた休憩時間の裏側では、フレデリックの誇りを傷つける出来事が忍び寄っていたのだった。
~回想、白いバラの歌姫と「1,000ドゥカート」の影~
後半、舞台はイタリア人指揮者ソリバによる『ウィリアム・テル』序曲で華やかに再開した。そして、ついに彼が「理想(Ideal)」と仰ぐコンスタンツィア・グラドコフスカが舞台に登場した。
「彼女は白の衣装を身にまとい、髪にはバラを挿していたが、それが実に見事に彼女に似合っていた。」フレデリックはティトゥスに語り続けた。
ベルリーニの悲劇的なアリア “O quante lagrime(ああ、どれほどの涙を流したことか)” を歌う彼女は、フレデリックにとって聖なる存在なのだ。
しかし、その歌声が終わった直後、知的な仲間の一人であったはずの、ジエリンスキーがフレデリックに放った言葉は、あまりに卑俗で残酷なものだった。
「ジエリンスキーはそのB(低音)だけで1,000ドゥカットの価値があると断言した。千ドゥカートの価値がある。」
この言葉は、フレデリックの心に鋭い棘を刺した。
ジエリンスキーは、コンスタンツィアの魂の響きを、金貨という単位で測って見せた。
当時、ロシアの占領下にあったワルシャワでは、才能ある女性歌手がロシアの高官や宮廷に「商品」や「献上品」として見初められ、サンクトペテルブルクへ連れ去られる(売られる)という現実があったからだ。
ジエリンスキーの言葉は、彼女がいかにロシア人にとって「高値で買い取られる価値があるか」を告げたも同然だった。
~冷笑と屈辱の「利益」~
フレデリックは、この屈辱を、痛烈な皮肉を込めてティトゥスに報告したのだ。
「このアリアは、彼女の声に合うように移調されたものであり、それによって大きな利益を得たことをお伝えしなければならない。」
彼女の声が最も美しく響くように苦労して移調をフレデリックが施したことが、結果として「商品」としての価値を高め、ロシア人への格好の宣伝材料になってしまったというのだ。
自分が愛を込めて手助けしたことが、彼女が奪われる可能性を広げてしまったという、耐え難い無力感に苛まれたフレデリックだった。
ショパンが「舞台で緊張しなかった」真の理由は、ここにあった。
愛する人が目の前で金に換算され、敵国に奪われるかもしれないという戦慄。その切迫した危機感に比べれば、舞台で弾くことなどフレデリックにとってはもはや些細なことに過ぎなかった。
~ポーランドの魂を抱いて~
「グラドコフスカ嬢が舞台から退場した後、私たちはポーランドのポット・プーリを演奏した。」
彼女が舞台を去った後、フレデリックは独り、鍵盤に向かわなければならなかった。
それは故郷の土着の旋律を編み込んだ、祈りのような幻想曲だ。フレデリックは 、ジエリンスキーが付けた金銭的な価値も、ロシアが及ぼす支配の影も、すべてを鍵盤の響きで塗りつぶそうとした。フレデリックは、金で値踏みされた彼女の残り香が漂う舞台で、ポーランドの民謡を弾き続けた。
書簡を書き終えたフレデリックは、静かに窓の外を見つめていた。
昨夜の成功は、華やかな旅立ちであると同時に、愛する人を救えないまま故郷を去る、ひとりの青年の痛切な別れの儀式でもあった。
その晩、フレデリックはこの屈辱は生涯忘れはしないと何度も神にそして心に誓った。
何度も何度も、繰り返しその光景が思い出され苦しむフレデリックだった。
この屈辱と無力感。 自分がワルシャワを去れば、彼女を守る者は誰もいない。彼女はあの美しい白の衣装のまま、バラを挿した姿のまま、ロシア人たちの愛玩物として「1,000ドゥカート」で売られていくのではないか…・
ティトゥスの報告の最後には、フレデリックは自分に言い聞かせるように「成功した」と書き終えたことになっているが、しかしその行間には、最愛の人が「商品」として扱われるのを黙って見ているしかなかった、フレデリックの屈辱が、生涯消えない傷跡として刻まれていたのだった。
ジエリンスキーが付けた「1,000ドゥカート」という値札、ロシアの支配層の不気味な視線、そして彼女を守れない自分の無力さ。
書き終えた書簡を折り畳むフレデリックの胸には、成功の喜びよりも、剥き出しの現実に対する冷めた怒りと、悲痛なまでの決意が宿ってた。
ショパンのこの冷笑的で痛切な報告は、彼が単なる「繊細な音楽家」ではなく、占領下の厳しい現実の中で、愛する人を守れない自分の無力さに苦しむ「ひとりの青年」であったことを物語っていた。
それらは、フレデリック・ショパンが後に単に「繊細な詩人」と呼ばれるようになったことすらが皮肉に映ってくるのだ。愛する人を「商品」として値踏みされるという占領下特有の屈辱を味わい、それを音楽への強固な意思に変えてポーランドを旅立ったフレデリックであったからだ。
この屈辱と不安が、彼をワルシャワから押し出す最後の一押しになったとも言えるかもしれない。
~舞台袖のジエリンスキーと歌うコンスタンツィアに1,000ドゥカートの影~
イメージ画像:この画像はコピーガードが施されています。