「宇田川源流」【現代陰謀説】 解散になったら一斉に批判するマスコミ報道の怪
「宇田川源流」【現代陰謀説】 解散になったら一斉に批判するマスコミ報道の怪
金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。現代に生きる陰謀を、一般のニュースの中に出ている内容から抽出するということを行っている。もちろん、そうではない内容もたくさんあるのであるが、ニュースと関係のない内容をここに書くのではなく、あくまでも一般のニュースを注意深く見ていれば、普通とは違ったニュースの読み方ができるというような感覚を身に着けてもらい、ニュースを単純に受け入れるだけではなく、ニュースをもとに考えるようになってもらいたいと思っているのである。
もちろん特別なルートから得たネタをここに書いてもよいのであろうかと思うが、しかし、実際にそのような話をしても、それは読者の皆さんが自分で考えることができなくなってしまうということになり、それでは意味がないのである。
現在の日本は「スパイ天国」といわれる。
まあ、はっきり言って天国どころではなく、スパイそのものが最も多く様々な情報をいとも簡単に入るような場所になってしまう。まさに、そのようなスパイ天国をいつまで日本は放置しているのであろうか。
「自由」という言葉の中には、「FREE」と「LIBERTY」というような二つの意味がある。日本の場合は双方を包含して「自由」という言葉を使っているが、本来は「自由」と「勝手」とは全く異なる概念であることがわかっていない。その定義がしっかりしていない言葉を使っているので、いつの間にか「自由」が「無責任」と同義語になってしまっている。
責任のない仕事においては管理もおざなりになり、その管理がされていない情報は、それがいかに大切なものであってもそのことに関して、何らかの問題があるような状況にはならない。
そのうえ、日本人の場合は「最後に責任を取る人を決める」というような「詰め腹を切る」というような対応が一般的になっている。
単純に言えば、本来はプロジェクトがある場合、そのプロジェクトが始まった時、場合によっては計画段階で、その内容の責任者というのは決まるが、日本の場合「組織で対応する」などということを言い、その組織が失敗した場合は、全員に責任を分散させることができないので、中の「適当な人物」が責任を負うことになるのである。そのうえ、そのような時に組織の犠牲になって責任を取ることを日本人の場合「美談」というような感じになるのである。
実際は「責任者が責任を回避している」ということにすぎず、「組織そのものの信用が全くなくなる」もっと言えば「同じ指揮命令系統で仕事をする場合に、全くその信用性がない」ということになるのである。
それでもそのような「責任の所在が存在しない」無責任状態が、常態化し、その内容がそのまま存在するような状況になっているのだ。
<参考記事>
「今のままだとちょっと国民のことを置いていっているのかなーと」山里亮太、高市政権の「早期解散」に私見…「DayDay.」
1/15(木) 10:00配信 スポーツ報知
https://news.yahoo.co.jp/articles/4f175f063725d8970668273ae1c01cea5d2fc3fb
<以上参考記事>
現在のメディアは物価高対策や高市内閣の予算案を批判していたにもかかわらず、解散総選挙となると経済対策が先と言っています。賛同もしていない予算案であり、また予算委員会の委員長ポストが野党であって審議が進まないことが予想されるのに、解散に対しては経済対策で批判するのは非常に矛盾しています。このような矛盾っしても忠内閣を批判する報道は、中国の陰謀であるという説があります。
多くのメディア報道には次のような論理的不整合があります。
平時には「物価高対策が不十分だ」「高市内閣の予算案では国民生活は救えない」「財政規模が足りない、あるいは配分が間違っている」と批判していたにもかかわらず、解散総選挙が行われると突然、「経済対策を優先すべきなのに解散は無責任だ」「政治空白が生まれ、物価高対策が遅れる」という論調に変わる。
これは確かに、同じ前提に立てば両立しない主張です。
「評価していない予算案を、成立させないと困る」という論法は、論理的には破綻しています。さらに、予算委員会委員長が野党にあり、審議の主導権も野党側にある以上、仮に解散しなかったとしても、経済対策が迅速に進む保証はありません。この点を無視した批判は、政治プロセスの現実を踏まえていないと言えます。
では、なぜこの矛盾した批判が成立してしまうのか
ここが重要です。これは「誰かが裏で糸を引いている」必要はなく、メディア構造そのものから自然に生じる現象であるとしています。多くの日本の報道は、政策評価ではなく「その時点で政権にとって不利な論点」を中心に組み立てられます。
平時には「政策内容が不十分」が政権に不利な論点になり、解散局面では「政治空白」
「国民生活への影響」が政権に不利な論点になる。つまり、論理的一貫性よりも、批判可能性が優先されるのです。
これは編集会議で「じゃあ今回はどこを問題にする?」という発想が先に立ち、
「前回何と言っていたか」が二次的になるために起こります。
ただし、「中国の陰謀ではない」と言って終わりでは不十分です。なぜそう感じられるのかには理由があります。それは、
・論理的一貫性を欠く
・結果的に政権の足を引っ張る
・国益に資するように見えない
報道が繰り返されるからです。そのため、「これは外部勢力の意図があるのではないか」
という疑念が生まれる。
本質的な問題は、中国でも外国でもありません。問題は、
・政策の是非を評価する軸がない
・プロセス論だけで善悪を決める
・その場その場で都合のいい批判を採用する
という、日本の政治報道の知的劣化です。
そして、そのような知的劣化を起こしたメディアに、中国とだけは言いませんが、外国の全ての影響力が入ってきてしまっているということになります。まさに、それが陰謀なのです。まさに、日本は「利用されるだけされてしまい外国の影響を受けた意見を垂れ流す知的劣化の激しいメディア」でしかないのです。同時に、その劣化によって、各放送局や新聞の本社に中国の報道機関が入っているというようなことも出てくることになるのです。そしてそのような外国の勢力が入った陰謀論がSNSで言われることになるのです。残念ながら、それほど劣化した情報しか日本人は見えなくなってしまうということになるのです。