偉人『空海(弘法大師)』
「弘法にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」「弘法大師の井戸」「弘法大師も高野山」「同じ弘法の弟子でも…」など弘法大師に関することわざや言葉を耳にすることは意外と多く、「弘法にも筆の誤り」は日常的に用いられ天才でも失敗するとの意味がある。昨日入室したばかりの生徒さんのお母様と話をしたのだが、初めて教室を訪れた日に玄関先に飾ってあったしめ縄が翌週には無いことに生徒さんが気付き、お正月にしめ縄を飾ることを行なっていなかったことが悔やまれたそうである。その話を伺って「この親子間の気付きこそ互いの成長を促すポイント」であると確信した。つまりこの親子さんは私がほんの少しの働きかけをすれば確実に伸びるぞという確信を持ったということである。つまり、お子さんは小さなことに気付く感性途中威力を持ち、お母様は我が子が気づいた些細なことをすぐに察する事ができる力がおありだ。そして何よりお母様ご自身が「しめ縄を飾っておけば、我が子に働きかけができた」とチャンスを逃したことを後悔されたことに私は安堵した。おそらく次はチャンスを逃さず間髪入れずに学びをキャッチし、お子さんに働きかけをする事ができるであろうと私は予想している。
というわけで今回は急きょ偉人記事を変更して自身の信じた道をまっすぐに実行した弘法大師こと空海を取り上げ、空海の人生を通して子育てにおける行動力の大切さ論じてみる。
空海は774年6月15日、讃岐国(=現在の香川県)の地方豪族の三男として誕生。幼名は「佐伯真魚(さえきまお)」といい、父は地方豪族であったため幼い頃から聡明な息子が都(中央)で活躍し大成してほしいと願っていた。そこで空海の母の叔父であり、桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父阿刀大足(あとのおおたり)を頼り15歳の息子を預けた。真魚は叔父から詩や漢語、儒教を学び、18歳になると狭き門を突破し無事大学に入学する。しかしそこは官僚養成所としての教育機関であったため、真魚は出世のための学びに心を満たすことはできず、自ら進むべき道は何かと自問自答する日々を数ヶ月送った。そして答えを出すのは意外と早く「困っている人を助けたい」という想いが強まりすぐに退学をしたのである。大学で学ぶものは論語・礼記などの儒教と律令国家の政治倫理などであり、当時の疫病の流行、飢饉の頻発、天災(地震・洪水)、政治の混乱が続き人々はいつ死ぬかわからない、努力しても報われない、国家の制度が自分たちを救ってくれないと不安の中にいたことを彼は痛いほど理解していたのである。空海はその儒教や律令の学びで人々は救われず、仏教の中にこそ人の生きる道や苦しみからどう解放されるのかという答えを見出せると考えた。おそらく空海の父は中央での息子の活躍を望んでいたのだから息子の行動を理解できなかったと容易に想像ができるが、空海は父を説得するためにこれからの時代は儒教よりも仏教が重要だと説き伏せたという。ここからが空海の困難苦難の道が始まる。
人は成長するためには必ずその人が乗り越えられる分だけの困難を与えられると私は確信しているのだが、そのことを空海に当てはめてみると困難苦難だらけの人生であったことは史実からしても明らかである。空海の困難苦難は一貫して「誰もまだ答えを持っていない道を後ろ盾なしで切り開き続けたこと」である。このことを念頭に以下のことを読み解いてほしい。
まず一つ目の困難苦難は、出大学を退学し出家した直後から始まる。フリーランスで身分も後ろ盾も属する寺もない孤独な私度僧だったため、生活の保障がなく正統な仏教学の場から外れており、山林修行を余儀なくされ放浪をしながら食うや食わずの独学に近い形で仏教を探究していたことである。まさに何かを探し求めて今できる精一杯のことを実行し続けた心の強さがある。
二つ目は修行の中での「限界」に直面したことだ。この時期の空海の修行は経典を読む、真言を唱える、苦行を積むなどであったがどうしても決定的な「悟りの体系」には至らず自分自身が求めているものが儒教とも道教とも既存の仏教とも異なり決定打に欠けると模索し続け「本当に人を救える仏教はどこにあるのか」と焦りがあり、ここが空海にとり最初の大きな聳り立つ壁だったのである。しかし空海は雨の日も風の日も歩き続け、食事も取らず百何回もの経を唱え、崖から身を投げ何かを掴もうと修行を実行し続けた。
三つ目は命がけの賭けの唐への留学である。804年30歳で遣唐使として唐へ渡るが、難破は当たり前の時代、空海が唐へ向かった時も4艘のうち1艘は沈み2艘目も航行不能となり日本へ引き返し、空海が乗っていた船も目的地からは遠く離れた場所へ漂着し、無事に辿り着いたのは最澄が乗船する船だけであった。更に空海の船は海賊船と間違われ拿捕されてしまったのである。まさに私度僧から狭き門を潜り抜けて遣唐使になったとはいえ命懸けであったことは困難に挑む戦士のようである。厳しい遣唐使選考を潜り抜け後ろ盾のない空海が選ばれたのには彼の能力の高さが際立っている。日本で漢語を習い始め長安に到着した時には通訳なしで会話が成立し、江戸時代には空海の書が三筆に選ばれていた事実もある。また拿捕された時には空海が書面を記し開放される道筋を立てる事ができたのである。
ここで少し余談を付け加えておこう。遣唐使節団は国家戦略であり遣唐使を選抜するにも厳しい選考が行われた。今で言うところの新アイドルグループのオーディションを行うようなもので、当時日本は中国から倭国と呼ばれ小さな国小さな人々という印象があり、それを払拭するために遣唐使の選抜には高身長で体格が良く、イケメンでなくてはならず、更に厳しい能力選考があり知識的もあり賢く教養に富み武芸も優っていることが条件であった。よって唐の国で日本人は容姿端麗で聡明な人物として捉えられていたのである。このような知識を持っていれば時かった角から日本の歴史も楽しみ、歴史の中に埋もれている事実が時に現代を投影できるものがある面白さに気付けると日本史は更に楽しくなるものである。
四つめは密教の正統継承者になるという難関である。長安で阿闍梨恵果に出会うが、密教は「誰でも学べる教え」ではなく、師が認めなければ継承できない。しかも恵果は高齢でこの教えを継ぐ者が現れないまま終わるかもしれないという切迫した状況であった。しかし空海は短期間で梵語を習得し、圧倒的理解力と実践力で恵果の弟子数千人を差し置いて恵果の教えを突破し信頼まで獲得し、師の言葉の通り真言密教の奥義を授けられたのである。ここにも大変興味深い話がいくつも残されているが、今回の論点からずれてしまうためチャンスがあればどこかで掘り下げたいと思う。
五つめは20年の予定で唐への留学を行わなければならなかったが、2年そこらで日本へ帰ってきてしまった。つまり唐での修行は長安の青龍寺の恵果によって認められいち早く日本で普及するように言われてのことだったが、空海がその期間を実行せずに勝手に帰国してしまい、尚且つ何の後ろ盾もなく無名であったために太宰府で留め置かれてしまったのである。持ち帰った真言密教が新すぎ、世界を表すとされる曼荼羅や悩み苦しみを焼き清める護摩が呪術的に見えることから怪しまれてしまった。しかしこの教えを自ら実践しこれまでの仏教での人は来世でしか救われないとしていたことを、この世で救われずしてなんの意味があろうかとと時続けた。人から理解されないということは大変辛いことであるが、そこに真実があるのならば必ずや道は開かれると確信していたのだ。つまりここにも彼は実行することに重きを置いていた。
六つ目は最澄との緊張的関係性である。同じタイミングで遣唐使になり当初は協力関係だったが密教理解の深さや師弟関係の考え方、教えの独占性をめぐって決裂し精神的にもかなりきつい局面を迎えている。私には二人の関係性が現代の日中関係にもダブって見えるのだが、実は最澄は漢帝国の末裔で国を逃れ滋賀に移り住んだ中国の血筋である。よって最澄は祖国の仏教というものに興味があり、複数の教えを広く学び天台宗を開いた開祖である。しかし空海は悟りはどこか遠くにあるのではなく、『今の自分の身体・言葉・行為の中にある』と発した考え困難苦難を経て得た境地である。その経典を軽々しく借り受けようとした最澄の行動に納得できなかったのではないだろうか。悪気はなかったのかもしれないが困難苦難の中を潜り抜け獲得したものを軽々しく借り受けようとするのは如何なものかと私でも思ってしまう。
最澄は一見上品で優雅な説法を展開していた人物であったが空海にしてみれば納得できなかった事が多く精神的に苦しい時代であったとされている。最澄の弟子泰範が空海に寝返ったのは情熱的でまさに実行の中からの悟りを導き出したことに深さを感じその行動からくる真実を見たからではないだろうか。
七つ目は一気に時代が飛んでしまうが、権力を持ち政治を我がものにしようとする権力者側に多くの僧侶がついたが、空海だけは権力もなく国の安泰を願うもの側につき国の行く末が後者の者たちに任されることになった。その行動を認めた嵯峨天皇より高野山を頂戴し開創し、東寺の整備し、国家鎮護の儀礼などを行う中で理想と現実の板挟みにあってしまう。国家事業と現実的プレッシャーの困難苦難を感じていたがそれでも自らの人生を賭けて行動を起こしたのが空海である。書物を読むだけで仏教を理解しようとした最澄とは異なり、空海は経典からの理解もし実際に行動を起こしたみの幸せ国の平安を願ったのである。空海と最澄は同じところを目指してはずである。現代で組織として大きいのは「天台宗」であるが分岐も多く、知名度・存在感で目立つのは「真言宗」と言われることからも空海と最澄の影を見る事ができるのではないだろうか。
空海は多くの困難苦難にあいながら出家しても安定はせず、学んでも確信に至らず、教えを得ても理解されない。それでも空海は「今この世界で人はどう救われるのか」というテーマから一度も逃げなかったことが真の強さとなっている。彼はその多くのことから悟りを開いた。悟りは命を全うした先にあるのではなく、自ら置かれている今という現状から悟る事ができるものであるとし、修行が苦しくても誰からも理解されずとも私の行なっているこの道は間違っていないと折れなかった。この世界そのものが苦でできているならば、苦しみは避けるものではなく理解すべきものだと考えたのである。だからこそ困難苦難にぶつかる度に嘆き悲しみ不平不満を言い、自分自身を理解せよと他者に詰め寄ることも諦めるものではなく、この困難苦難にこそ答えがあるはずだと思考と修行を深めていったのである。私も経験上目指すものは同じはずなのに言葉が通じない心が通じないという経験をしてきたが、その度に思うことは一歩引くということである。私の持つ子供の伸びる方法は確実にこれだというものがあるが、親御さんがそれを受け入れる余裕がなければその方法を半分以下に減らしてもまだ利があるという考えに落とし込むようにしている。それは自分自身の理想を押し付けても通じなければ通じるものだけを授けようということだ。空海も多くのことから迷いが生じ悩み彷徨った中から生み出した悟りの境地は現代にも多く通じる。私自身も先述したことは空海の悟りから学び自分自身に照らし合わせたことである。
空海が折れなかった理由は苦しみのただ中でしか意味を持たない真理を、自分の人生を賭けて掴んだからであり途中で投げ出す理由が見つからなかったからである。もし子育てや子供の教育面で苦労を感じているとするならば、私は空海のようにその中から精神的に何を掴むべきなのかを心で感じ、行動で実行するべきだと考える。もし今「変わらなきゃならない。」と感じ気付けば良い方向の兆しを掴んだことになるのではないだろうか。