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古民家ギャラリー懐古庵

史跡「御殿」の証し4(完結:家康の御殿)

2026.01.30 22:00

 今回の記事は、江戸時代初期に徳川家康が御殿を建てた歴史的経緯について、文献史料を参考に論証したいと思います。

1 はじめに

 徳川家康は、慶長8(1603)年、征夷大将軍となって江戸幕府を開くと、その僅か2年後、将軍職を秀忠に譲って隠居しました。

 それ以降、大御所家康は各地で趣味の鷹狩りを行っていますが、それは幕府の運営状況や諸大名の動向、又は農民達の生活実態を知る上で有効な手段でもあり、軍略に優れた家康にとって秀忠が一人前になるまで二元政治の役目を果たすものでした。

 家康は、江戸から京都の間に御殿(又は茶屋御殿)を50箇所くらい建設しており、駿府と江戸の往来や京都上洛時の宿泊場所でした。

 しかし、その殆どが元禄期までに廃止になり、現在、当時の面影を残す建物は存在しません。その訳は、

・将軍の江戸から駿府への往来や京都への上洛が無くなったこと

・将軍の鷹狩りをする風習が無くなったこと

・幕府の財政が悪化し、御殿の維持管理費が大変だったこと

・明暦期に江戸大火があり、江戸城再建などに資財が必要になったこと 等々

が原因だと言われています。

 御殿に関しては、家康の交通史を研究した歴史書や歴史地理学専門家で駒沢大学名誉教授だった中島義一氏が1977~1979年当時に発表された「御殿に関係する論文」が、大変参考になる史料だと思います。

 今泉の御殿は、鎌倉時代初期に源頼朝が富士の巻狩りの時に建てたとされる「御殿」にも関係しているし、江戸時代初期に家康が建てた「御殿」を駿河大納言(徳川忠長)が引継ぎ 頻繁に宿泊した記録が残されていますが、後に駿河大納言が幕府によって甲府に改易になった後、高崎に幽閉されて自害すると云う特殊事情が御殿取り壊しの経緯であり、他の御殿とは違った歴史背景を持っています。


2 徳川家康の瀬古御殿の存在

(1)御殿(御守殿稲荷神社を含む)に関する文献史料

 次の文献史料は、家康の御殿並びに駿河大納言忠長の茶屋御殿が江戸時代初期に存在した証しを裏付ける文献記述である為、纏めて整理しておきます。

(※文語体を口語体にして語呂も言い換えてあります。)

ア 駿河記

 御殿跡は、言い伝えによると家康が御上洛の時の御殿の跡であり、或(あるい)は駿河大納言忠長卿が駿府城から狩猟に出掛けた時の御殿の跡であるとの事。

※注釈【大納言忠長は、3代将軍家光の弟徳川忠長】

 村の口々(入口)には、御殿があったので木戸が残っていた。

 慶長政事録では、慶長14年(1609年)10月26日、家康が関東に行く時に善徳寺に到着したのは、この御殿であり、その頃に善徳寺は村名だった。

 また、元和3年(1617年)、家康の棺が久能山から日光山へ移る時、富士の麓(ふもと)の善徳寺に3月15日泊まる。 

(月灯りが綺麗だったのか~以下省略)

※ 家康公が駿府城に居た頃、江戸を行き来し、江戸将軍も駿府へ来た事が度々あったので宿場毎に御殿があり、今泉の御殿も、その頃の御殿で忠長の領土になっても家康からそのまま引継いだと思われる。


イ 駿河志料「文久元年」

 宝永3年(1706年)、能勢権兵衛が代官の時、この地に元駿河大納言御茶屋御殿があったのを取りこわして畑地にし、石高14石9斗余の土地にして御殿地跡と称した

 駿河大納言忠長は3代家光の弟であるが、大納言御茶屋御殿がいつ出来たかはっきりしない。この地が家康以来徳川の往還の旅館として数多く利用されている記録をあげると、

家忠日記より

 慶長14年(1609年)10月26日 大神君(家康)善得寺に御放鷹。

慶長政事録より

 慶長15年(1610年)10月15日 善得寺此路次鉄砲にて菱食を打せられ藤堂和泉守に給う、3日御逗留云々。

駿河記より

 慶長16年(1611年)10月7日 早朝御出、着御善得寺。

御帰路11月22日路次中御放鷹着御善得寺。

同 18年(1613年) 9月18日善得寺著御。

19日雨降。御滞留以鉄砲菱食2羽令連貫。

御帰路同19年(1614年)正月28日渡御善得寺。

等々から察して家康通過の折は、ここで狩などしたことがうかがわれる。

  元和3年(1617年)3月15日 家康の棺を久能山から日光に移す折、ここに泊まった記録もある。

(日光山紀行、扶桑拾遺集巻28)

(参考)

 先日、御守殿稲荷神社 新年祭の折、地元旧家の長老から、御殿と云う地名の呼び名について、先祖から「御殿を壊した時分からここの呼び名が御殿と言われるようになった」と聞いている 旨を伺った。

 文献と符合し、歴史的諸事情からか、かなり古くからこの地域では「御殿」が地名になったと考えられる。


ウ 昭和56年5月9日、故奈木盛雄先生の講演資料

 瀬古村は、建久4年(1193年)源頼朝の富士の巻き狩りで勢子として出されたことから村の名が出来た。

徳川家康は、

慶長14年(1609年)

 善得寺で鷹狩りをする。

慶長16年(1611年)

 善得寺で銃を持って鶴を撃つ。

元和 元年(1616年)

 江戸城の帰途、瀬古善得寺に1泊する。

元和 3年(1618年) 

 家康の棺、久能山から日光に廟所を移す時に善得寺に泊まる。

 駿河大納言忠長は、寛永2年(1625年)~9年(1632年)の間、御茶屋御殿に御座の節、御殿の鎮守として稲荷神社を勧請(かんじょう)した。

※注釈【御殿の守護の為に御守殿稲荷神社をお祀りした】

 当時、徳川忠長所領の「御殿」であり、御殿の鎮守の為の神社であった。

(御殿に村人の住居は無かったと思う)

 寛文2年(1662年)代官井出藤右エ門・古郡孫太夫の時、善徳寺村を今泉村に改める。 

    

エ 文政時代、中村五郎右衛門の「今泉の燈」

 御殿の場所は、家康上洛の際の御殿跡(あと)で、駿河大納言忠長が遊猟(ゆうりょう)の時に泊まった御殿である。 昔この村(むら)の4辺の道路に木戸があった様で、それは、御殿が有った為である。

 近郷(きんごう)では、西は蒲原に東は御殿場等にあるが、その類いであると思う。


(2)徳川家康が建てた御殿の年譜(家康の交通史を含む)

慶長3年(1598) 

 秀吉死去。

慶長5年(1600) 

 関原の合戦、東軍勝利。

慶長8年(1603) 

 家康征夷大将軍となる。江戸開府。

  家康は穴山氏所縁の秋山夫人(下山局)との間の家康の5男を武田信吉として水戸25万石に封じ、梅雪との約の武田の家名を残したが、この年9月12日夭折。21歳。

慶長10年(1605)10月4日 

 秀忠征夷大将軍になる。

慶長12年(1607) 7月 

 駿府城落成。家康大御所として移る。

※この頃に善得寺「御殿」が建造されたと考えられる。

 駿河郷土史研究会「駿河」第2号14頁「善得寺御殿」によればー

 東国和尚が善得寺の再建の望みを絶たれて後、現在の地名「御殿」の地に井出藤左衛門正信が建てたと伝えられる。正信は、井出志摩守正次に養われて慶長14年2月駿府城の家康に召されて駿河代官を拝命しているから、この時期の建立と推察される。

 「家忠日記」に慶長14年10月26日、家康善得寺にて放鷹云々とある通り、家康と秀忠と何度か善得寺御殿に来た記録が残されている。

(以下省略)

慶長14年(1609) 

 家康この年以降、善得寺御殿(瀬古御殿)にて鷹狩り約10回。

(徳川実記等によれば、毎年宿泊している。)

江戸・駿府の往復の途次、宿泊所として使用。

善得寺御殿は、連泊の事もあり好かれた宿舎であった。

 後に駿河大納言の御茶屋御殿となり、大納言の失脚の後に廃却され、遺物・遺跡は全て失われている。

慶長19年(1614)10月  

 大阪冬の陣始まる。

元和 元年(1615) 4月 

  大坂夏の陣始まる。               

 同年  5月    豊臣氏滅亡。    

  (戦国時代が終わる)

元和2年(1616) 4月  

 徳川家康急死(75才)。久能山に葬る。


(3)徳川家康が建てた御殿について(まとめ)

 その事実と根拠は、家康の日記から検証される「家康の交通史」を見ても善得寺村「御殿」の存在は明らかである。

 御殿の建設については、豊臣秀吉の小田原征伐の時に建てられた吉原御殿である可能性も含めて、善得寺が滅亡して東谷和尚が再建を試みたが実現出来なかった経緯と重なる点があり、未だにはっきりした事は判っていない。

 御殿の場所は、家康が御上洛の際の御殿跡であり、尚且つ駿河大納言忠長卿が駿府城から狩猟に出掛けた時に泊まった御殿の跡であるとのことである。

※注釈【駿河大納言忠長は3代将軍家光の弟徳川忠長】

村の入口には、御殿があったので木戸が残っていた。

 慶長14年(1609年)10月26日、家康が関東に行く時に善徳寺に到着したのは、この御殿であり、その頃に善徳寺は村名だった。

 また、元和3年(1617年)、家康の棺が久能山から日光山へ移る時、富士の麓(ふもと)の善徳寺に3月15日泊まっている。   

 家康公が駿府城に居た頃、江戸を行き来し、江戸将軍も駿府へ来た事が度々あったので宿場毎に御殿があった。今泉の御殿もその頃の御殿であり、忠長の領土になっても家康からそのまま継承して宿所に使用したはずである。近くでは、蒲原や御殿場等にも史蹟があるが、その類いであったといえる。


3 駿河大納言(徳川忠長公)の茶屋御殿

(1)駿河大納言の茶屋御殿の年譜

元和3年(1617) 

 忠長甲府領主になる。(11歳)

寛永元年(1624) 

 忠長駿河国守になり旧武田家臣が隋身する。

寛永3年(1626) 

 忠長甲府から駿府に入り駿河大納言となる。

 善得寺御殿は駿河大納言の御茶屋御殿になる。

寛永8年(1631)   

 駿河大納言(徳川忠長)乱行や謀反の噂により駿府より甲府へ改易される。

寛永9年(1632)

  忠長、更に甲府から高崎へ幽閉される。

寛永10年(1633)

 忠長、自害する。(28歳)


(2)駿河大納言の茶屋御殿(まとめ)

 先に記載の文献史料からも明らかな様に、徳川家康公が建てて宿泊場所に使った御殿を、3代家光の弟(駿河大納言忠長)が駿河の領主となってから継続して宿泊場所として使用し、「茶屋御殿」として使用していました。

 駿河大納言忠長は、駿河を治めていたが、兄(家光)の命で改易処分となり、領地は没収されて、高崎に1年余り幽閉された後、寛永10年12月自害させられています。(享年28歳)

 その後、御殿は荒廃してしまい、寛永10年(1633年)から56年後の元禄2年(1689年)の御検知では、御守殿神社には氏子がいない程(領民が暮らして居ない状況)御殿跡が荒廃していた状況だった様です。

 大納言忠長亡き後70年余りの間、茶屋御殿は荒れ果てており 宝永2年(1706)、瀬古の御茶屋御殿は取り壊されました。そして、畑(空地)になった御殿跡地に水害に遭った田宿の住人が高台移転してきたとのことです。


4 御殿跡地への田宿の住民の高台移転

(1)御殿跡地へ田宿の住民が高台移転した文献

ア 今泉村宝鑑、第66番の「神社に関する記録」

 御守殿稲荷神社については、除地8畝(せ)10歩(ぶ)ある御守殿稲荷大明神で、管理を聖護院宮御先達修験(しゅげん) 御本山方祥楽院(昔、公会堂の北側にあった)がしていた。

 当社は、昔 駿河大納言様が御茶屋御殿にお越しになった時、 御殿を鎮守する為に勧請されたと伝えられているが、確かな証拠は無い。

 宝永2年(1705年)、田宿が湿地(しっち)のため農民が居住に困り、御上(おかみ)に願い出て引っ越してきた。神社を氏神として崇(あが)め、本社・拝殿等を宝永5子(ね)年(1708年)に建て替え、その時の棟札である。

※注釈【村宝鑑を書いた文政時代には、神社に宝永5年の棟札があったのだと思う。】

・本社南向、拝殿南向で、竪(たて)3間に横2間半だった。

・社内には、小祠(しょうし)(小さなほこら)が2社あり1社は秋葉、1社は稲荷であった。

 護摩堂が以前にあった所は、壊されており修復の届出をしようと畳替えをしたが、資金が困窮してしまい再建は差し置かれた。と記録されています。

※注釈【時系列】

宝永2年(1705年)

 田宿の住人が、転居の陳情を出す。

宝永3年(1706年)

 代官が御殿を壊して畑にする。

宝永4年(1707年)

 田宿の住人が御殿跡に引っ越してきた。

宝永5年(1708年)

 引っ越した住人が、氏神様の御守殿神社を建て替えた。

 前述のとおり、駿河大納言忠長は寛永10年12月、自害させられています。

 その後、今泉は代官支配の直轄領(天領:御料地)が宝暦年間まで続きますが、天明年間初期からは、沼津城の水野藩支配下となり明治まで続きます。

 忠長が亡くなった寛永10年(1633年)から56年後、元禄2年(1689年)の御検知では、御守殿神社に氏子がいなかった旨の記録があります。

 水害に遭った田宿の住人が転居してくる18年前(元禄2年)には、神社に氏子がいなかった、とは何を意味するのか?

 つまり、御守殿稲荷神社が駿河大納言の「御殿」を守護する神社であった為だと考えられます。その為、御殿地には地域住民は暮らしておらず、大納言忠長亡き後(壊すまでの70年余りの間)茶屋御殿が荒れ果てていた可能性が考えられます。

 田宿の農民が、御殿の場所に高台転居した時、御守殿稲荷神社は御殿地の隅にあって氏子すらいない始末ですから大凡(おおよそ)想像はできます。

 田宿の人達は、僅かな場所に氏神として建て替えて崇め、その後、神社周辺の土地を住民らが寄進してくれたのだと思います。

                   

イ 今泉村宝鑑、第64番の記録

 田宿の住人が御殿に移り住んで来た為、生活用水を御殿にも分水する事になった経緯が記されている。

(内容は、次のとおり)

 前々から引いてきた吹上、寺市場の用水を宝永4年の春、田宿の者が御殿に引っ越した時、右の用水の3分の1を御殿へ、3分の2を吹上・寺市場へ分水することになった。

 その為、清岩寺西側で割合の通りにする。以後は、水の過不足について争いはしない事。

 この用水についての費用は、用水の割合のとおりに御殿で3分の1、吹上・寺市場両町で3分の2を出す。もちろん人足は家別に出す。

 このように双方が立ち合って印形したので、互いに一言も言わない。

宝永4亥年(1707年)12月11日

(坂本の住人等、各代表者名と印形あり)

(その他の史料は省略する。)


(2)御殿跡地へ田宿の住民が高台移転した年譜

寛永16年(1639)     

 大津波の為元吉原宿が中吉原に移転。

万治3年(1660)      

 富士川大洪水、既設堤破損。

延宝2年(1674)      

 富士川雁堤完成。

延宝8年(1680)      

 大津波、中吉原宿へ。

天和元年(1681)      

 中吉原宿が現在の吉原宿に移転。

宝永4年(1707)     

  田宿の住人が御殿跡地に高台移転する。

 宝永大地震。富士山宝永噴火。


5 おわりに

 以上、4回にわたり富士市今泉の「御殿特集」を組んで紹介してきました。

今回を持って完結といたします。

 当初、戦国乱世からの説明が必要かとも思いましたが、善得寺の歴史には必要ですが、家康の御殿では戦国時代は左程重要ではないと判断しました。

 一つだけキーワードになるのが「印判衆」と云う土豪の存在だと思っています。

 戦国時代には富士郡下では今川・北條・武田などの領主が何度も入れ替わりました。

 しかし、その都度、地元豪族や神社(大宮浅間神社等)などは領民を管理するために所領を安堵されています。大名が変る都度、新しい印判状による安堵が印判衆や在地勢力者に発行されて統治し、所領管理が行われてきました。

 今泉周辺では、東泉院・須津衆や富士川の渡船権利を掌握していた矢部家等々がそうした在地勢力でした。

 ところが、ここ善得寺領(3500石)は武田の侵攻によって滅ぼされ、武田氏の郡内支配の下、穴山梅雪の領有となって家臣等の入植が行われ、しかもその武田氏も僅か10年程で滅亡する運命を辿るなど激変し、徳川の直轄領(御料地)として代官管理が行われた場所です。

 つまり、城をも兼ねた大寺院「善得寺」が滅び、家康が御殿をそこに建てたのも代官管理下の直轄領(御料地)であった経緯が関係していると考えられます。

 御殿については未だに判らない点が沢山ありますが、判る範囲でお伝えしてきたつもりです。

 今泉地区では、今年も3月1日に「善得寺祭り」が催されます。

 「御殿」の文化的重要性については、ここ「古民家ギャラリー懐古庵」からイベントやブログを通して発信してきましたが、この度、善得寺祭り主催者「今泉まちづくり協議会」運営責任者らのご理解とご協力が得られ、善得寺祭りで「御殿のパネルコーナー」を設けてくださる事になりました。

本当に感謝の意に絶えません。

 非常に複雑な時代背景を、戦国乱世から江戸時代初期までの年譜を作って説明しようか と考えています。

出来るだけ判り易いパネル説明にしたい と思います。

 地元の者として、ここ「今泉御殿町」に江戸時代初期、大御所(徳川家康)の善得寺「御殿」が存在した事を知って頂けるだけでも大変有り難く思う次第です。  謹記


        古民家ギャラリー懐古庵