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癒奏術・響庵

山羊座新月の罠

2026.01.15 11:17




山羊座の新月は、実は昨年12月20日と今年の1月19日と「二回」起こることになる。

ここで「大局」を見ず「目先」の出来事に振り回される人は確実に『罠』にはまる。


昨年末の山羊座新月は

「芝を刈る太った少年」

これは「射手座」の最終度数


つまり

「理想の実現のために余分なものを排除する」

という射手座の「理想」と山羊座の「実現」という「リアル(実現可能)」な理想であり、そのために「断捨離」を始める・・・・といったようなものである。


それが、今年になっての山羊座の新月は

「茶葉を読む女性」

ここだけ(この枝葉だけ)見ると「出がらし茶葉占い」と『読む』。

だが、全体の流れを見れば「茶葉はもはや出がらしなので必要ない」と『読む』。



その後、2月2日に獅子座満月

「表現の機会を待つ人間の魂 」

自分に回帰したものだけが自らの「魂」を表現できる。

そういった者がチャンスやタイミングを待ちながら「機会」をうかがっている状態である。

様々な不要なものを「捨てて」自分を「純化」させ得た者・・・・

ゆえに獅子座の完成形という満月である。

ちょうど日本は「衆議院選挙」

「魂の表現」がなされているかいないか・・・・

それが大きな分け目となる。




そして大局は2月17日の水瓶座新月へと向かう。

「さなぎから出てくる蝶 」

魂に回帰した自己の誕生である。



次に4日後の2月21日に海王星と土星が牡羊座へ移行する。

「海から上がったばかりの女性をアザラシが抱いている」

子宮から「生まれたばかり」でもあり、魚座の領域である「夢(海)」から「現実(陸)」へ上がったばかり・・・ということでもある。

海王星と土星という「夢と現実」を魂に刻んだ「羽化した蝶」の羽が「ようやく乾いて飛び出したところ」という流れである。



次に3月3日の乙女座満月は

「政治運動を制圧する強い手」

ここで再び世界は縦に歯車が回る。

だがそれは「過去の因習」を捨てた者にだけ得られる力

「出がらし茶」を再び飲もうとする者には訪れない。




3月19日の魚座の新月は

「プリズム」

牡羊座の「始まり」に向けて漠然としたものが明瞭になる。

多様性への回帰・・・

本当の「多様性」とは「自由」であり「差異」であり「差別化」である。

自分は他人と「同じ」ではない・・・

それは「同一性」を求め続けた幾千年の終わりでもある。




次に4月2日の天秤座満月は

「しゃぼん玉をふくらませている子供たち」

すぐに割れてしまうものを一生懸命割れないように膨らませている。

だがなかなかうまく大きくふくらまない・・・・

新たに得た自由と希望をふくらませてはいるが、すぐに割れてしまう。

子供のようなせっかちさで何度も何度も、しかし楽しみながらふくらませている。

天秤座での満月であり、だから「バランス」をとる基がしゃぼん玉のように「はかない」のであろう。



そうして4月17日の牡羊座の新月という「始まり」は

「演奏に落胆させられた大聴衆」

『大局』という大きな流れから外れた多くの人々が陥る時である。

つまり、断捨離できず、自己に回帰せず、過去を引きずり、生まれ変われず、自由を得られなかった多くの人々が、ここにきてようやく自分の選択の「間違い」に気付く。




すでに『罠』にはまっている人を多く見る。

その多くは「茶葉の読み違い」である。

その「読み違い」はそれ以前からの「自己への回帰」に向かう大いなる流れ・・・

「大局」を見ていないからである。


目先の出来事に振り回されているのは、自分の中に「軸」が無いから。

右往左往しながら「目先」の変化に慌てて対処するからである。

大局は「対処」でどうにかなるものではない。

大局とは「波風」ではない。

もっと深くにある「潮流」である。




ちょうどニュースで出ていたが「公明党と立憲民主党が合流して新党を立ち上げる」とのこと。

これがいい例である。

出がらしの紅茶と出がらしの緑茶を混ぜても「新しいお茶」にはならない。

結局は出がらしでしかないのである。


大局を間違えて目先の小さな波風に慌てて飛び乗るサーファーのように、沖合から来る「大波」を見落としているということである。

そうしてやがて桜の頃には「落胆させられた大聴衆」となるのである。




二度の「山羊座新月」はちゃんとすべきことを教えている。

「芝を刈る太った少年」で「断捨離せよ」と教え

「茶葉を読む女性」で「だから出がらし茶葉を捨てよ」と教えてくれている。


天王星双子座期の7年は「波風」がやたらと立つ時間となる。

だから目先の「波風」に囚われず、深い「潮流」を見なければならない。



自分の魂の火が「羅針盤」となっていれば、迷うことなど何もない。

だがそんな「軸」が無い者は右往左往する時間を過ごすことになるだろう。

そうして出がらし茶葉を合わせて、いずれ「落胆」させることになるわけである。


「波風」ではなく「潮流」と人の動きを合わせ見ればよくわかる。

波風に慌てる人は「しゃぼん玉」のよう泡(あぶく)で嵩ましてバランスをとる。

潮の流れに乗る人は、波風立つ中でもゆったりと船を進め行く。


自分を変えず、だから新しくなってゆくのである。



ゆえに「自分」とは何であるか?

と問うのである。