ピアソラ演奏『ブエノスアイレスのマリア』
逆立ちしてこそ
見えてくる世界が
760時限目◎音楽
堀間ロクなな
幼いころ、地球は丸いと聞いて、じゃあ、こちらと反対側の国の人々は逆立ちして暮らしているのだろうと考えた。まったくもって無邪気な発想だが、いまになってみると、南半球の世界について何がしかの真実を突いていたのかもしれないという気もしてくる。
たとえば、アストル・ピアソラの『ブエノスアイレスのマリア』だ。アルゼンチン・タンゴの改革者が「オペリータ(小さなオペラ)」として発表したこの作品は、1968年5月の初演直後に同じメンバーでスタジオ収録された録音が残っている。それを耳にすると、あの偉大なバッハの『マタイ受難曲』(1727年初演)が逆立ちしたような印象を受けるのはわたしだけではあるまい。
小さなオペラとはいえ、二部構成の全16曲からなり、男女2人の歌手と1人の語り手、ピアソラのバンドネオンと10人の楽器奏者によって演奏され、トータルで約1時間半を要するレッキとした大作だ。その主題は『マタイ受難曲』と同じく、人類にとっての救世主の意味を問いかけるものだが、しかし、こちらにはイエス・キリストが登場しない。ヒロインのマリアはなんと、聖母マリアと「罪深い女」マグダラのマリアを合体させたような存在で、そんな彼女を娼婦やら盗賊やら精神分析医やら有象無象の連中が取り巻き、なかでもいちばん前面に立ってわがもの顔にドラマを進行させていくのが小悪魔という塩梅なのだ。
その小悪魔は、マリアの誕生についてこんなふうに告げる。高場将美訳。
彼女はやってきた、
あの場末のむこうの次元から。
そこで希望にたどりつくのは、
踏切りと一本の道、鐘、星が三つ、
うすぐらいバルコニーに泣きはらした眼、
サッカーのゴール、小さな広場……
朝のないミサのあわてない太陽、
そして隣人たち、そして野鳩たち、
スカートをからかう若者たち数人、
それからもうひとつの煙ともうひとつの悩みと
もうひとつの来ない列車をもったプラットホーム、
お通夜、女郎がひとり、酒屋がひとつ。
彼女はたちまち堕落して暗黒の人生をさまようが、地下の下水道にハマってあっけなく死んでしまう。すると、イエスよろしく復活を遂げるのだが、それはマリアの影でしかなく、しゃがれ声でこんな歌をうたう。
ブエノスアイレスにて、
わが悲しみのすべての4月
わたしの町に影をくれ雲をくれる
愛する樹といとしい煙突によせて、
わたしの苦しみは、同じ根から生えた
別の十字架の苦しみを発明した……
まるで北半球のキリスト教信仰を蹴飛ばすかのごとき、このグロテスクなドラマは何を訴えかけようとしているのだろう? そのあたりの事情は、同じアルゼンチン出身の作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが発した〈ウルトライスモ(超絶主義)宣言〉(1921年)が解き明かしてくれそうだ。
「二つの美学が存在する。鏡の受動的な美学と、プリズムの能動的な美学。前者に導かれて芸術は、環境もしくは個人の精神史の客観的な模写となる。後者に導かれて芸術は、みずからを救い、世界をその道具とし、空間と時間という牢獄から遠く隔たったところで、独自のヴィジョンを創出する。これが〈ウルトラ〉の美学である。その意志は創造にある。宇宙に思いもよらぬ切り子面を刻むことにある」(鼓直訳)
すなわち、この言説にしたがうなら、『マタイ受難曲』は鏡であり、そこから空間的・時間的に遠く隔たったところで『ブエノスアイレスのマリア』はプリズムとして成り立ったということになるのだろう。かくして、マリアの影は小悪魔から授かった精子で受胎して、建設中の鉄筋コンクリートのビルの30階で赤ん坊を生み落とすものの、それはイエスではなくもうひとりのマリアだったという、文字どおり「独自のヴィジョンを創出する」結末に至るのだ。ピアソラのバンドネオンが主導するタンゴのめくるめくリズムにのって、街の人々はうたい交わす。
娘はもうひとりの娘を持った
それは彼女自身でもあり、それほどでもない
ふたりは最後と最初をもとめている
同じ涙のしずくになりたいと。
娘の眼の中に
時はたっぷり盗まれている。
昨日のために、明日のために
みんながマリアと名をつけて
果たして、人類の前に救済者は現れるのかどうか? その答えは、われわれも逆立ちしてみれば見つけられるのかもしれない。