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偉人『手塚治虫』

2026.02.13 00:00

これまで「偉人」について記事を記してきたがどの偉人も自分自身の道を切り拓いたことは確かである。しかしこれだけの偉人を見てくると偉人にも様々なタイプがあることに気付く。「THE 偉人」と言われるのが世界をひっくり返し変化を起こした偉人たちで、ナポレオン、織田信長、キング牧師のような偉人を私は革命型タイプと呼んでいる。次に人を導き、組織や国家を成功に導くネルソン・マンデラ、徳川家康、ワシントンのような指導型タイプの偉人、そしてエジソンや野口英世のような地道な努力や継続で偉業を成し遂げた実践型タイプ、他に思想や哲学によって人類の思考を変えた思考型タイプ、人道的活動や奉仕で大きな影響を与えた救済型タイプがあるが、今回登場する『手塚治虫』が属するのは創造型タイプである。創造型タイプは新しい理論・技術・芸術を創造し独創性が高く、好奇心旺盛で一人の時間を大切にするタイプが多く、未来を作る人としての位置付けがありレオナルド・ダ・ヴィンチ、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズなどもこのタイプに当てはまるだろう。

漫画は各国に存在するものなのになぜ日本の漫画だけが世界的に人気があるのかを考えるよく耳にするのが欧米のコミックはヒーロー中心の構造が多いのに対し、日本の漫画は単なる娯楽性だけではなくストーリーが複雑で「生と死」「正義の相対性」「孤独や成長」「社会構造や戦争」「人間の弱さや脆さ」など人間の内面に切り込むようなテーマを真正面から描いている作品が多く、特に主人公が葛藤しながら成長する物語は海外で人気がある。そのような日本の漫画を一躍有名にする基礎を作ったのが漫画の神様と言われている手塚治虫である。今回はそんな手塚治虫がなぜ日本の漫画界に確信を見たらすことができたのかを父との関係性を重視し考えてみることにする。

1928年11月3日大阪府豊中市生まれ、兵庫県宝塚市で育ち本名:治は漫画家でありアニメ監督、そして医学博士の肩書を持つ。幼少期は自然に囲まれた宝塚市で昆虫採集に明け暮れ、家庭では映画に夢中だった。ここでお気づきの方は「手塚治虫」というペンネームは虫が好きだったということから「治虫」にしたのではないかと推測するだろう。まさしく彼は「オサムシ」という昆虫にちなんでペンネームをつけたのである。幼い頃の治虫は病弱ではあったが自由に好きなことができた。そしてその自由さは父からの影響が大変大きい。父の粲(ゆたか)はハイカラで早くから映画やカメラ、洋楽に親しんでいたモダンな人物であった。活動写真(映画)好きで当時としては珍しく小型映写機を手に撮影をしており、またディズニー作品などの海外アニメーションを治にたくさん見せていた。幼い治虫は『バンビ』『ミッキーマウス』などを繰り返し鑑賞し、とくにディズニー作品の滑らかに動く表現に強い衝撃を受け、その体験がのちの「映画的コマ割り」「大胆なアップ」「スピード感ある演出」に繋がったとされる。手塚漫画が“動いているように見える”と言われるのは、子どもの頃父の影響で映画を浴びるように見ていた環境があったからだといわれている。手塚治虫はのちに「父が映画を見せてくれなかったら、今の自分はなかった」という趣旨の発言をしている。手塚治虫ワールドの基盤を築いたのは幼少期の家庭環境と父の影響があったからである。


また父はサラリーマンでありながら、文化や芸術に理解のある人物で家には多くの本があり、自由に読ませてくれ、漫画を描くことを強く否定しなかった。戦時中でも比較的リベラルな考えを持ち漫画を「くだらないもの」と頭ごなしに否定せず、見守る姿勢だったといわれている。そのように記すと父は治虫を大変理解し、彼の行い全てを受け入れていたと思われがちであるが、実は父と治虫は少し距離があった。父は厳格というよりはクールで理知的で子供を溺愛するタイプではなかった。必ずそこに一線を引き冷静に息子の行く末を考えていたのである。息子には安定した職業に就いてほしい、医者という社会的に評価の高い道を望み、戦後の不安定な時代に芸術一本は危険だと考えていたのだ。つまり息子の行動を理解する父親でありながらも、息子の進路や生き方には一石を投じる父であり、その一石が父息子の間に緊張感を走らせていたのであろう。

しかし漫画を描くことを否定しない父の考えと将来を案じる親心を知ってか、治虫は大阪帝国大学附属医学専門部に進学する。しかしこの医学部進学は事実上の「漫画一本で生きることへのブレーキ」でもある。親であれば何とかもう一つの道を確保する扉が開いたと感じたであろう。しかしである。この漫画と医学の道を歩み出したものの在学中に猛烈に漫画に夢中になってしまったのである。しかし医学の道に邁進するのではなかったのかと親としての葛藤はあったかもしれぬが、治虫の父のすごいところは冷静に「医者の資格は取れ」という現実を厳格に提示する理性の人であり息子の現実と夢の調整役だったとも言えるだろう。

そして治虫に最も影響を与えたのが父・粲の生きるスタンスである。1930年から40年台は日本は軍国主義真っ只中である。しかし父はその軍国主義に熱狂するタイプではなく、比較的理知的で冷静な人物だったため戦時中も家の中まで軍国主義一色にすることはなかった。映画や西洋文化を好み、極端な思想に傾かない、子どもに多様な文化を触れさせることを行った。治虫は空襲体験や学徒動員、友人の死がトラウマとなってしまったが、父が極端な軍国主義者でなかったことが、「戦争は正しい」という価値観を植えつけず、家庭内に“思考の余白”があり、文化や芸術を守る視点があったからこそ治虫の作品の「疑う力」の源になったのではないだろうか。例えば『鉄腕アトム』では科学は兵器ではなく希望に、『ジャングル大帝』では命の尊厳、『アドルフに告ぐ』ならナチズム批判、『火の鳥』なら人類の愚かさと再生、『ブラック・ジャック』なら 生命至上主義などに。私は手塚治虫作品に出会ったのは父がたまに連れて行ってくれた沖縄そばやであるが、父は手塚治虫の漫画は読んでおくべきものだと帰りの車の中で熱弁していた。漫画雑誌なかよし世代の小学校3、4年の私には手に取れずじまいであったが、今回この記事を書くにあたり父の言葉を確認しようと古本屋で買って読んでみた。そこで私なりの結論が出た。もし治虫の父が軍国主義を家庭に持ち込んでいたら、手塚治虫作品の「命は何より重い」という一貫した思想や人間だけでなく動物・ロボットも“心”を持つ存在として描枯れたり、戦争や差別への強い批判などの生命尊重とヒューマニズムだけで終わっていたかもしれない。しかし理性で物事を俯瞰するという父のお手本があったからこそ治虫は漫画の中に「科学倫理」「生と死」「権力批判」「宗教的テーマ」などをエンタメと哲学の融合として深い問いかけを盛り込むことができたのではないだろうか。親が理性を持つということの重要性を今更ながら実感した偉人手塚治虫であった。