「言葉とけんちん汁」
寒い日が続いている。
少し前までは、日差しも穏やかな日が続いていたのだが、
豪雪が戻ってきたところも多い。
この厳寒、この雪の中で、選挙か!!!
八百何十億もかけて、何を急ぐのか。
この人気なら、いまのうちに選挙しちゃおう、か? 身勝手すぎないか?
裏金問題も何ひとつ片付いてないまま、
先回の選挙では党の公認を手にできなかった面々までもが、
公認候補者として遇されている。傲岸な表情で。
これでいいのか、この社会は、この国は。
一方、子どもたちの貧困も続き、長い休みが続くと、
給食をとることができずに体重が減る子も。
保健室の教師は見過ごすわけにはいかず、
近くから菓子をたくさん買ってきて、子どもたちと分け合うという話を聞く。
子どもは国にとってどんな存在なのか?
「かつてと同じように、お国のための捨て石にする未来の兵隊か?」
現実の戦争は知らないが、終戦の年に生まれたわたしは、
失った手足をテカる木でつくり、筒袖の白い着物状のものを着たおじさんや青年が、
街の目抜き通りでアコーディオンを弾いたり、ハーモニカを奏でている姿は子ども時代にずいぶんと見た。
彼らの足元には、投げ銭を受けるザルが。
問題は、そこにいる手足を失ったひとだけではなく、そこに「居ることもできず」に、異郷で死んでいった兵隊たちの存在である。
その兵隊たちを父と、夫と息子と呼んだ女たち。
あの時代、多くの女は女であるがゆえに充分なる教育を受けることはできず、終身の職業につくことも難しかった。
セクシュアルハラスメントも、セカンドレイプも言葉がないから、「存在しないと同じ」ように扱われた時代だった。
言葉は言葉でしかないが、言葉の背景を考えると、時代が垣間見える。
米国での小さなディスカッション会議に参加した時だったか。
病院の看護師長(当時は婦長と訳された)は、患者を意味するPATIENTには「我慢強い」という意味がある。
そして患者はいつの間にか、まさに我慢強い受け身の存在として位置付けられる歴史が続いてきた。
だから、PATIENTではなく、医療サービスを受ける主体として、
医療の「消費者・コンシューマー」「カスタマー」と呼びたいという提言があった。
言葉が変わればそれでいい、とは思わない。言葉は言葉でしかないが、社会の構造を支え、
広範囲に広げる意味においては、言葉もまた無罪ではない。
今夜も寒そうだ。
たっぷりのけんちん汁をつくろう。明日の朝も食べよう。
翌日のけんちん汁やカレーは、うまいぞー。