にゃんにゃん探偵チャーリーの冒険 ~ファクト・第3話『ラッセルのパラドクス』~
『世界を正確に記述してください』という課題が出たとします。今や誰もがスマホを持っている時代ですから、自分が認識したもの、知覚したものを順番に写真に収めていけば、原理的には、そのスマホの中に(少なくとも自分が認識した)世界が記述されていくはずです。
それは、いわば世界の箱庭だと言っても過言ではないでしょう。
ところが、その〝世界を正確に記述したはずの箱庭〟には、どうしても写り込まないものが一つあります。
それは、撮影者である自分自身です。
「それなら自撮りすればいいのでは?」と思った人も多いでしょう。しかし、ここで求められているのは、あくまでも『世界を正確に記述する』ことです。そうであるならば、〝自撮りをしているその瞬間〟も、記述の対象に含めなければなりません。
では解決策として、もう一台スマホを用意し、自撮りをしている自分を撮影したとします。けれど次に問題になるのは、〝自撮りをしている自分を、もう一台のスマホで撮影しているシーン〟です。それもまた記述しなければならない。さらにもう一台、さらにもう一台……と、話は終わりなく連鎖していきます。
この思考実験が示しているのは、要するにこういうことです。〝私の存在は語りえない〟。言い換えれば、〝自己言及は原理的に成立しない〟ということになります。そう考えると、自己言及にまつわるさまざまなパラドクスも、そもそも〝意味をなしていない〟、つまり問題として成立していないのではないか、という見方が出てきます。
有名な命題に「私はウソつきです」というものがあります。しかし〝自己言及はできない〟という立場に立つならば、この文からは「私」という要素を取り除かねばなりません。そうすると残るのは、「ウソつきです」という命題だけになります。これであれば、〈真〉か〈偽〉かを検証する余地が生まれます。
たとえば、「高市早苗はウソつきです」という命題については、〈真〉か〈偽〉かをめぐって議論することは可能です。実際、政治の世界では、その言葉と行動の対応関係がしばしば問題になります。つまり、客観的事実として高市早苗はウソつきであると周知されているので、「高市早苗はウソつきです」は〈真〉の命題となりえます。
では、「政治家はウソつきです」という命題はどうでしょうか。中には正直な者も(おそらく)いるでしょうから、少なくとも単純に〈真〉とは言えそうにありません。
先日、通常国会の冒頭での衆院解散が表明されました。言葉と現実の対応関係が怪しい政治家や政党にどう向き合うのか。それは、これからの「世界の描き方」を考える上で、案外まじめな問題なのかもしれません。 あっ、どうも、岩崎(チャーリーの飼い主)です。