弦に宿る影——パガニーニが愛した女性たち
2026.01.25 10:46
序章 黒いヴァイオリンと夜の噂
港町ジェノヴァの夜は、潮の匂いを孕んでいた。 石畳に染みた湿気が靴底に絡みつき、歩くたび、見えない重さが身体に残る。月は雲に隠れ、街は意図的に彼を秘匿するかのようだった。 ——悪魔と契約した男。 誰もがそう囁いた。青白い顔、骨ばった長い指、痩せた頬。その指がひとたび弦に触れると、空気は変質する。泣き、誘い、呪う——音は理性の壁をすり抜け、心臓の奥へ直接触れてくる。 ニコロ・パガニーニ。 十九世紀ヨーロッパにおいて、彼ほど愛され、同時に恐れられた音楽家はいない。 本作は天才の伝記ではない。 ひとりの男が、愛されることで壊れ、愛することでさらに壊れていった軌跡の記録である。 そしてまた、彼を愛してしまった女たちの静かな敗北と、ささやかな尊厳の記録でもある。 弦の震えは、いまもどこかで続いている。 夜の奥で、耳を澄ませば、きっと聞こえるだろう。 あれは音楽ではない。 人間のため息が、かろうじて形を得た残響なのだ。
第Ⅰ部 最初の光——アンジェリーナ・カヴァンナ
十八歳のパガニーニが滞在していたルッカで、彼はアンジェリーナ・カヴァンナと出会う。宿屋の娘。特別に美しいわけではない。だが、都市の女にはない澄明があった。 「昨夜の演奏……眠れなくて」 その言葉は喝采より深く、硬貨より重く、胸に沈んだ。音楽が、ひとりの夜を奪った——その事実が彼を震わせた。 逢瀬は慎ましかった。丘のオリーブの下、川沿いの細道。触れ合う指先だけで、心臓は壊れそうになる。彼女の前でだけ、彼は天才ではなく、ただの若い男でいられた。 やがて妊娠が発覚する。泣きながらの告白。結婚の誓い。だが貧困、周囲の反対、将来の不確かさが、ふたりを裂く。訴訟、賠償、別離。子の行方は記録に残らない。 残ったのは、彼の内奥に刻まれた亀裂だった。 ——愛するとは、幸福を与えることではない。 ——愛するとは、傷つける可能性を引き受けることなのだ。 アンジェリーナは歴史の中でほとんど語られない。だが彼女こそが、最初に彼の魂を震わせた「聴き手」だった。そして彼が終生、失い続けた「普通の幸福」の象徴でもあった。
第Ⅰ部 後半 別離——最初の断裂
法廷を出た夕暮れ、空は不気味なほど澄み切っていた。泣けなかった。痛みは感情ではなく、骨の奥に沈殿した異物だった。 ——私は彼女を愛していたのか。 ——音楽を捨ててまで、選べたのか。 答えは残酷に明確だった。選べなかった。彼女を裏切ったことより、「自分自身の本質を裏切れなかった」ことが、罪として重くのしかかる。 記憶の中で、彼女は実在から象徴へと変質する。手に入れられなかった幸福。壊してしまった未来。以後、彼の恋は常に比較と予感のうちに始まり、敗北の予感のうちに終わる。 彼は「距離のある愛し方」を学ぶ。踏み込まない。未来を語らない。代わりに、音楽だけを差し出す。それは献身ではなく、贖罪だった。 演奏の最中、彼は目を閉じる。陶酔ではない。音の中に、彼女を探していた。 甘美で執拗で、歪んだ旋律——それが、のちに人々が「魂を剥ぎ取られる」と語る演奏の根にあった。彼は誘惑していたのではない。喪失を、ひたすら弾いていたのだ。
第Ⅱ部 母の面影を追って——理想化の罠
名声が拡散し始めると、演奏会場には彼を「見に来た」女性が増える。視線の色は共通していた。 ——この人は、私が守らなければならない。 痩身、蒼白、咳、虚空を見つめる沈黙。天才の仮面をかぶった「傷ついた子ども」。彼は無意識に、それを演じていたのかもしれない。