エッセイ2本立て:「ゆがみ」と社会人,二項対立
社会人と飲み/愚痴/ゆがみ/Twitterのやつ/隠すこと/社会性
質か量か/2つの変数/バランス/定数を動かすんじゃあない/単純化の罠/複雑の受容
ショートエッセイ回.最近,Twitterを見過ぎて集中が続かないので長い文章が書けなくなっている.由々しき事態である.
なお,この記事は根拠や出典が一切ない純粋な持論です.ご了承ください.
「ゆがみ」と社会人
私はまだしばらくの間は学生だが,中学・高校の友人の多くは次の春から狭義の意味での社会人となる.また,中学の友人の中には既に会社員として働いている者もいる.年に数回,皆で集まって遊んだり酒を飲んだりしているが,会社員として働いている人間の愚痴はすごい.何がすごいかというと,そもそも「社会人が飲みの席で仕事の愚痴を言う」という現象が本当にあったこと.
多くの人が,仕事というものを「金銭を得るために必要な工程」だと割り切っていると思う.だからこそあまり相性の良くない人間とも上手くやっていかねばならないし,気の進まない作業もこなさねばならない.日々の仕事でネガティブは蓄積し,偶の機会に放出したくなる.とても理に適ったメカニズムである.
さて,その愚痴の中には「ゆがみ」が存在している.ここで指すゆがみとは,「価値基準が極端であるために,特定対象への攻撃性が高いこと」である.これは私が勝手に定義しているだけなので一般性はない.「ゆがみ」は過去の苦い体験や辛い経験から発生し,それが転じて劣等感や歪んだ優越感などを生む.そして傍から見ると俗に言う"思想"として映る.
「ゆがみ」の例としては,Twitterにおける男女論争や受験・学歴界隈,政治アカウント,一部のよう分からんビジネスの人など,強い言葉を使う人たちが分かりやすい.これらは非常に極端な例だが,誰しもがあれらをもう少しマイルドにしたような「ゆがんだ」思想を持っていることと思う.
その向き合い方についてだが,隠すことが最善であるように考えている.油断していると零れ出てしまうので,理性を以て制するのである.男女論争の話題になれば相手の属性に配慮し,学歴の話題になれば当たり障りのない反応を示し,政治の話では碌に突っ込んだ話をしない.意思のある人間からすれば,他人に流されていて自分が無いように見えるかもしれない.しかしながら,人との関わりを円滑に行うことが社会性であり,それによって自らの立場を保っているのが社会人なのではないだろうか.社会人という語が何を指しているのかは個人的な回答が得られていないが,広義の意味ではそれが該当するのではないだろうか.
二項対立
少し前に,塾のボスや生徒から次のようなありふれた議題を得た.
受験勉強は質か,量か
誰しもが理解する通り,質の高いものを大量にやるのが最高である.しかしながらこの回答はあまり歓迎されない.なぜなら生徒が欲しがる回答ではないからである.多分生徒としては,『質が大切だから無駄に量をやっても仕方ない』とか『一日何時間やれば量として充分』とか,そういった分かりやすい行動方針を求めるのである.
質か量かに関わらず,二項対立は例を挙げきれないほど沢山あると思う.伝統vs革新,定量vs定性,帰納vs演繹...いくらでも考えられる.しかしそれは至って当然の事で,物事を方針づける重要なパラメータを絞りに絞った結果がその二項だからである.
先に挙げた例を見れば分かるように,それぞれ0でも100でもいけない.お互いバランスがあって丁度良いものであり,その内訳に個人差があるだけなのである.だからその二項を争わせることは,はっきり言って無駄である.
東進予備校の現代文の講師,林修先生が過去に言っていたことに,『数学を学ばないと,定数を動かそうとして無駄な労力を割く』という旨のことがある.関数にとっては変数が自由に動かせる部分,定数が決まりきっていて動かせない部分である.喩えるならば,紅茶の消費量という関数は,植民地国という変数と緯度という定数を持つ,みたいな.
誰もが数学をやるべきだとは思わないが,このような感覚を身に付けるにはやはり数学を知るのが手っ取り早い.最初の例で言うならば,受験勉強という関数は勉強量と学習の質からなる二変数関数である.
何か物を考えることは相当な労力を費やすので,普通の人はやりたがらない.そのため,人間が困難に出くわしたときに考えるのが,変数を減らして物事を単純化することなのだろう.物理や化学でもこれはよくあることである.しかし必要以上に近似を重ね,要るはずの変数を削ることは本質を見失うことに他ならない.したがって,複雑な現実を複雑なまま理解するのが大切なことなのである.
理想気体の状態方程式ですら四変数関数なんだから現実が二変数で済むわけがない
Phylmer.M