説教 20260118創世記50章15-26「人の思い、神のみ手に生きる」
聖書
ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。
「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」
これを聞いて、ヨセフは涙を流した。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。なたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、エフライムの三代の子孫を見ることができた。マナセの息子マキルの子供たちも生まれると、ヨセフの膝に抱かれた。
ヨセフは兄弟たちに言った。
「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」
それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。
「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。
説教
創世記は神の言葉かけによる万物創造から始まりました。最初の人間の創造では神を裏切る原罪や兄弟つまり人間の間での殺人という罪が現れました。洪水物語では神の思いから離れた人間への裁きとして洪水という自然の猛威が描かれました。その後、いよいよ神から与えられた約束に従って生きる人間としてアブラハム、イサク、ヤコブが現れます。はじめ彼らはイスラエル民族の先祖である族長として描かれますが、やがて一民族の枠を越えて他民族ことにエジプトとの関係の中に置かれるようになり、ついに食糧援助という経済問題からこの地上の大国にのみ込まれざるをえなくなります。それがヤコブの子であるヨセフにまつわる歴史的な物語へつながっていくのです。しかしここで創世記の記述にある変化が生まれます。これまで創世記はヤコブまでは「土地を与え民を星の数のように大きくする」という神の約束を信じ、その約束によって生き、行動し約束に生きる族長たちの姿を描いてきました。しかしここヨセフを描くに至って創世記の筆致は大きく色あいの幅を変えるのです。不思議な夢を見てはその予言的意味を解くヨセフ。それはエキゾチックな異境的異国風な色彩を帯び、それかあらぬか兄たちの反感を買ったヨセフはほんとうに、はるか彼方のエジプトへと奴隷として売られてしまいます。この一少年ヨセフの思いもかけない家族からの離脱事件からその後のイスラエルの人々は他の世界と深いつながりを持たざるをえなくなります。エジプトの宰相という国家指導者の立場に就いたヨセフは、世界的飢饉という状況に食糧支援を求めて来たかつての兄弟たちについに再会します。ヤコブにも再会し彼らをエジプトに住まわせます。そして人生の最晩年にあったヤコブの最期を看取り、荘厳な葬儀をもって父をカナンの地に葬ります。ここに名指される「マクペラの畑のある洞穴」にはアブラハムと妻サラ、イサクと妻リベカ、ヤコブの妻レアがすでに葬られている代々の土地です。こうして最後の族長であったヤコブの人生は終わり、創世記の物語は終わるのですが、遺されたヨセフとその兄弟たちはイスラエル民族でありながら異国エジプトに定住することになります。そしてこの異民族としてのエジプトでの寄留生活は出エジプト記の12章40節によると430年続くのです。しかしこの長い寄留生活の後に、イスラエルは異境の中に苦しみを負わされ、ついに主なる神に導かれ脱出する民となるのです。
さて父ヤコブの死後、ヨセフの兄たちのどうしても気がかりとなる心配事が浮かび上がってきました。それは威厳ある父が死んだ今、エジプトの権力者となったヨセフがいよいよ自分たちに対して、過去に自分たちがした悪事の復讐をしてくるのではないかという不安でした。自分たちに棄てられ、エジプトの奴隷に売られてしまった恨みで今ヨセフが仕返しをしてはこないかというのです。そこでまず兄たちは人を介して伝えたのでした。仲介者を間に立てる。これは一般にもよくある方法です。直接に真向かいに顔を突き合わせて潔くひれ伏して詫び人間関係の修復を切り出すというのは良いようですが、時にそれが相手への圧力にも感じられてしまうものです。それも10人もの兄弟が。まるで詰め寄って迫るような様相にも見えます。兄たちは人を介して謝罪を伝えていました。しかもこの謝罪の前に父の言葉をまるで盾のように置きました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい』と。愛する父ヤコブの願いとして聞かされたらそれは受け入れざるをえません。これを聞いたヨセフの目に涙が溢れるのは当然でした。でもヨセフの深い思いの奥には、こうした父ヤコブの遺言のような願いに報いる人間同士の赦しよりもはるかに確かな赦しの決意があったのです。
仲介人の後にじっさいにやって来た兄たちに対してヨセフは、言葉にせずとも互いに気まずく思い浮かぶ「あの事」を、じつはそれがなくてはならなかった「神の決め事」として共有しよう、分かち合おうとするのです。それこそヨセフの心にあった揺るぎない赦しだったのです。彼はこう言います、「わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」わたしが裁けるでしょうか。あなたがたを懲らしめたり赦したりできるでしょうか。大事なのは神がわたしたちのどんな生き方をもを用いて、なおそれを越える大きな計画を、ほかならずわたしたちのために達成されることです。人と人とは互いに諍い、争い、あるいは修復や和解をしたりしますが、仰ぐべきは神の見えない計らいです、とヨセフは言うのです。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。神は人々の命の救いのため悪を善に変えてくださる。神の見つめるものを見つめよ、というのでしょう。
さらに「恐れないで」という言葉がその前後を挟んでいます。人間の敵愾心は「怖れ」や相手への恐怖心から始まり拡大します。怖れは確かめられないものや勢力、どう動くかわからない相手の動向に向けられます。フロイトは、人間の不安や恐怖は自分のエスつまり内面の無意識的欲望に目を向けないところから生じると言っています。恐れているうちにわたしたちは自分を見失い、怖れに動かされてしまいます。大事なことは自分のありのままを(逃げたい、認めたくないというのではなく)了承して、よく見れば恐れの対象にはじっさいには何の実体もなく威力もないことを知ることだというのです。
兄たちはこのヨセフが告げた「神の計らい」を知らなければ、最後まで自分たちをヨセフに憎まれる敵として自覚していたでしょう。自分たちの思いもヨセフの思いも超えて計画される神がいっさいの出来事や問題そこからくる苦しみの責任を負っておられることを知るとき、赦しはわたしたちを解き放ち、ほんとうに喜ばしい人間のつながりや共有の中に連れていってくれるのです。