vol.177 「明治維新エピローグ」について
さぁさぁ、江戸時代に戻る戻る詐欺も、いい加減この辺で本当に終わりにしなければならない。しかし、袖触れ合うも多少の縁ってわけじゃないが、この幕末で軽く触れた人物たちの、明治維新後の行く末だけ簡単にまとめておこうと思う。史実を扱った映画のエンドクレジットよくある感じで。生き残ったメンバーのその後をサラッとね。
● 榎本武揚
明治5年(1872)「黒田清隆」の強い懇願による特赦で赦免された「榎本武揚」は、新政府に出仕し、北海道開拓を担う開拓使で実務に就いた。鉱山調査などを通じ、殖産興業の現場行政に携わっている。
翌明治6年(1873)ロシア帝国との領土交渉を担当する予定だった特命全権公使「澤宣嘉」が病没すると、その後任に榎本が抜擢された。明治7年(1874)3月に横浜を出航し、6月にサンクトペテルブルクへ到着した榎本は、ロシア政府と粘り強い交渉を重ねる。
その結果、日本が樺太の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島列島18島をロシアから譲り受けることで合意し 「樺太・千島交換条約 」が締結された。これは、明治日本が外交によって国境を画定した重要な成果であり、榎本武揚の再起と転身を象徴する出来事であった。
帰国後の 榎本武揚 は、外務大輔、海軍卿を歴任し、さらに駐清特命全権公使として北京に赴任した。現地では清朝の重臣「李鴻章」と交流を深め、「伊藤博文 」を交えた会談を重ねるなど、東アジア外交の要職を担った。
1885年(明治18)の第一次伊藤内閣では逓信大臣として入閣し、その後も文部・外務・農商務の各大臣を歴任。さらに1893年(明治26)には植民協会を設立し、メキシコへの日本人移民事業にも関与した。
軍人から外交官、政治家へと転身した榎本武揚は、1908年(明治41)10月に没し、最期は海軍式の葬儀で見送られた。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/07/25/193602
● 福沢諭吉
そんな榎本武揚のことを福沢諭吉は「函館まで転戦しておきながら、明治政府にのうのうと仕えるなんて最低だ」と酷評した。福沢には武士としての誇りがあり、明治政府の出仕依頼は断っている。また、福沢は「勝海舟」のことも激しく嫌っており、勝のせいで幕府は最低最悪の滅び方をし、この国から武士道が滅んだ、と思っていた。
1872年(明治5年)「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」で知られる「学問のすゝめ」を出版。「人には生まれながらにして上下がある」とする、儒教思想に由来した一般的な思想を覆し、人はみな平等であると主張して現代に至る人権思想の礎を築く。
その後も彼は、生涯にわたり学問の研鑽を怠ることなく、教育者としての立場から日本の近代教育の基盤づくりに力を注ぎ続けた。教育の普及と人材育成を使命とし、私財や労力を惜しまず教育支援を行った姿勢は、同時代の人々からも高く評価されている。
しかし、1901年(明治34年)、脳溢血によりその生涯を閉じた。この時点で、彼の主宰した慶應義塾はすでに大学部を設置し、総生徒数は千数百人を数えるまでに発展していた。その死は社会に大きな衝撃を与え、葬儀には一万人を超える会葬者が集い、長大な葬列が都の街を埋め尽くしたと伝えられている。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/02/02/114699
● 大久保利通
征韓論を機に、薩長土肥から土肥が下野させられ、薩長のみが突出。その後も大久保は自分のゆく道を塞ぐ者たちを何人も屠り、板垣退助が「薩長のみが人であるかのようだ」と嘆いた体制、大久保政権が出来上がる。政治では官僚機構の徹底化を、経済では殖産興業の推進を行った。
1878年(明治11年)5月14日早朝、大久保は福島県令「山吉盛典」に「西南戦争が終わって以後の10年は建設の時代だ。不肖この大久保が富国強兵・殖産興業を推し進める」といつになく熱く語ったあと、自宅を出る。それから数時間後、馬車で皇居へと向かう途中、待ち伏せしていた石川県の不平士族によって暗殺され、47年の生涯を閉じた。
目的のためならば敵を追い詰め、主君である島津久光を欺き、無用な内戦を引き起こし、友である西郷隆盛をも蹴落とす。テロリズムと謀略に満ちた手段で道を切り拓いた大久保利通、今日に至るまで冷酷と評価されるのは当然の帰結だろう。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/05/13/159190
● 木戸孝允
新政府内で「征韓論」の議論が持ち上がった際、木戸孝允は内治拡充の立場から反対するが、1874年(明治7年)に、大久保利通の台湾出兵に反対して参議を辞職。一度は政府に復帰したものの大久保利通と意見が対立しがちであり、体調悪化も伴って第一線からの後退を余儀なくされる。
下野後、薩摩に隠棲していた西郷隆盛が挙兵して「西南戦争」が勃発すると、病床で「西郷君、分かった。分かったから、いい加減にしないか」と呟きつつ病没。享年45歳。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/05/26/21355
● 伊藤博文
大久保利通が暗殺されると、伊藤博文が明治政府の中枢を担う人物になる。この頃、藩閥政治への反発から「自由民権運動」が高まり、国会開設と選挙政治を求める声が強まっていたが、伊藤博文は、急進的な立憲化を主張した「大隈重信」を政界から退ける。一方、1890年の国会開設を約束する詔を発表し、運動の過激化を抑えながら段階的な立憲体制への移行を図った。
1885年(明治18年)内閣制度を創設した伊藤博文は、自ら初代総理大臣に就任。薩摩・長州両藩出身者を中心に第1次伊藤博文内閣を組織すると、議会開設に備えた官僚組織の構築、市制・町村制の整備、小学校令から帝国大学令にいたる学校令の制定など、国家の基礎作りを精力的に進める。
だが、彼の女癖の悪さは有名で、しかも度を越していた。既婚者や幼い少女までも手を出したという。女遊びで散財しすぎて野宿状態になったものだから、首相官邸ができたとも。駿府の幕臣、斗南藩士、北海道屯田兵が食べるものすらない時代に、税金から出た給与で女遊び。民から好かれるはずもない。明治35年(1902年)発刊の谷越五郎『恋の伊藤博文』ではこう痛烈に批判されている。
「至る所にスキャンダルがある。よりにもよって神聖なる処女を汚して反省もしない。しかもこれは同意の上だと嘘をついているが、実際は強引に迫ってのことである。もうこれはハッキリと言えば性犯罪だ。ありとあらゆるところで純粋な女性を泣かせているばかりか、場合によっては既婚者まで強引に暴行する。それでいて開き直っている」
最終的には、韓国の活動家「安重根(あんじゅんぐん)」によって暗殺された。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/03/07/162515
● 黒田清隆
明治維新後には「開拓使」(北海道開拓のために設けられた省庁)の長官など、明治政府の要職を歴任。大久保利通が暗殺されると、薩摩藩出身者のリーダー的存在になり、のちに内閣総理大臣など明治政府の最重職を務めるが、酒癖が悪く、開拓使長官時代に酔った勢いで船に設置されていた大砲をいじって誤射し、付近の住民を死に至らしめたこともあるほど。
また、最初の妻が病死した際、実は酔った黒田清隆が殺したという話が新聞に掲載され、おそらく事実だったようだが揉み消したとされる。あまりに酒癖が悪いため、晩年は同じ薩摩藩出身者からも敬遠されるようになり、黒田清隆が他界したとき、榎本武揚が葬儀委員長を務めたのも、薩摩藩の人々が誰も引き受けなかったためという。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2025/08/24/163041
● 五代友厚
自由民権運動で明治政府が揺れるなか「開拓使官有物払い下げ事件」 が起こる。開拓使は北海道開拓の礎を築いた事業ではあったものの、明治政府の深刻な財政難から1882年(明治15年)に廃止されることが決定。開拓使長官の黒田清隆は、開拓使の事業が廃止以降も継続できるよう、官営工場などを民間に払い下げることに。
その払い下げ先となったのが、黒田清隆と同郷の五代友厚の「関西貿易商会」。しかも払い下げの価額が極端に安いものだったため、黒田が五代を優遇しているとして、複数の新聞社が批判的に報じた。この問題は、国民の藩閥政治に対する不満と相まって、大きな汚職問題として扱われ、明治政府は国民から批判の的となった。結果的に彼は功績よりも、この事件による汚名が印象に残る人物となり、教科書にまで反映された。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2025/08/24/163041
● 渋沢栄一
この男も好色で有名で、妾の数はハンパでない。しかし幸運なことに、そのスキャンダルは伊藤博文や井上肇の影に埋もれ「あいつらよかまだマシ」というポジションにあった。かつ、渋沢には絶大な財力があったため、ある程度ジャーナリズムまで支配下におき、世論操作にも長けていた。
嘘をつくときは、ほんの少し真実を入れるとよいとされる。私は聖人君子じゃありません、美女は好き……そう告白すれば、世間はそれ以上突っ込もうとはしない。そんなカラクリを利用し、渋沢自身「女性関係では恥じるところがある」とおおっぴらに認めている。渋沢の女性関係の話は、ユーモア混じりで語られていることが多い。女性の嘆きは笑い話になる時代だからこそ、問題にはならかったのだ。
その一方で、本当に隠蔽したかったであろう天狗党関連については口が重く、大正時代の最晩年にならねば追悼すらしていない。
そして今や、現代の万札の顔である。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/02/12/161964
、、なんかどれもロクな話じゃなかったww
だーから嫌なんですよ明治維新は。徳川を倒す!ってまでは夢ある感じのテンションで、こっちもつい釣られてまう感あるけど、いざ討幕したらいきなり内ゲバとゲスい話満載で、萎える萎える。
このエピローグでも、すごい魅力的な人物は結局いないし、やはり武士道が消えた後の世に美学はあんま感じられませんな。
ってことで、次回から古き良き(かどうかは知らんが)時代に戻ります。