【内観】~鏡を磨いて曇りを晴らす
そもそも「自分」というものを知らなければ『以心伝心』はできない。
『以心伝心』というのは、自分の心の「水鏡」に他者の「心」が映ることである。
では『心』とは?
「思い」を映した「水」である。
様々な「思い」が「水」に映っている。
だがそれは「海」のように茫洋として、かつ広大である。
そんな「茫洋」とした海原から「波」の荒いものを拾い上げている。
もしくは「すぐ近く」にあるものを拾い上げている。
荒い波によって「見えない」ものがたくさんある。
波に気を取られて「見ようとしない」ものがたくさんある。
無数の「思い」がせっかくあるのに、波に邪魔されて多くが見えない。
だが、「波」と思っているのは錯覚であり、自分が惹きつけられている「思い」が「大きく」見えているだけで、本当は周りの様々な「思い」とおんなじである。
その「波」が「心の曇り」である。
だから「波」を『静める』のである。
それには心を注視している「自分」を、「自分の視線」をさらに俯瞰して見なければならない。
自分が「注視」している「視線」の先にあるものに、引っ張られているのも自分の「心」という「水」であり、本当に「波立って」いるのは『それ』なのである。
惹かれて注視するというのが「波」であり、その「波」も「海原」の一部である。
その「波」をほとんどの人は「自分の心」と思っている。
そんな「波」が『立つ』のは何故か?
記憶や、習慣や、身体の求めや、欠落した「何か」や・・・・
それらが「波」を湧き立たせ「続けて」いる。
「波」とは「思い」に反応して「立つ」のである。
だが、記憶や習慣や体の欲求や欠落が「常に」在ることで、『常時』その「波」が立っている状態である。
そんな「常時立っている波」に新たな「波」が立っても、『よくわからない』となるわけである。
ここまで書けばわかるだろう。
その『常時立っている波』を静めることが「曇り」を晴らすということである。
人は「常時立っている波」が「自分の心」であると思っている。
だがそれは海原の一部にすぎない。
それは「波」を静めた時に初めてわかる。
大海原で荒れるように立っている自分の「波」を静めた時、自分が「大海原」と繋がる。
それは「繋がっていた」ものが波によって「途切れていた」だけで、それ(一部であること)が復活するということ。
波のない海原・・・・
それが「水鏡」となる。
その海原で自分が感知し得る「思い」は無数にある。
自分が波立ち海原と「分離」しているからわからないだけで、波が静まれば「分離」から「一体」となる。
『以心伝心』
同じ「海原」にあるのだから「水鏡」に当たり前のように「映って」いる。
自分を海原から「分離」させているものは何か?
記憶か?
欲求か?
飢餓か?
恐れか?
悲しみか?
怒りか?
それらすべてか?
それを『知る』のが【内観】である。
それを知り、「自分」という『分離する波』を静めるのが「曇りを晴らす」ことである。
それを静めて、鎮めて、沈めなければ【天の眞名井】は見つからない。
大海原の真ん中で、湧き出続ける神の泉
それは「波立つ分離した心」では感知できない。
自分を常に「波立たせている」ものたちを『掃除洗濯』して、「自分」という【籠】に閉じ込めて「分離」させている「意識」そのものを片付けよ。
【籠】から解き放されれば、『後ろの正面』にある『泉』に気付くだろう。
それが「我」という根源の「魂」である。
大海原を大海原たらしめている一部である「泉」
それは「命の泉」
我という命の泉
その泉は『根源の泉』から湧き立つ「水」の出口
無数の「命」の『泉』が湧き立ち【大海原】となっている。
その「水」は海原で交じり合う。
そんな「水」が【心】である。
「波」という『我』は「分離」させる【籠】
静まった海原の「泉」という『我』は「以心伝心」する『交じり合う水』
泉から湧き出る「思い」の『泡』
そこにたどり着くために【内観】という『掃除洗濯』をするのである。